4月2日 「そよ風みたいに?」

なにかの話をしていて甥が「そよ風みたいに?」といった。
大きな陽が垂れるようにおちる室見川を歩いているときだったか。ブルーナの絵の原画の場面を、あとからあてはめるようにストーリーを読んでいたときだったか。それを今日、思い出そうとしていた。
なにかのはずみで応答し損ねたときのことで、受けとったまま宙に浮かんでしまったのだ。
声の背景にあったのが室見川だったという記憶映像と、展示室の子どもいすで横ならびのとき(こちらは映像というよりも、「近さ」のなかにいるような)だったという感じが残っている。記憶のなかの会話に、「そよ風みたいに?」ということばが紡かれるように、思い出そうとしている。

ブルーナの絵本に、くんくん(スナッフィー)という犬が火事の家をみつけるお話がある。犬は火事を消防士にしらせて、消防士が火を消して火事がおさまる。犬に礼をいう消防士は、このようにいう。
「家をたすけてくれてありがとう」
なかの人がどうという話がなく、「家をたすけてくれてありがとう」ということばだったことを、甥はおもしろがった。
「きれいないえ」はだれのいえだったんだろう。わからないけど、とにかく家はたすかった。人が住んでいなかったのかな。家は家としてそこに居たのかな。(家くん)。そのとき誰もいなかったのかな。そのとき誰もいなかったみたいに見えるね ─そよ風みたいに?

あるいは。
室見川を歩いている。桜が咲きはじめてる。何分咲きというのかな、まだ満開じゃないね。あと何日かだね。ねーはやくおにぎり食べよう。あの桜の下にしよ。(ベンチ、少しぬれてそう)芝にする?花びらじゃなくて、花のまま落ちてくるね。桜キャッチじゃないね。「散る」のは、もっと咲いてひらいてからだ。ここにもベンチが(ぬれてそう)。歩いて食べよ。梅しそおにぎり、いちばん好き。Sから電話。自転車を、ばぁちゃん家に置いてきたままだったと気づいたんだって。だから歩いてくるって。ばぁちゃんちにかえったら、自転車があるってこと。ぼくは帰るじゃなくて、行くだよ。甥の頰が、りす並みにふくふくひろがっている。とても近くにいる感じがする。(陽がまるくおおきく、液体が垂れるみたいに注いでいる)自転車ばぁちゃんちに置いて、そのまま忘れてたの? ─そよ風みたいに?

こうして思い出そうとする行程は、コント(conte)の創作にも似ているのかもしれないと思う。
もしくは、こないだ見た短歌をつくる番組。ある場面の情景のなかにある一語が、付箋で隠されている。そのカッコにどんな言葉を入れるかで、歌でえがかれる情景が一変してしまう。一語によって歌はまったく変わってしまうのだと。
今それと逆のことをしている。一語がきらめくための情景を描かなくては、ことばがはまらない。どこか浮いたようなことばだったはずなのだ。
言う声と表情、身体性のかんじを、「照れ」や「気持ちよさそう」といった言葉以前の感触で、記憶されている。とても近くにいた。
真意をつかみそこねた、そよ風みたいに。

今日の午前は、予約していた相談窓口からの電話で、登記の不明点を少し聞いた。予約の時点でいちばん聞きたかったことは、その間に解決してしまっていた。

雨の夜。春も、雷が多い。深夜、布団に潜ると風も強かったのだなと音をききながら就寝した。雷はめざめた早朝にも鳴り響いていた。

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