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「旅の鳥・*・第四部」

第5章 「迷い鳥」

楽園の丘を離れ、数キロほど北へ飛んだところに、豊かに葉を茂らせたカシワの群生林が広がっていた。

ポーは沈んだ気持ちのままそこに辿り着くと、あちらの木、こちらの木と飛び移り、落ち着けそうな枝を探した。

そして気に入った枝が見つかると、しばらくの間じっと佇み、物思いにふけっていた。

そうしている内に、数日が過ぎて行った。

ある朝のこと、灰色の雲が空に垂れこめて薄暗く冷たい朝だった。

ポーが羽を休める枝近くに、一羽のモズがやって来た。

モズは、「キー、ツツツツツ…」と高くいななき、ここが自分の縄張りであることを宣言すると、鋭い眼光で辺りをぐるりぐるりと見回した。

そして枝々を這う虫や、飛び交う蜂を狙っている様子だったが、その眼は、ポーの姿をもはっきりと捉えていた。

まるで自分が狙われているように感じられ、ポーは全身には緊張が走った。

ポーは頭長の毛を立てながら、両羽を二、三度、大きく震わせると、力いっぱい枝から蹴り上がり、北方の空へと飛び立った。

そして、力任せに翼を羽ばたかせた。

ぐんぐん風を切って飛んでいると、このままどこまでもまっすぐに飛んで行こう、そんな思いが湧き起こり、ひさびさの長飛行がしたくなった。

ポーはその日、夕暮れ近くなるまで休まずに、北へと飛び進んだ。

楽園の楠木が言っていた「北の岬」はどこにあって、古木がどの辺りにいるのか、何一つはっきりとわからなかったのだが、それでも、必ずそこに辿り着く、という迷いのない気持ちがポーの心を支配していた。

太陽は徐々に沈んで行き、まだ陽光を残す空に星明りが小さく灯り始めた頃、ポーは、今までに見たこともない景色の中へと飛び込んだ。

辺りは一面黄土色の砂で覆われ、砂地はところどころ盛り上がり、またくぼんでいた。

広大な砂丘に辿り着いたのだ。

飛べども飛べども砂の丘、そこに風が白い波の線を描いては消し、消しては描く。

始めの内はその光景に、見飽きぬ面白さを感じていたのだが、次第に夕闇が迫るにつれて、暗くなって行く砂の色は、ポーに無限の恐ろしさを感じさせた。

早くどこかで羽を休ませなくては…、そう思っていると、ポーの耳に、風とは違う音が聞こえた。

「おーい おーい…」

それはかすかな声だったが、何かが自分を呼んでいるようで、ポーは直ちにその声のする方向へと目を向けた、そこに小さな青い塊が見えた。

「あれは木だ、あの木が呼んでいるのかもしれない。」そう感じて、ポーはうれしくなって近づいて行った。

青い塊がどんどん大きく見えて来ると、何とそれは、巨大な柱サボテンだった。

サボテンは頑丈な柱のような中心の幹から、トゲだらけの太腕を、何本も天に突き上げていた。

「あのトゲに刺さっては、たまらないな…。」

あてが外れて、ポーはがっかりと、別の木を探そうと思った時、また声がした。

「おーい そこの迷い鳥 よく来たな 

迷い鳥よ ここまでよく来たな…」

目の前の柱サボテンが話しかけて来たのだ。

近づいてよく見ると、サボテンの右下の腕にはくぼみがあり、他のみずみずしい青緑色の腕とは違って、そこだけトゲが無く、茶色い樹皮のように固くなっているのが見えた。

ポーは、周りのトゲに気を付けながら、両翼を垂直にして、慎重にそのくぼみへと降り立ち、ゆっくりと翼を閉じた。

そして、サボテンの中央の幹へと話しかけた。

「あの…、わたしを呼び止めてくださったのはあなたですね。
ありがとうございます、おかげで今晩はここで羽を休めることが出来ます。

でも、わたしは迷い鳥ではありませんよ、今は旅の途中なんです。」

すると、サボテンはすぐに答えた。

「おやおや 今なんといったかな 小鳥よ

ともかく ここまでやって来たものは 何であれ

迷っているに違いない お前さんはきっと 迷い鳥さ」

ポーからしてみれば、ずいぶんと失礼な話だったが、サボテンの声は、少しふざけているような、あたたかみのある響きだったので、どうにも返事のしようがなく、黙って首をかしげた。

するとそこに、風がぐっと水気を帯びた空気を運んで来た。

ポッ ポツ ポツポツポツ ザーー ザーー

途端に大粒の雨が降り出したのだ。

ポーが驚いて天を仰ぐと、上にはサボテンの太い腕が何本か重なり合い、ポーのいる場所を屋根のように覆っていた。

「助かった…。」ポーは深く安堵の息を吐いた。

激しい雨の音に、サボテンの声もそれ以上聞こえなくなった。

ポーは身体をすくめて、じっと雨音を聞いていたが、次第に眠くなり、目を閉じると、すぐに眠りに落ちてしまった。

そしてその夜の事、ポーはとても不思議な夢を見た。


夢の中で、ポーは小さな雲の中にいた。

というよりも、まるで雲と一つになっていた。

ポーは翼を閉じたまま、ゆらゆらと周りの景色を見下ろしながら漂っていたのだが、海辺を通り過ぎ、雑木林を過ぎると、あの楽園の丘が見えて来た。

ポーはそこで、雲から身を乗り出して、楽園のあの川辺の、自分が歌を歌った木の近くまで行こうとするのだが、不思議なことに、どうしても雲から抜け出すことが出来ず、そこまで降りては行けなかった。

そこで、ポーは雲の中から必死にメリの姿を見つけようとした。

それらしき小鳥の姿は見えるのだが、良く見ると、どれもメリではないようだった。

その内に、雲はみるみる楽園の丘から遠ざかって行ってしまった。

ポーがとても寂しい気持ちでいると、今度は、あの柱サボテンが見えて来たのだが、
「あれっ、サボテンが動いている…。」

驚いたことにサボテンは、太い何本もの腕を、大きく左右にくねらせるように振りながら、ポーを手招きするのだった。

その奇妙な動きに、ポーの気持ちはすぐにほぐれた。

しかし次の瞬間、サボテンだと思っていたものが、まるで別の生き物であることに気がついた。

それは、大きな口ばしを持つ青い翼の鳥だった。

その鳥は大きな翼を、ゆっくりと広げたり閉じたりしながら、雲の上にいるポーを見つめていた。

白くて大きなその口ばしは、まっすぐに、ポーへと向けられていた…。


次の朝、目が覚めると辺りはすっかり晴れ上がり、昨夜の雨の雫がサボテンのトゲの根元で、キラキラと陽光に輝いていた。

ポーは、夢の中で見た光景がはっきりと思い出されて、とても不思議な気持ちになり、思い切ってサボテンに夢の話をしてみた。

すると、サボテンは驚いて、
「お前さんの夢の話を聞いて 思い出したことがある」と話し始めた。

「然るべき時に 然るべき場所に 現れるべきものはやって来るものだ

お前さんが今いる その傷あとは わしにとっては忘れがたいものでな

もう随分と昔のことになるが ある日のこと 

わしの目の前に人間の男が現れたんだ

男は恐らく この広い砂丘を 何日も何日もたった一人で

歩き続けてここまで来たのだろう

よろよろと力ない足取りで歩いていたのだが 

わしを見つけると 目を光らせてにじりより

背負った袋の中からナイフを取り出して

わしの一つの腕のトゲを そのナイフで削ぎ落とし

がぶりとそこに食いついたのさ」

ポーが驚いて首を上げると、サボテンは笑いながら、話を続けた。

「なに そんなに驚くことでもないさ 

わしらは大地に根を張る種族 何が起きてもただじっと

受け止めることしか出来ないのだから

その傷あとに お前さんは今止まっているのさ

あの頃はまだわしも若くて その腕も今より低いところにあったものだから

男からすると ちょうど良い高さだったのだろう

一体どこまで食いちぎられるのかと心配はしていたが

男はわしの腕から滴る水分を飲み干すと 大きなため息をついて

すぐに地面にしゃがみ込んでしまった

そしてしばらく そこにじっとしていたが

何かを思い出したように急に立ち上がると

わしにむかって ぺこり と一つお辞儀をして

すぐさま歩いて行ってしまったんだ

その男の後ろ姿は 来た時よりもしゃんとしていて

どこに行くべきか その方角が もうわかったような姿だった

後ろ姿を見送りながら わしは 一つの仕事が果たせたような気がした

そうして残った古傷には 二度とトゲが生えなくなってしまったんだが

おかげで鳥たちがやって来るようになった

こうして今のお前さんのように 羽を休めにやって来るのさ」

話を聞きながらポーは、サボテンが、あたたかくてやさしい心の持ち主だとわかった。

サボテンはまたゆっくりと話を続けた。

「ある時 わしのところにやって来た一羽の鳥が

風変わりで物知りの 話好きなカケスでな

そいつが教えてくれた話があるんだが…

お前さんの夢を聞いてそれを思い出したんだよ

それはお前さんたち鳥の先祖の話なんだが

お前さんは聞いたことがあるかな?」

「いいえ、鳥の先祖の話は聞いたことがありません。」

「そうかい それは古い古い太古の昔のこと

この星は深い森に覆われていたのだが

地上のあちらこちらが 巨大な猛獣たちの乱闘場になっていたんだ

力の弱いものは強いものに殺され 食いちぎられる

そんな恐ろしい争いが地には溢れていたのだが

それから逃れるように 鳥の先祖たちは高い木の上に登って

そこで静かに暮らすようになったんだ

鳥たちは天を仰いでは 木の上から地を見下ろし

猛獣が近づいて来たならば 直ちに安全な別の木へと飛び移った

いつしか両手は翼となり 足の爪は長くなり

木の枝をしっかりと掴めるようになって 次第に

木から木へと飛び移るだけでなく 空も自由に飛べるようになっていった

そうして彼らは 地上の騒ぎに心乱されることなく

いつも正しい方角を思いながら天を仰ぎ

木々に守られながら生き延びて来たんだ

その鳥の先祖は『青いペリカン』とも呼ばれていて

青くて大きな翼を持ち 口ばしもとても大きな鳥だそうだ」

そしてサボテンは得意げにこう言った。

「これはお前さんが見た夢に ぴったりの話だろう

もしかしたら その青いペリカンが

お前さんをここまで連れて来たのかもしれないな」

「青いペリカン…、そうですね、きっとそうです。」

ポーはうれしくなって、サボテンにあの歌を聞いてもらいたくなった。

「大切な話を聞かせてもらったお返しに、歌を歌わせてください。

街の大木から教わった木の歌です。」

ポーは、サボテンへの感謝の心を込めて、あの歌を歌った。


― この星は かつて 美しい光に溢れていた

  天も地も それぞれの 美しさを誇っていたのに

  いつからか 美しい光は どこかに隠れてしまった

  大切なものは ついにどこかに秘めてしまった

  彼らは 遠く離れたところで 静かに輝きながら

  この星を思い 歌いつづける

  いつまでも この星を見つめたまま 歌いつづけている ―


ポーが歌い終わると、サボテンは言った。

「ほう お前さんは不思議な歌を歌うもんだ

はじめて聞いた歌なんだが どこかで聞いたことがあるような

懐かしい響きだ」

「これは昔の木の歌なんです、でも、この歌にはまだ続きがあるんです。

わたしはこれから北の岬に向かいます、そこにいる年寄りの古木に、歌の続きを教わりたくて、この歌のことをもっと知りたいのです。」

「そうかい 昔の木の歌かい わしは知らなかった

聞かせてくれてありがとうよ

北の岬ならば そうさ ここから東に飛んで

この砂丘を越えると海に出る その海岸沿いに

更に北へと行けば その内に見えて来るだろうがね…」

「そうですか、ありがとうございます。

もし、歌の続きがわかったら、もう一度この歌を、今度は最後まで歌わせてください。」

「それは良い それは楽しみだ ありがとうよ

しかし北の岬まで行くには 十分に気を付けて行くことだ

あの辺りには 鳶や鷹や 凶暴なのが大勢いるようだから

なるべく木影や岩陰に沿って飛んで行くが良い」

「はい、そうします、そしてまた必ず、あなたに会いに戻って来ます。

だからどうか、お元気でいてください。」

「ああ わしは大丈夫さ ちょっとやそっとのことじゃあ 倒れはせんよ

お前さんこそ とにかく気を付けて飛ぶんだよ」

「はい。」

そして、ポーは空へと舞い上がった。

「小鳥よ 旅の鳥よ 元気でなー また会おう…」

サボテンは、ポーの後姿へと声を張り上げながら見送ってくれた。

そのあたたかさを噛みしめながら、ポーは、力いっぱい海へと飛んだ。



第6章 「空と海」

砂丘を越えると、そこには荒々しい海が広がっていた。

切り立つ岩礁に白い波しぶきが飛び散り、強い海風が吹き荒れていて、並び立つ松林を激しく揺らしていた。

ここでは、以前の海岸よりもポーの体力は一層消耗し、一日の飛距離は思うように伸びなかったが、夕暮れ近くまで飛んでは、適当な宿り木を見つけて休み、朝が来るとまた北へと飛び進む、という毎日を過ごした。

過ぎて行く海岸沿いには、砂浜があり、港町が広がり、座礁した大きな船もあり、道路やトンネル、様々な防風林が広がっていたが、ポーにとってはどれも心に残る景色ではなかった。

目指すのは、岩壁の北の岬…、そしてそこに立つ古木。

ポーは想像の中で、それはそれは大きな、立派な古木を思い描きながら、北へと飛び続けた。

そしてついに、ポーの行く手に、切り立つ岩山が見えて来た。

そこにはこれまでの岩礁よりも数段高く切り立つ岩壁が続いていて、近づくと海風は一層荒々しく、唸りを上げて吹き付けて来た。

まるで何ものも寄せ付けまいという強い意志が、岩山の周りを取り囲んでいるかのようだった。

目的地を間近にしたポーは、その日はむやみに飛び急ごうとはせずに、近くに見えた緑地から、この辺りの様子を伺おうと決めた。

緑地には、杉の大木が何本も並び立っていて、見下ろすと丸い垣根や花壇が並び、色とりどりの花を咲かせていた。

またそこには、数本の砂利道があり、太い石の柱も並び立っていた。

その向こうには、三角屋根の高い建物があって、周囲をたくさんの人間たちが歩き周り、建物の中へと出入りしていた。

建物の中から、不思議な音楽も流れて来た。

目の前の険しい岩山とは対照的に、穏やかな空気に包まれる緑地の光景に、ポーは、楽園の楠木が言っていた「北の岬は以前は『聖地』と呼ばれていた」ということを思い出した。

ポーはその夜、三角屋根の上で羽を休めた。

砂丘で見た夢の中の『青いペリカン』を思い出すと、あの時まっすぐに自分へと向けられていたその口ばしが、まるでこう告げているように思い出されたのだ。

「正しい方角は、お前の心の中にある。」と。

曇りがちだった緑地での夜は過ぎ、次の早朝、太陽がちょうど昇り始めた頃、ポーがふと目を覚ますと、辺りはシーンと静まり返り、吹き荒れていた風がすっかり止んでいることに気付いた。

ポーは意を決し、まっすぐに岩山を飛び越えて海に出た。

海岸沿いに切り立つ岩壁は、視界の先までどこまでも長く続いていたが、更にその先の方に、細長く海へと突き出た小さな岬が見えた。

「あれが、北の岬…。」

小さな岬が見えた瞬間から、ポーは迷うことなく、その岬を目指して海岸の空をぐんぐん飛んだ。

その時、目の中には北の岬しか見えていなかったのだが…、突然に、ポーの行く手に大きな黒い影がものすごい速さで横切った。

気付くと、辺りには数羽の鳶が群れになって周回していたのだ。

そして一羽の鳶がポーのすぐ目の前に迫っていた。

危険を感じて、ポーは慌てて急降下したが、それを別の一羽が真下から狙っていた。

バサバサ バサバサバサバサ

羽音が鳴りひびき、鳶の狩りは、今回は失敗に終わった。

ポーは寸でのところで、上手く逃げ切ったが、相手の羽とぶつかって体制を崩し、危うく岩礁に激突するところであった。

そこからは岩壁の影に沿うようにして、必死に飛び進み、何とか北の岬の先端へと辿り着いたのだった。

尖ったように海へと突き出ているその岬には、どこよりも強い海風が絶えず吹き荒れていた。

ポーは、辺りの岩壁の一番高いところに降り立ち、周囲を見回した。

「なんというところだろう、ここは…。」

周りは岩に張り付く苔を除いて、緑の植物はまるで見当たらなかった。

そこではあらゆる生き物の気配もまったく感じられず、激しい波しぶきが岩にぶつかる音と、岩壁に吹き付ける風の音とが絶えず混じり合い、ごつごつした岩壁の面をさらに険しい表情に見せていた。

しかし、谷のように深い岩壁を、底の方までのぞき込むと、切り立つ岩礁と岩礁の間に、一本の高い木が見えたのだ。

ポーは、強風にあおられながらも、バランスを取りながら慎重に飛び進み、岩壁に沿ってその木の元へと下って行った。

近づくと、そこに見えたのは、ポーが思い描いていたものとは似ても似つかないような、今にも倒れそうな細々とした古木だった。

それは老いた白樫の木で、幹は根元から半分近く崩れ落ち、枝の中には途中から折れてしまっているものもあり、残った数本の細い枝に、かろうじて葉が茂っていた。

木の高さからすると、かつては相当に立派な大木であったことが、わからないでもないのだが、その木は今では精気薄れ、すっかり弱っていた。

ポーは、内心がっかりとしたような気持になって、古木の一枝に降り立った。

枝には少しの葉が茂っていたが、吹きつける潮風に揺れながら、ギー、ギー、と音を鳴らすような、乾いた枝だった。

ポーは枝の上で潮風に揺れながら、しばらく茫然とそこにしがみ付いていた。

古木に向かって何か話しかけたかったが、海風と波の音は絶え間なく、更には、古木の何とも寂れたそのたたずまいに、かける言葉がなかった。

ここでは、あの歌を歌う気持ちにもなれなかった。

夕陽が空一面を茜色に染めて行き、海までも赤く染め切ると、そこへ夕闇が天から少しずつ、少しずつ、降りて来た。

ポーはそこで一晩を過ごすしかなく、ただ刻々と太陽が沈み行く海と空とを眺めていた。

次第に空は、藍色、紫色、青、青緑、黄、橙、桃色、そして茜色のグラデーションが広がり、全ての色彩を、海の水面がゆらゆらと映し、輝いていた。

ポーは、ここまで海の近くで夕陽を眺めるのは初めての事で、古木の枝の幹近くで、壮大な自然の織りなす美しいその光景に、いつしか魅入っていた。

夕闇はどんどん広がって行き、空も海も藍色に覆いつくされ、無数の星と、まんまるい月が輝き始めた。

月の光は、海に一直線の道を描き、その光は古木へとまっすぐに注がれているようにも感じられた。

そして、ポーは古木に向かって、何か話しかけてみたくなった。

月光がどんどん輝きを増す中、海風は和らいで行った。

ポーは古木の幹へと、静かに話しかけた。

「本当に…、この海の眺めは素晴らしいものですね。
あなたは、ずいぶん古くからここにいらっしゃるのでしょう。

この辺りでは、いいえ、もっと遠くまで探しても、あなたほどの古木はいないと聞いて、ここまでやって来ました。

海は、昔はもっと遠くにあって、この辺りにはあなたの他にも、たくさんの木が茂っていたのでしょうか。

ここはかつて『聖地』と呼ばれる場所だったと聞きましたが、それは本当でしょうか。」

ポーは、古木の返事を待った。

「…。」

しばらく待っていたが、古木からは何の返事もなかった。

すぐに返事は無くても、話がわかる木だったら、何かしらその心の動きが伝わって来るはずだとポーは信じていた。

しかし、いくら待っていても、古木の幹からは何も伝わって来なかった。

ポーはとても残念な気持ちになったが、古木の今のあり様からすれば、それは当然なことにも思えた。

海風はすぐにまた、強く吹き付けて来たので、ポーは古木の幹に寄りかかるようにして、身を小さく縮めた。

そして、ウトウトとまどろみはじめた時だった。

古木の周りに、不思議な光が灯り始めたのだ。

それは、先ほど海に沈んで行った夕陽と同じような茜色をした、小さな光たちだった。

光は古木の周りを、まるで踊るように、上へ下へ、右へ左へと旋回しながら、近づいたり、離れたり、たわむれるように浮遊した。

一体どこから現れるのか、次第にその数が増えて行き、いつしか古木を取り囲んで、茜色の光の渦が出来た。

ポーは驚いて、さらに身を小さく縮めながらそれを見ていたが、心臓は飛び出そうになるぐらい高鳴っていた。

少しして、光たちは、一つ、また一つと海に向かって浮遊し始め、次々と海原へ吸い込まれて行った。

すべての光が海へと溶け込むように消えて行き、その最後の光が消えかけた時、ポーの耳に、低くうなるようなため息が聞こえた。

「良かった 良かった…」

それは古木の幹から響く声だった。

辺りは再び闇に包まれた。

先ほどよりもなお一層鋭い月の光が、海原にまっすぐな金色の道を描き、波間に揺れていた。

ポーはその晩、目を閉じてもしばらく眠ることが出来なかった。

いつの間にか闇は、新しい太陽の光にかき消されていた。

ポーは目を開けて、いつしか自分が眠りに落ちていたことに気がついた。

再び古木の幹を仰ぐと、朝陽に照らされた古木の幹も枝も、相変わらず乾き切った様子で、枝々は力なく風に揺れていた。

昨夜のすべてはまるで夢のようだった。

しかしポーは、ため息のように聞こえた古木の声を思い出し、あれは夢じゃない、と確かにそう思った。

そして、茜色の小さな光の渦を思い出した。

もしかしたら、あの光は…。

亡くなった母さんも、あの日、小さな光の玉になって、ここに辿り着き、海へと溶けて行ったのかも知れない。

そう思うと、胸の奥がすっとして、温かく安心した心地にポーは包まれた。

見渡せば、古木の前には壮大な空と海が広がり、その後ろには岩壁が聳え、その向こうには木々が生い茂り、鳥たちの住む大地が広がっている。

ポーは次第に、そのすべてが、この上なく大切なものに思えて来た。

朝焼けの空はまぶしかった、海は陽の照るままに輝いていた。

ポーにはそのすべてがこの上なく美しいものに思えて、胸がいっぱいになった。

そして、ふと、歌が歌いたくなった。

それも、自分の心のままに歌いたくなった。

ポーは思い切って、心のままに歌いだした。


トゥルル ピ― トゥルル ピー トゥルル ピー ピー

― 大切なものは ここにある

美しい光は ここにある

隠れてもいないし秘めてもいない

みんな忘れてしまっただけなのさ

大切なものは 今もある

美しい光は 今もある

それはいつまでも

いつまでもここに 広がっている -


ポーはその日、北の岬の古木の元で、気が済むまで何度もそう歌った後、南へと旅立った。

これまで出会ったすべてに、この新しい歌を聞かせるために…。

( 完 )

自分が学び続けることで、少し誰かのちからになれたら…。小さな波紋もすーっと静かに広がって行く、そんなイメージを大切にしています。