一瞬を留めたい
闘病や休学と関係ない話です。
例えばその日の朝料理番組が流れていたことや、水溜りを避けたこと、秋晴れの動物園で幼子の視線にぶつかったことや、満腹に手を繋いで見遣った空気の色。そういう一瞬に戻ってその通り体験できたらどんなに良いだろう。抱き締められた背中に腕を回し、その肩に頬を埋めながらずっとそんなことを思っていた。
今感じている体温も鼓動も離れて仕舞えば数秒後には過去になって取り戻せなくなる。不器用に切り抜かれた記憶の中で輪郭は曖昧に滲んで、色も音も香りも褪せて、泡沫のように儚く浮かんでは消える。聞き流した言葉もすれ違った人々の顔立ちも再現不可能で、確実に私はその時点に存在していたはずなのに時間に激しく押し流されていく。ふたりで共有していた現実がてのひらから砂のようにこぼれ落ち、跡形もなく消えてゆく心地がして、恐ろしい。
事故や病気で身近な人を失った経験こそ無けれど、そういう話を見聞きしては自分ごとのように怖くなったり怯えたりして、どうか先に死なないで、ずっと一緒にいて欲しいと縋るのはさながら死の概念を初めて理解したこどものようだと思う。私は出会った瞬間から別れの時を考えていると言い当てられて、苦笑した。
私は一瞬を留めたくて、日記を書く。日記というよりは私が体験した現実の羅列、見聞きしたものふれた言葉、そういうものの詰まった箱。箱に納めた限りの情報は辿れば必ずそこに存在している。最近気付いたのは万が一データが消し飛んでしまった場合、箱は壊れ、全ての瞬間が溢れ出て永久では無くなる可能性があることだ。紙でもなんでも媒体に関わらずその可能性はあって、それが酷く恐ろしい。noteでは感情の吐露のために日記を書くし、公開すれば他者と共有することもできるが、記憶の保管ともなると不特定多数の人に晒したくないものもあってそうもいかない。難しい。
[本記事と関係ない話]
飛び降り自殺未遂レポに100スキ、5回シェアもしていただいたとのことで、ありがとうございます(シェアされた先が分からないのでどんな風に言われてるのか一抹の不安はありますが)。あれを読んで思いとどまったと言ってくださった方がいたことが一番嬉しかったです。あの日々にも今もそれ以前にも日記は私のそばにあって、これからもそうなんだろうとおもいます。ここで出会えた存在や言葉に感謝しています。