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自分に出来ることは何か:まるで禅問答のような

2020/5/4 am3:48のtweetより タイトル修正

こんな状況下の中で自分に出来ることは何か、

という思考が何周かする。当たり前だが出来ることしか出来ない。無理しない背伸びしない。が、無理しても背伸びしてもいいでもある。少し前であれば、私は何かをしなければならないになっていた筈。エゴは巧妙で、納得のいく思考の罠を幾らでも掛けてくる

楽な方に流れるのは見たくない何かがあるからか。勿論、無理してきたものがぷつんと切れるように寝続けることだらけ続けることもあるかもしれない。本当は欲していた休息で、必要な休息だったんだろう。それが悪い訳でもない。ただ出来れば、自分の意識状態は俯瞰して確認していたい

例えば何を焦るのか。こんな状況下なのだからと、何をしなければならないと何故思うのか。それは安心の為にすることか。何の為にすることか。或いはまた誰かと比べて、出来ない自分を責めるだろうか。また、許しは誤魔化しになっていないか

また、誤魔化してはいけないでもない。選択の問題。誤魔化した結果を知っていて選択するかしないかの問題。或いはそもそも知らない。またそれを罪と批判する口は持たないが。

無理しても背伸びしてもいい、それは求めることをやってみるということ。だらけ続けるのもひとつの求めになるだろうか。けれどもやってみてやり尽くしてみて得られることもある。それを例えば無駄だったと後悔するかどうかもその時に分かる。無意識の何かしらの思いが求めさせたと理解できたらいい。出来なくてもいい。

何かしらをやり尽くしてみて、それでも湧いてくる 例えば何かを表現したいという感情を大事にしたいと思う。本音は誤魔化しなく、湧いてくるままに(呼吸するように)表現をしていたい。

その表現は、結果として何かを救うこともあれば自己満足の昇華で終わるのかもしれない。その表現が、恐れを源泉にしたものでなければいいと思う。

生きている自体が呼吸から始まる表現で、創造でもある。どんな形の自分に拘っているだろう、それはどんな風に自分を固めているだろう。

時に、固まってしまった自分を壊してみる為に、敢えてやりたくない事をやる事も大事なんだけれど…私にとっては特大ブーメランであることは確かだ。

けれど感情が、言葉や表現を生むことも知っているから、だから 何が真実正しいということは、やはりないとも思える。

人はどうあっても各々、自分の世界/主観に生きているので それは酩酊状態とも言えるが こうするべき/これが正しいという信念を無意識でも持っていてそれを押し付けもする。自分にとって(都合よく)好ましい哲学/思考(行動)になっていくが その前に 果たして自分が酔っている世界とは、に出来れば目を向けたい。

押し付けられた、植え付けられた価値観でいては苦しい。苦しいことにも気付いていないことも有り得るが。或いは、そのままである方が楽であることも確かなのかもしれないが。苦しいなら、自分の価値観や信念を疑ってみることも一つだ。

まあ、それでまた自分は何が出来るのかに戻っていくのだけど 私は。


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