8――『懐かしき産声』
〈2550文字〉
数日後――。
「最近、帰ってくるのが、少し遅いわね。しばらく残業はないって話だった気がしたけど」
「あ、うん。ちょっと……」
「急な仕事でも入ったの?」
「うん。ちょっとした、急な、仕事がね……」
「そうなんだ。ところで、あなた、毎回、息を切らして帰ってくるけど、わたし、あなたのこと待っちゃいないし、この時間より前に現れることもないから、急いだりせず、仕事に専念することをお勧めするわ。急いては事をし損じるって言うでしょう」
「そうだね、きみの言う通りだ。あのね、おひいさん、実は――」
「いいのよ。わざわざ話さなくて。わたし、男の仕事に口出しするような女、いえ、霊じゃないの」
「ありがとう。すっかり片付いたら、すべてを打ち明けるよ」
翌夜――。
「ねぇ、あれって何だったの? 帰ってくるなり、ぼくに『目をつぶりなさい』って命令するや、しばらくその場に立たせたけどさ。ぼく、変にどぎまぎしちゃったよ」
「……頭が痛いことない?」
「そういやそうなんだ、風邪のひき始めかな? 仕事中は、まったく平気だったんだけどね」
「確認するけど、今日おでこ――眉間の辺りに、何かぶつけたってことはないわよね?」
「えっ、おでこ? よくわかるね。ちょうどその辺りに、じんわりした痛みを感じるんだ。いや、おでこに物はぶつけなかったよ。足の甲は、出勤時に友達に呼び止められた女性社員から、踵で思いっきり踏まれたけどね。どっちかっていえば、そっちのほうがまだ痛いくらい」
「安心して、きっと治してあげるから」
「アハハ、どうしたのさ、そんな大げさに考えるようなものじゃないよ」
次の日、八木山は会社に着いたあとで、昨夜秀子が姿を消す際、『じゃあ、さよなら』と言ったことを思い出した。果たして彼女がこれまでも、そう告げたことがあったかどうか記憶をたどってみたが、思い当たることはできなかった。本能的に、家に帰らねばならないような焦燥感を覚えたが、日の昇った朝である、帰って彼女と話せる確証はない。理性が仕事を続けることを彼に命じ、仕事に没頭するうち、胸騒ぎがあったこともいつしか忘れてしまった。
その日の帰り道になって、ようやく彼は、今朝不安が頭をよぎったことを思い出した。隣にいた生子が言った。
「会社で何かあったのですか?」
「え、どうして?」
「お暗い顔をしてらっしゃるから」
「そうかな……」
「八木山さんは、もっと自分に自信を持ったほうがいいと思います。せっかくいいお顔をしていらっしゃるのですから。あ、ごめんなさい、わたしなんかが生意気なことを言いまして」
「はは、ほか二人に、同じことを言われたことがあるよ。いい顔は別にしてね。ぼくなんかは、真っ赤になったきみこそ、もっと自信を持ったほうがいいように思うけどね。見れば見るほど、話せば話すほど、心も容姿も純真で美しいことに気づかされるから」
「『純真』だなんて……。わたし、本当は、平気で策を弄するような女なんですよ」
「へぇ、しかし、ぼくなら喜んで、その策に翻弄されたいがね。でも、きみより人生経験は豊富だから、そうやすやすとは引っ掛からないと思うけどね」
「あ、あのですね、八木山さん――」
「それより」話を仕切り直すため、口調を戻して、八木山が切り出した。「昨夜ちらっと見たという男は、今日はついてきてます?」
「いえ、今日は見ていないのですけど、ただ――」
うつむく彼女の顔を覗き込んで、彼は問いただした。
「『ただ』どうしたの?」
「あとでお話しするつもりだったのですけど、今朝、郵便受けに手紙が入っていて、手紙といっても、一枚の紙切れだったのですけど」
彼は立ち止り、表情をこわばらせた。
「ちなみに、その紙切れ、今、持ってる?」
「はい。これです……」
生子も立ち止まり、ショルダーポシェットの中から四つ折りにした便箋紙を八木山に差し出した。そこには、行頭をずらした金釘流の二行書きで次のように書かれてあった――『一日早いけど、おめでとう。明日が楽しみだね』。
表裏を確認したあとで、彼は言った。
「その男に間違いないんだね」
「はい。書いた文字は見たことありませんが、そうとしか考えられないので」
「これ、どういう意味だろう?」
「実は、わたし、明日が誕生日なんです」打ち明けたことの感傷にはいずれ浸るとして、生子は説明を続けた。「そのことを、どうして相手方が知っているかというと、ある、弁当を買いに来られた日が、あの人の誕生日だったそうで、その話のついでにわたしのを問われたのでお答えしていたんです。あ、あの、八木山さん、明日も一緒に帰っていただけますか?」
呼びかけられ、彼女を一瞥したものの、『明日が誕生日』と聞いた時点から、八木山は目を細めて、広げた手紙に意識を集中していた。
「いや、おかしい。なぜ、おれにも伝わるはずのこんな手紙をわざわざ……もしやこれが意味するのは明日というより今宵なのでは……その上で、あえておれに思い知らせようと……」彼は独りごちると、紙切れから視線を上げ、彼女を振り向いた。「生子さんっ、その男の住まいがどこにあるか、わからないかな?」
彼の勢いにひるむことなく、即座に彼女も答えた。それもやはり、その手紙から本能的に不穏なものを、彼女自身も読み取っていたからであろう。
「知っています。会社の寮に住んでいて、そこに弁当を配達したとき、偶然ですけど顔を合わせたことがありますので」
彼女が住所を説明すると、彼はすぐにその寮の場所を把握した。男の名は小竹だという。
「この手紙は預かるよ。生子さん、きみは、あそこの時計屋の隣にある喫茶店で、待っててくれないかな。一時間くらいで戻れると思うから」
「あの人のところに行くのですね。だったらわたしも行きます。だって、今日この日に、すべてを決着つけておきたいですから、あ、あなたと!」
目を見開いて、生子を見た八木山だったが、すぐさま唇を固く結んでうなずいた。
「そうか。じゃあ、行こう。きみだけはどんなことがあっても守ってみせるから」
話は先走るが、確かに彼はその言葉どおり彼女を守り抜く、どんなことになろうとも……。