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裸の履歴書vol.8~引き際

 インターネットの普及に伴い競輪選手の代謝制度も、ファンへの認知度も上がってきた。代謝制度の対象となり、強制引退となる者。S級からA級への降格を機に引退する者、若しくは最下層の代謝争いを避けその以前に引退する者。競輪選手の引退といえば多様な去り方がある。
 2012年前期(1~6月)の私は代謝制度の只中にいた。つまり「代謝制度の対象となり、強制引退となる者」というわけだ。過去に数度経験している私は、この半年間は覚悟が決まっていて代謝から外れるために「勝負駆け」というのはなかった。あとの課題はどう終わるか?どのように去るか?であった。ラストラン(引退レース)ともなると、家族や同県の選手が見届けにきて華々しく締めくくる!?主役になる(誕生日を祝われるようなもの)のがどうもしっくりこない私は、ラストランを走らずに終えようと当初は画策していた。しかし、ある先輩からの一言、
 
 「俺は走らずに終わったから、最後を迎えた選手の氣持ちがわからない(味わえない)まま。お前には走って終わってほしい。そして教えてほしい。」

 選手生活を「走って終える」ことにした。
 
 残すところ、あと2開催となった弥彦競輪場で事態は急変する。2日目のレースを終えたとき、左大腿部内側に沿って赤い線状のような変色を確認。若干の痛みを覚える。競輪場常駐の医務室にて受診。医師の見解は…不明。最終日となっても症状は変わらず。レースを無事走り終え帰郷。
 
 翌日、近所のクリニックを受診。医師「特に問題ありません。」動物的勘というものがあるのなら、そのとき働いたであろう台詞。私「なんか異常あると思うんですが…。」

 医師「じゃあ他で診てもらえば(※ムッとして)。」

 このときから医療不信が始まっている。

 時間を於かず、他院を受診。セカンドオピニオンというものである。

 医師「もっと大きいところで診てもらったほうが…。」

 ただならぬ不安を抱え、青森県立中央病院へ出向く。ひと通り検査を終え、

 医師「即、入院してください。」

 診断名:深部静脈血栓症

 「肺に飛んだら死に至る」というやつだ。4、5日入院が必要なこと、歩行禁止などひと通り説明を受ける。私のラストランは前走の弥彦開催から中3日の川崎。


 選手生活の幕切れはあっという間であった。

 
 直ぐに電話をかける。電話の相手は選手会の事務員さんであり、私に「走って終わってほしい」と言ってくれた先輩だ。

 私「ラストラン走れなくなりました…。」

 病状の説明をする私。残念そうに話す先輩。当初は気恥ずかしさから回避しようとしていたラストラン。一転、翻す。のち病により叶わず。なんとも筋書きとしたらオモシロい台本だなとこのときは俯瞰して見ていた。

 日をあらためて、お世話になった施行者さんに引退の挨拶まわりに出向く。代表の方「なにかいい仕事あったら…云々。」私「ありがとうございます。お気持ちだけいただきます。」言葉は易しいがキッパリと断る。多くの引退した選手が再就職先として競輪(場)関係に落ち着く傾向にある。既に家庭を持ち、月々の支払いが課せられている身なら、それも致し方なかろう。しかし、傾奇者の私は古巣にお世話になることを良しとしなかった(※詳細は次回)。かくして引退後の身の振り方は「なにも」決まっていなかった。

 15年の選手生活で、悔いがあるとすれば…ただの1度も「優勝」というものがなかったこと。優勝というものがどういうものか?勝利の味はどんな味がするのか?いまだに空想することがある。

 ものわかりがよくて、察して、目立ちたがりで、真面目で、ダサいことが嫌いで、うっすら支配している空気が嫌いで、冷静で、ひねくれもので、エネルギーの方向が違っていて、つまずいて、めんどくさいやつで、引き際が潔くなくて、

 つまりは、我思う…「可愛げのない競輪選手 最終年生」だった。

続く

1975年7月17日 青森市生まれ

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