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メリーミルク、最高到達点の彼女へ

2024年5月17日、バーチャルYouTuberメリーミルクは活動を引退した。

キャラクターの終わり、バーチャルYouTuberの在り方として最高到達点の締めくくりだった。

彼女の活動は終始一貫してロールプレイを続け、メリーミルクというパンが大好きな森に住んでいる少女であり続けた。

これはメリーリデルとメリーミルクの物語そのものについて考察するものではなく、行く宛のない感情をそのまま文字にしているだけのものである。


彼女の配信を見たあとで、ロールプレイ等のメタに言及するのはとても烏滸がましく、彼女の活動を卑しめる行為であるかもしれないが、一人のファンとして、傍観者ではなく彼女の最期を看取った一人として文字として残したかった。僕は絵がかけるわけでもなく、動画を作る才能もない。彼女についてなにか残すことができるとしたら、文字だけだ。

バーチャルYouTuberの引退配信は、そのほとんどが擬似的な葬式である。
ファンは活動を振り返り悲しむとともに、心の何処かでは転生への期待が存在している。だからこそ、ダメージが少ない。
しかし、その葬式にも例外がある。2024年現在Vtuberという語は、配信者という意味と同義に使用されているが、配信者としての活動ではなく、キャラクターの一生を同時双方向型で応援する形がある。薬袋カルテやカフェ野ゾンビ子を例としてあげることができるだろう。メリーミルクも今回の配信をもってその一員となった。

視聴者が彼女の物語を終わらせる、それはバーチャルYouTuberのファンとして初めての体験であるとともに、激しい無常観を突きつけられた。
前述の通り、バーチャルYouTuberの卒業、引退は、いかなる理由があろうとも自分が提案するものではない。突然の報せである。
だからこそ、諦めがつきやすい。「どうせ転生するし」と思うから。

多くのお別れ配信を見てきた僕はそれに習い、今回も「彼女のお別れ配信だな、さみしいな。気持ちよく送り出してあげよう。またどこか出会えるといいな。」配信の前半はそんな感情だけだった。

ただ、彼女はそれを許さなかった。彼女の設定をなぞるようなシーンが後半から始まり、いくつかの説明が終わると突然コメント欄に二択の質問が投げ替えられた。


彼女そのものである絵本を燃やすかどうか。


その質問が意味するのは、僕たちの手によって僕たちの愛するキャラクターを終わらせなければならないということを意味する。それと同時に、今までしつこいくらい鳴り続けた暖炉で木が燃えるぱちぱちという音が、一瞬にして意味を持ったのだ。

メリーミルク自身ではなく、視聴者の僕たちが彼女との別れを

彼女は絵本の中の女の子として、絵本を燃やすことでその物語に幕を閉じる。

物語は絶対に幕を下ろす。絵本であれば絶対に最後のページを閉じなければならない。
そんなシーンを挟むだけでも、きれいな幕引きであったのにもかかわらず、彼女は絵本を燃やすという選択、そのものを僕たちに与えた。
ゲームで人を殺す選択肢を取るとはわけが違う。僕たちは今まで少ない時間であったとしても、同じ時間を過ごし、感情の共有を行ってきたのだ。
僕たちは応援、あるいは愛し続けた彼女を、僕たち自身の手によって物語のエンディングへと向かわせた。バーチャルYouTuberとしてこれ以上にきれいな去り際があっただろうか。バーチャルYouTuberとしてだけではなく、僕たちの心も完膚なきままに引退と向き合わなければいけなくなった。あぁ辛い。

美学者であり、批評家の難波優輝氏によれば、バーチャルYouTuberはこのように分析している。

https://ecrito.fever.jp/20200901220007

詳しくは当該論文を読んでいただきたいが、メリーミルクはバーチャルYouTuberとして、一人のキャラクターとして完璧に終わらせることに成功した。


感情の赴くままにだらだらと書いてきたが、彼女からの最後のツイートに救いを求めよう。

僕はあと何回彼女のTwitterアカウントを更新するだろうか。


そう、僕たちとメリーミルクはずっといっしょなのだ。
僕たちが彼女を終わらせたとしても、彼女がそう言っているのだから。


ただ、最後に僕が思うのは彼女との楽しい思い出、今のこの感情が時を経て薄れていくのが怖い。
僕はこれから彼女とどう向き合えばいいんだろう。

まぁいっか。

惜愛も 青い炎に 焼かれるか 快暖抱き 君思う夢


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