新しい大陸に向かっている、ノアの方舟から見えるもの

2024年、51歳。

幼い頃から、体を動かすことと、音楽表現が好きだった。
両親は、裕福な家庭でもないのに、
水泳、エレクトーン、剣道、お絵描きなど、
様々な習い事をやらせてくれた。

その中でも、お絵かき、音楽など、表現の世界が、
わたしの喜びを引き出してくれた。


小学校2年生の時、何を考えたのか、
誰にも伝えることなく、夏祭りののど自慢に応募した。


ものすごい音痴ということも、考えもせず、
とにかくとにかく、何かを表現したかった。


言葉が得意ではない子だった。
当然、友達作りもうまくいかない。
それでも、心の中は、表現したくて、
ウズウズと待ち構えているもので溢れていた。


後先考えず、堂々と、喜びに溢れるまま、
歌い上げた。

歌い始めた瞬間、
ものすごい音痴だったからか、
ざわついていた同級生たち、
からかい半分に笑っていた人たちが、
会場中、一斉に息を呑むように、
シーンとなった。


今でも、鮮明に覚えている。


その後、そのことに触れる同級生は一人もいなかった。
両親も、特に話題にも出さなかった。

同じマンションに住む伯母が、「頑張ってたね。」とニコリ。
それだけだった。


表現が大好き。


でも、あの日のことを思い出したり、
これまでの「わたし」から出る表現を客観的に見ようとするたび、
溢れてくる「羞恥心」の中に自ら溺れてきた。


素直なわたしを出すことが、いつしか、怖いと思うまでになっていた。

自分が見えない。自分がわからない。

当たり前のように、
そんなわからない自分のまま。
何やっても、何もいいものを生み出せないまま。
素直な自分が恥ずかしい。怖い。
他社の役にも立てない。
無価値観。


そうやって、ずっとずっと自分に思い蓋を載せ続けてきた。
なんとなく気づいていたけれど、
もう、厚い壁の中の居心地の良さから、
扉の開け方すらわからなくなっていた。


表現したい、表現を届けたい、そんな想いに溢れているのに、
いつも、壁を閉ざしたまま、
本当の自分自身とも出会えないまま、
他者とはやはり本当の意味で繋がることができないまま、
どうやったら、思いを届けられるのか。
もう、扉の開け方もわからない。

悶々と、鬱々としながら、繋がれない風景を見ている感じだった。

そこは、究極の独りよがりの世界。


わたしは、この先、いったい何を表現し、
この社会に、この世界に届けていくというのか。


そんな想いに駆られながら、半世紀が過ぎた今、
母になり、いのち、存在の尊さに触れ、
両親の最後を看取り、あの世に旅たついのちも、
あたたかい愛の手に包まれていく様子を目の当たりにし、
「生かせいのち」の言葉が優しい響きとなって、
光のようにわたしに届いている。


人間中心の世界ではない、
生きとし生けるもの、
一見生きていないように思える石や、
見えないところでのいのちの営みも含め、
この生命体、母なるガイヤ、
父なる、大いなる宇宙ともつながり、
共に、地球、宇宙、このいのちを讃えたい。


愛、光の存在として、
この地球に生まれることを選んできた、
この肉体を持った存在として、
大いなる喜び、遊び、素直、

そんなバイブレーションを発していきたい。


わたしが奥底から喜ぶ、目指す「表現」の形が、
新しい大陸が見えてきたように思う。




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