7――『懐かしき産声』
〈6205文字〉
以前勤めていた仕立ての工房が買収され、突然の解雇を言い渡されて困っていたとき、近所に住む知り合いのおばさんに『運動会の弁当作りを手伝ってくれない?』と頼まれ、いつしかそれ以降も勤めるようになって、飛び抜けて年下だった生子が、おのずと弁当屋の接客を担当するようになった。最初は嫌だった。接客業はこれまで携わったことのない畑違いの仕事で、女学校出身の彼女は、異性とほとんど接してこなかった人生が、いきなり数知れぬ男たちと応対せねばならなくなったのだ。最初は怖さが勝ったが――何しろ腹が減ったとき、人は怒りっぽくなるものだから――、次第に楽しいことにも気づくようになる。遅いと愚痴を垂れる人がいれば、その人をいさめるのも、同じ客だった。彼女は両方の客に頭を下げたが、なんだか嬉しくなった。お釣りを渡そうとして、手を握られたことは数知れず。でもその皮膚の厚い、岩石のような、黒く汚れた手が、不思議と彼女の拒否感を和らげてくれた。『わたしはおつりじゃありません』なんて冗談も言えるようになった。でも、やはり、中には怖い人間がいることはいた……。
夜の部とシフト替えをする時間になり、退勤の挨拶をして、数人の仲間と店の裏口から出て、別れの挨拶をし、狭い勝手口のドアを支えていた彼女がドアを閉め戻したとき、生子の背中に近づくものがあった。
「こんばんは」
ドアを閉めた刹那だっただけに、相手が女性と気づく前の一言目にドキリとして、生子はとっさに振り返った。
「! こ、こんばんは。お名前は確か、秀子さん、でしたよね?」
「ええ、そう。奇遇ね。ここを通りがかったら、あなたが出ていらしたんで、声をかけたの。お仕事終わり?」
「ええ、わたしは先に上がらせてもらえる時間になったものですから……それで、秀子さんは、その、八木山さんと晩ご飯の待ち合わせですか?」
「まさか!」秀子は落ち着いた驚き見せ、嫣然と一笑した。「なんで、あんな人と。どうせ今晩も、冷や飯を茶漬けにしてかきこむんじゃないかしら。それが、あの人の定番なの。消化によくないったらないわ。それで夜中に目を覚ますというのよ。料理が作れる恋人でもいればいいのですけど――ねぇ、生子さん?」
生子はどぎまぎしながら質問の意味を聞き返した。
「エ、あの、何でしょう……」
「だからぁ、そういう、料理ができる人がいればいいと思わない?」
生子は深読みし過ぎたのを恥じるように、慌てて返事をした。
「え、ええ、そうですね」
「それはそうと、家はお近く?」
「それほど近くはないのですけど、歩いて行ける距離です」
「じゃあ、暗くなったことですし、あなたの帰るほうに歩いて行きながら、話さない?」
「ありがとうございます。実はわたしも、秀子さんにお聞きしたいことがあったので……。あ、それよりも、わたしの家からはどう帰られるおつもりですか? お独りになりますけど。やっぱり、駅のほうに向かって、どこかでお話ししませんか?」
「お気遣いありがとう。わたしね、こっちに来てそれほど日も経ってなくて、歩いて回ってみたかったの。大丈夫よ、わたし、夜道嫌いじゃないし、もし何かあった場合は、絶叫を上げさせて、いえ、上げてみせるから」
「まぁ、秀子さん、お気持ちの強い方なんですね。それほど暗い道じゃありませんけど、特に明るい帰り道をお伝えしますね。秀子さんは、わたしと違って、美しくていらっしゃるから、気をつけられるに越したことはありませんから」
「あら、わたしはともかく、あなただっておきれいだわ」
「そ、そんなこと、言われたこともありません……」
「それは――嘘ね、生子さん。そりゃあ、まだ勝負できる見込みのある人は、あなたのことを『きれいだ』とは言わないでしょう。それはわが身をおとしめることだし、勝算を悪くする要因にもなるのだから。でも、あなたの店のお客さんは、そうじゃない人のほうがはるかに多いはずよ。挨拶代わりに、言われることもあるんじゃなくて?」
「たまには言われますけど、それは、お世辞と受け取っていますから」
「あいにく、ああいう無骨な人たちは、そういう――特に自分が客であるような――場面でお世辞は言わないものよ。その反面、そうじゃない女性に対しては、平気でむごいことも口にする人たちなんだから。素直といえば素直なんでしょうけど。そんな性差別的な発言が、いつか法で罰せられる日が来ることを願うわ。さ、この話はおしまい。歩きましょう」
「アッ、こっちです。……でも、驚きました。秀子さんって、頭もよくていらして、進歩的な思想をお持ちなのですね」
「わたしが進歩的?」彼女は声を上げて高らかに笑った。「オホホ、頼りない男をそばで見てきているからかしら」
しばらく二人は無言で歩き、前から来る集団とすれ違ったあとで、生子が口を開いた。
「……本当は――」
男どもの煩わしい視線を交わしていた秀子が聞き返した。
「え、何かしら?」
「本当は、八木山さんと付き合ってあられるんでしょう? わたし、あの方の視線を見ていたら、すぐにわかりました……」
「言ったでしょ。あの人とわたしは、どうあっても、そういう関係にはなれないのよ。そもそも全然、わたしの好みじゃないし」
「それは――嘘ですよね、秀子さん」
今度は秀子がドキリとする番だった。
「な、なんでよ?」
立ち止まる秀子を、前に出た生子が振り返って見つめた。
「嫌いなはずがありません。ちゃんと、兄を慕う妹のような目を、いえ、どちらかといえば、弟を大事に思う姉のような目をしていらっしゃいますもの」
「そ、そうかしら」そのときかすかな安堵をおぼえたのを、秀子は不思議に思った。それはきっと、無意識に、別のこと(知られたもの以上に隠すべき感情)をさとられたのではないかと危惧したからであろう。その感情は、彼女自身いまだ判然とせぬものであった。「じゃあ、そんなあなたはどうなの? わたしだって男女の機微に疎いわけじゃないのよ」
生子は含羞の色を浮かべてうつむいた。
「……何のことでしょうか?」
追いついた秀子に促されるようにして、二人は再び歩き出した。
「ふ~ん、わたしにしらばっくれるんだ。でも、いいわ。今日は、ご挨拶がてら寄せてもらっただけだから。ところで生子さんは、こんな時間まで働いてるのだから、お身体は健康で間違いないのよね?」
「はい、それだけが取り柄で」生子は自慢げにそう答えたあとで、あらためて秀子が健康を確認した意味に気づくと(加えてやはり偶然の再会ではなかったことも知り)、敬虔な目で秀子を見つめた。「でも、やっぱり秀子さんは、できたご親戚さんですわ。実際には、叔母さん? なんですよね」
「そう、その叔母さん。わたしの母が、え~と、あの人の祖父と結婚したの。で、ちなみに、最近何か、不安に思っていることない?」
ちょうど考えていたことを見透かされたので、生子は肝を潰したようになった。それが、彼女が素直になりきれず、『しらばっくれた』理由でもあったのだ。
「エッ――。でも、そんなこと……」
「差し出がましいことを言ってごめんなさいね。でも、時折なにか不安事があるような、影のある顔をなさってるから。何度も後ろを振り返ってられるし」
「よく……お見通しですね……。実はその、誰にも相談できないことなんですけど、しつこく言い寄ってこられる、一人の男性がいまして……。今日も本当は、帰り道にこうして付き合ってもらえて、秀子さんにはすごく感謝しているんです。あ、でも、安心してください。今日はいないみたいですから。見つけたら、秀子さんとは別れなくちゃと思って、何度も確認していたんです。かえって、わたしなんかより美しい秀子さんに付きまとうようになっては大変ですから」
「なんて言い寄られたの?」
「ちゃんと交際をお断りしたんですけど、『結婚してくれなければ、死ぬ』と……」
「まさか、それで『愛されてる』なんて思わなかったでしょうね、生子さん」
「秀子さんお察しの通り、そんなことを、そんな言い方で言われたのは生まれて初めてのことだったのですけど、温もりや思いやりといったものが感じられなかったので、すぐにそうじゃないとわかりました」
「えらいわ。それに引っかかってしまう子も世の中にはいるのよ。で、それでも帰り道、たまにつけてくるのね」
「はい……」
「まったく。そういう、ろくでもない男って、女を見抜く目だけは長けてるんだから。そういう男ってね、生子さん、わたしには見向きもしないものなのよ。心があなたのように純真でないのを見抜けるから。それはそうと、ねぇ!」重苦しい雰囲気を一掃するような声で、秀子が呼びかけた。「わたしに一つ妙案があるんだけど。でもねぇ、あなたにもそれなりに頑張ってもらわなくちゃならないことなの」
会社からの帰り道、最初の角を曲がったとき、向こう角に立っていた女性とぶつかりそうになり、八木山は慌ててお詫びした。
「すみません」
「いえ、こちらこそ、ごめんなさい」
八木山には用もなく女性の顔を見定めるのはぶしつけであるとの認識があったので、軽く頭を下げ、相手の顔を見ずに通り過ぎた。と、三歩ばかり歩いた先で、彼は立ち止って、振り返った。耳に残った声色に聞き覚えがあったからだ。相手は、彼が振り向くのを待つように、その後ろ姿を真っ向から見つめていた。両手がこぶしとなって、腿に強く押し当てられていた。その女性と目が合い、彼は驚いた。
「アッ、浦田さんじゃないですか!」
どう返事したものか悩ましそうに彼女も応じた。
「あ、はい、浦田です。こんばんは、八木山さん」
彼は三歩の距離を二歩で戻って、彼女の目の前に立った。
「こんばんは。割烹着姿じゃないから、見間違うところだったよ」
「そ、そんなに見ないでください……」
また彼の悪い癖が出たようである。
「あ、ごめん。長いスカートが似合ってるなと思って――。今日、何かあるの?」
「いえ、全然、何も」
「そうなんだ。じゃあ、お店からの帰りなんだね。きみもこの道を通るんだ。ぼくも定時に終わるときは、この時間よく通るんだが、気づかなかったよ」
「わたし、才田に部屋を借りてるんで、店からまっすぐの道ではないですけど、本屋とかスーパーとか、商店街に寄ったときは、こちらから帰るんです」
「そ、そうなんだ」返事に詰まったのは、彼女から自宅の場所を教えられたからだった。もっとも、才田は六丁目まであるのだが、彼はそういったことに敏感だったのである。「こんな時間に、そこまで歩いて帰るのは大変だね。冬ともなれば真っ暗だ。できるだけ、大通りを歩いたほうがいいよ。ちなみに、ぼくは牛隈に部屋を借りていて、大通り沿いをしばらく行って、ちょっと入ったところなんだ」
開示し合う情報は自分のほうが多くあるべきと、意味もなく付け加えた最後の言葉に、彼女が飛び付いた。
「あの、でしたら、大通り沿いを一緒に歩いて帰りませんか?」
「エッ、ああ、うん、そうしよう。こんなぼくでもボディガードにはなるだろうからね、ははは」
彼の笑い声は一人むなしく路上に響いた。
「わざわざ、家まで送っていただき、ありがとうございました。あそこにある女専用の共同住宅に住んでるんです」
「そうなんだね。じゃあ、ぼくはこれで」しかし、八木山は一歩も歩み出すことなく、再び話しかけた。「……あのさ、ぼくみたいなのが聞くべきことじゃないかもしれないけど、ずっと考え込んでいたよね。何度も振り返っていたし。何か悩み事でもあるんじゃないの? ぼくでどうにもならないことなら、そりゃもうまったく、追っ払ってもらってかまわないけど」
当初は才田に入った段階で別れを告げる予定で、彼自身、まさかこうして彼女を家の前まで見送ることになろうとは思ってもみなかったのである。彼女の様子が彼にそうさせたのだった。
「追っ払うだなんて――。わたし、その、個人的なお付き合いのない八木山さんに、ご相談して、お心をわずらわせるわけには」
「何も気にする必要はないよ。どうせ、独り身なんだし」
一応触れておくと、秀子に関しては、以前は夕飯どきに出てきて話しかけてくれることもあったが、今はめっきり夜中でなければ現れなくなってしまっていた。
「わたし、その、実は、変な人に付きまとわれていて。弁当を買いに来てくれるお客さんでもあるんですけど。一方的な好意を持たれていて」
おっとりした彼の表情がにわかに引き締まった。
「そうなのか。きみの様子からすると、今日はいないんだね」
「はい」
「でも、それだったら、気に病むことなく、途中ででも言ってくれたらよかったのに。きみが悩む必要はない。そういうやからは、男同士、男がけじめをつけねばならないことだから。ぼく自身、きみに対して体裁が悪いくらいだ。ぼくから言いに行こう。きみの親類でもよそおってね。どこに勤めているやつだい?」
「違うんです。いいんです。そこまでなさらないで。ただ、その、八木山さんには、今日みたいに一緒に帰っていただけるとありがたいのですが」生子はそこから早口でまくしたてた、目は合わせられずとも、せめて可能なかぎり視線を上に向けて。「それで、もし、よろしければ、わたし、あの時間、あの場所で、待っていますので」
突然の告白じみた発言に気圧され、片足を引き、思わず周囲を振り返った八木山であった。
「そ、そんなことなら、もちろんかまわないよ。いや、喜んでと言うべきだな。仮に残業の場合でも、あそこなら仕事を抜け出して報告に行けるし、もっとも今しばらくは残業もないだろうけど。だけど、それくらいで諦めるかな? 『ちぇっ、親類と一緒に帰りやがるなら、いないときを待つか』というふうにならないかな」
「大丈夫だと思います。だって、八木山さんには、親類じゃなく、その、『親しい男友達』になってもらいますから」
「エッ……」一瞬思考が凍りついたが溶けるのも早かった。そして、頬を赤くする熱だけが彼の顔に残った。「ああ、そうか、そうだよね、そのほうが効果が狙えるからね」
「で、ですので、その際には、たまに馴れ馴れしい態度を取るかもしれませんが、どうか許してください」
「ははは、そりゃ願ったり叶ったりだ。でも、浦田さん、気をつけねばならないよ。ぼくだって、ひっきょうどんな男かわかったもんじゃないんだから」
「いえ、そんなことはありません! 八木山さんは、そんな人じゃありません」
「はは、そこまで信じてもらえるんじゃあ、親しい男友達の役に心も徹さなきゃな」
短い前髪を気にして、かっこつけるまねをして見せる八木山に、まなじりを決した生子が、真っ正面から詰め寄った。
「わたし、そんな意味で言ったんじゃありません!」
おどけていた八木山は、すっかり面食らってしまった。
「浦田さん?」
「あ、ごめんなさい。わたしから誤解されるような発言をしておいて、怒鳴りつけるなんて。八木山さんは、優しい、立派な方だって、言いたくて……じゃあ、失礼します。少し早いですけど、おやすみなさい」
「あ、うん、おやすみ」
相手のほうから『おやすみなさい』などと言われたのは久方ぶりだった。彼は呆然と立ち尽くして、走って玄関に向かう生子を見送った。