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親からいただく最期の教え。

2日に父が他界した。
この1ヶ月は良い時間を過ごしたのではないかと思う。
特に、亡くなる前の2日間はとても満たされるものだった。きっとあの時間の流れを私は一生忘れないと思う。それくらいあたたかい光に包まれていると感じるような時間だった。

私は、自然療法と錬金術を生業としていて、この仕事を始めてからずっと事あるごとに父に触れてきた。家族のケアもできずになにがセラピストか。というのが私の信条だったので、家族に触れるということをできる限りしてきた。

しかし、ケアをしていても病気や怪我はするもので、父は何度目かの入院を1月にすることになった。コロナの影響で1回の面会は1日1回15分まで、そういう制約付きのものだった。


15分でできることは限られているけれど、何もできないわけでもない。やれることをやれるときにする。というわたしのモットーは今回も発揮され、病室でこっそりあれこれ試したりした。


ゆっくりと体に触れる時間も持てるようになったのは、容態がわるくなり特別面会になり時間の制約が取れてからだ。そして、もっと自由にできるようになったのは個室に移ることができてからだった。コロナがなければね。もっとがっつりケアできたのになぁと思わなくもないけれど、これを言い出したらキリがないので、そういうことを考えることは一切やめた。


どんな状況であれ、そのときの最善と思うことをやれる分量やる。これはサロンで仕事をするときも、病院でも同じ。だって、それ以外に方法がないのだから。


11月の中頃くらいだったか、医師から数日以内にどうこうってことではないが、寿命が近づいてきているという話があった。その後、落ち着いて父の体に触れた時、体の中に何の後悔も未練もないことがわかった。そして、父はこの肉体のエネルギーを文字通り、全て燃やし尽くして逝く気なんだとわかった。


それを感じたら、目を閉じて足に触れているのにボロボロと大粒の涙が溢れた。それは残りの時間が少なくて悲しいからということではなく、後悔や心残りなどの淀んだものがない父のエネルギーの美しさを感じれば感じるほど、ある意味、天晴れと思う気持ちと、それのもっと奥で時間は有限であるという希少性を感じたからだ。


それから少しして母の兄が亡くなった。その報告を聞いた父は、わかっていたか、わかっていなかったかはわからないけれど、寂しそうな顔をしたらしい。私は叔父に「一緒に連れていくとかは無しで!」とテレパシーを送り、父には、「今はまだあかんわ。」とテレパシーを送り続けた。


私は、父は必ず自分の亡くなる日をみんなにとってちょうど良い日にするだろうと思っていたので、テレパシーを関係各所に飛ばしながらも、父はまだもう少し私たちのそばにいてくれるだろうと予想していた。それは、母の心のために。母にとって一番痛みの少ない日を父も選ぶはずだと。だって、母のことが大好きだもん。お父さん。


それから程なくして、父のお見舞いの種類が特別面会というものに変わり、面会の時間制限がなくなったので、私たちはお見舞いの時間を増やした。自分たちの心のために、父との時間のために。


母も私も働いているので時間を縫って会いに行く時間は、母娘の語らいの時間にもなった。父の時間は確実に減っていると実感することやお互いに覚悟が日毎に深まっていっているというお互いの質感を感じながら、でも、そこには触れず、いつもどおりの会話をしていた。家族ならではの、言わなくてもわかる。言ったら涙がでちゃうもんね。私たち涙もろいし。という優しい察し合いである。同じことを思ってるから。思い合ってこうしていることをお互いわかっているから、これでいい。そうやって過ぎていく母との時間。私と母の思いやり合いの形の1つはこういったものだ。


病院では、ゆっくりと命の時間をすすめている父の体に時間の限り触れる。そんな日を過ごしていたある日、父の足を触っていて、ふと目を開けて頭の方を見たら枕元でじっと父の顔を眺めている母の姿が目に入って、その姿を見たら、喉にグッとくるものがあった。今日の父の命と今日の父の顔をゆっくりと記憶に刻んでいるような姿だった。たぶん、あの姿も私は忘れないだろうと思う。延命はしないと話し合ってきた父母だったけど、父の意思を尊重するということと迷いの間に母が立っているのを知っていたから。1つ1つ決めてきたことの重みを垣間見た気もした。


「またね。」と言って病室を出るけれど、その「またね。」はないかもしれないなと思いながら毎回帰る。母の気持ちはいかほどか。
娘は、親の方が先に死ぬって最初からわかっているから、その点では幾らか強いのかもしれない。わたしはこれから母をどのように支えていくことができるだろうか。


人間だれしも致死率100%だけど、両親が逝った後、わたしは独身だし、どんな風に死ぬのか、どんな孤独を感じるのだろうかとふと恐ろしさが心を横切った。まぁ、でも、姪っ子もいるしね。とサッと払拭されたけれど。そういう恐怖心を持ってたんだなぁと気付くことにもなった。たぶん、みんな感じるようなものであろうと思うけれど。自分の中にも、あったはあった。これは1つの発見だった。


わたしはご病気になられたお客様の病室で施術することもあったので、「また来ますね。」の「またね。」がないということを経験している。確かな明日、次というのはない。だから、今日、後悔なきよう触れて話しかける。を徹底してきた。病室を出る前、何度も、何度も自分の心に確かめる。
心残りを自分の中にも残さないためだ。


後悔の痛みをなるべく減らすことは、生きている間にできるから。優先順位を間違えてはいけないと思う。
今日、何が一番大事で、今できること、最善だと思うことを全部やっていくしかない。


父との時間は、しあわせだった。
今ここに、わたしの全部を存在させることができたから。わたしは確かに、父のそばにいて、父のことだけを見て、そこにある時間だけを大切にして存在した。全意識で今にいる。ここにいる以上に大切なことは、この瞬間にはないから。こういう時間って、本当に密度が濃くてあたたかい。ちょっとした永遠性まで感じた。


父が亡くなる2日前。
その日は今思えば、父が最後の力と気力を振り絞って頑張っていたのだと思うのだけど、いつもよりも長い時間起きていたので、わたしも母も嬉しくて、父に「大好きよ〜」と言いまくってみることにした。


「お父さんに大好きって言ったら心拍上がるかなぁ?」と言いながら、私が「お父さん大好き」と言ったら、ピコンとモニターの心拍数が上がって「おおおお♡」と母と2人でなって、母も「大好き♡」と言ってみたら心拍は上がらず「なんでやねん」と関西人らしいツッコミを入れたりした。


私は心拍のモニター画面を見ていたので気付かなかったけど、母曰く「うんうん」と嬉しそうに顔を少し動かしていたらしい。私たちも父も嬉しい時間。今、思い出しても、我が家らしいやりとりでとても幸せだ。愛しい時間。あの時間は宝物。


ずっとお願いしていた個室に移れたこともあって、周囲を気にせず過ごせる時間の良さをもっと味わおう!ということで、昔バンドマンだった父の好きな音楽でもかけてみるか。とビートルズのYouTubeをかけてみると、じっと画面を見ていた。画質の悪い動画だったので、ちゃんと見えていたかどうかは定かではないけれど、画面を動かすと目が動いていたので、何かは見えていたのだろうな。好きだったことはやはり心躍るのかな。良い空気が流れた。


そういえば、知らないことがあった。「お父さんのバンド名って何だったの?」と母に聞いた。チケットが全然手に入らないとても人気のバンドだったらしく、ビートルズが初来日する時の前座の依頼がきたけど断った。という逸話もある。その話はいろんな人から聞いたけど、バンド名を知らなかったのだ。


「シンギング ジャンボリーだったわよね?」と母が父に聞くと父が頷いた。反応の速さをみて、話わかってたのねと私たちは喜んだ。こうやって知らなかったことを1つ、私の記憶の中に入れていく。1つ父の歴史を受け取った気持ちで嬉しくなった。なんと単純なことだろうか。


それから父の目がまだ開いていたので、3人で写真を撮ることにした。これが最後の写真になった。今見ると、意思を持ってちゃんカメラを見て写真に写っていた。父の気力だったんだろうな。その日はたくさんの話を病室でゆっくりして、いい時間だったなぁと満たされて家に帰った。


そして、翌日、血圧が下がってきたと連絡があって病院に行くと意識はなく眠っていた。いつも通りのヒーリングをして、大丈夫そうかもと母が一度、家に帰っている間、私と父は2人きりになった。


とてもお天気のよい日で、窓の外の空や太陽の光が美しく、ポカポカと日光浴をしているような気分。父の好きそうな音楽をかけながら、父の隣に座り、本を片手に、もう片手で父の手の甲をなでなでする。


とても静かな時間。あたたかな光で包まれていて、ゆっくりと時間が流れている。本来、時間というのは、こういうふうに穏やかに、この瞬間、瞬間満ちて流れていて、私たちはその美しさをただ味わっていればいいだけの存在なのかもしれないと思ったりした。何もしてないけれど、何よりも満たされている特別な時間の中にいるんだという実感があった。なんていうんだろう命の熱量を感じるとでもいうのだろうか。あたたかいのだ。


命の雫というものがあって、砂時計のように上から下へとそれがポトン、ポトンと光を放ちながら落ちていくのだとしたら、父のそれは特別ラインに入っていて、美しい光を色濃く放っているように感じた。余計なものが削ぎ落とされて、それそのものの姿の光とでもいうのかな。うまく形容できないけれど。


それはポカポカの日差しを感じるお部屋の中で、その温もりと明るさに包ままれながら、赤ちゃんを寝かしつけて、スースーという寝息が聞こえてくるような幸せな空気と似ていて、とても心地よく、何もないけどパーフェクトだと思えるものがあった。


とても大切な時間を過ごしているという実感がこの時間をさらに美しいものに感じさせてくれているようにも感じた。そんな風に時間を過ごしていたら看護師さんがやってきて、「血圧落ち着きましたね。」と。


音楽を聴くことや、手で触れることの素晴らしさはこれだよな、と思う。よかった。触れることができて。音楽をかけれて。


静かな病室でいまは母もいないし、照れ臭くないから、寝ている父に向かって伝えたいと思っていたことを伝えた。「お父さんの子供で大満足です!ありがとう。」これまでも触れながらそう思ってきたけど、声にしてみた。


聞こえていたのか、どうかはわからないけれど、こういうのは、エネルギーだから、きっと届いているのだ。

そして、また、本を片手に、父の手を撫でたり、押したり。
大きな手。あらゆるお肉が削ぎ落ちていたけれど、大きな手は変わらず、こんな手だったなぁとここぞとばかりに握ったり撫でたりした。優しくあたたかな人のエネルギー。我が父ながら、素敵な人なんだなぁと感じながら過ごした。

その後、私は仕事に戻ることにした。もし、明日何かあったとしても、後悔ないくらいには触れたし、話しかけた。これでいいんだよな、と確認して、自分が納得してから「一旦、帰るね。」と病室を出た。


そして、翌早朝、父は旅立った。
私のスマホは、ここ数ヶ月、寝る時は音量を最大にしていたのに、母の鬼電の音を全く知らせず、寝ている間に逝ってしまった。父が逝く1時間半くらい前までは起きていたのに。


起きて着信履歴をみて、あぁ、逝ってしまった。と思った。
私は、自分は父の最後をちゃんと看取れると思っていた。絶対、私を呼ぶでしょうって。でも違った。


なんで気づかなかったんだ。という気持ちのあと、「お父さん、起こしてよ。ちゃんと。」と子供の頃のように思ったけど、まぁ、父なら私を起こさないだろう。それもわかる。そういう人。わたしがその場に居なくてもよかった理由もあるんだろうなと思った。「けどさ。」と泣き笑いしながら実家に向かう準備をした。


その日、私は目覚ましが鳴る時間でもなんでもない「なんでこの時間?」って思う時間にバチッと目が覚めて起きた。自分が起きた時間は、私が準備をして家に着く頃に、父が病院から家に戻ってくる時間くらいで、うまいことなっていた。ならば、慌てて帰るより、自宅で祈りを捧げてから自分を落ち着かせてから帰ることにした。だって、もう私の近くにいるでしょう?お父さんって思って。


結局、他の家族も病院に着いた頃には逝っていたらしく、母がどこかで口にした「みんなが寝ている間にスッといくのもいいわね。」これが叶っていた。母の兄もそのようにみんなが眠っている間に逝った。照れ屋さんたちは、みんなに囲まれながら逝くのが照れ臭かったのかななんて、都合よく解釈したりして。


家に帰ったら、綺麗になった父が寝ていた。
亡くなったら一度家に帰してあげたいね。という話をしていたので実家に戻すことにした。父のいる実家はいつぶりか。ここなら好きなものをお腹いっぱいたべられるものね。私たちもしてあげたいことをしてあげられる。


最後は食べることができなかったので、お腹いっぱいにしてあげたい。
食いしん坊な料理人の父は食べたいものがたくさんあるはずで、入院中に食べたいものはある?と聞いた時に答えたものをみんなで順番に食べていくことした。


家族だけでワイワイと美味しいね〜といって食べる。
帰ってきた日から告別式の夜まで、みんなで父の食べたいものをたらふく食べた。お正月かな?というくらい姪っ子たちが賑やかにしている家を見て、こういう景色を父は見たかったのかなと思った。

おいしものを作り、人をもてなし、楽しみ、喜ばせるのが好きだった父。
最後に見たいものは、家族の笑顔だったのかもしれない。告別式は誰も湿っぽくならず、みんなワイワイしていた。
この数日は、お父さんの食べたがっていたものをみんなで食べたけれど、逆に、お父さんからのおもてなしを受けたみたいに感じるね。と母と話した。


「そうねー。」と母も同意する。
父の作った我が家の象徴的な姿、光景は、父が帰ってきたこの3日間に凝縮されていたのかもしれない。父は居なくなったけれど、父を見送るどの瞬間でさえ、満たされて過ごせた。寂しいなとは思うけれど、じゃあ、後悔があるかと言われたら、ない。母もないと言っていた。幸せなことだ。


大人になってからはさほど接点もなく過ごしてきたけれど、それを充分に補うほどに幸せに父の子供をやっていたんだと思う。特に、父にして欲しいこともないし。充分な愛をいただいていたと思うの。重箱の隅を突いて何かを出すとしたら、もうちょっと甘えておいてもよかったのかもしれないな〜くらいかな。けど、別に、それも、絞り出してそれって感じだし、やっぱり甘えそびれたとかもない。


姪っ子たちも、おじいちゃまは優しかった。いつもニコニコしていたと何度も言っていたから、みんなに優しかったんだね。姪っ子たちの中にも父がちゃんと残っている。ずっと父の話をしていける。ありがたい。


やっぱりパーフェクトだったのだ。
人は生まれる時も、去るときもパーフェクトなタイミングを選んでる。


私は、最後にね、命の終い方を教えてもらったと思っている。
後悔、未練なく、肉体の全てのエネルギーを燃やし尽くして空に戻る姿。父の今世でのカルマをこちらに置いていけるようにとヒーリングする日々は、私にとっても美しい時間だった。


人は生まれてくる時も、亡くなる時も、最高に純度が高いのだと思う。だから、その体や心、エネルギーに触れられることは非常にありがたいことなのだと思う。そうやって触れた感触やエネルギーが私の中に蓄積し、わたしになっていき、これから共に生きていける。これからの私に必要な分量は、ちゃんと受け取ったと思う。こんなに心強いことはない。


美しい命の光とぬくもりを体験した。
これは親だけが教えてくれる最後の光なのかもしれません。

お父さん、ありがとう。
私はあなたと母の最高傑作!
何度考えても、わたしはあなたの子供で大満足です。
お父さんもそうでしょう?
いろいろあったけれど、いい親子、家族だったんじゃないかな?
娘からは100点差し上げます。

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