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9――『懐かしき産声』

〈6533文字〉

 寮の多くの男たちが誘い合って、飲み屋へと繰り出した時間、六畳一間の一室で、ぼそぼそとした独り言がこだましていた。
「てめぇはおれの女だ。毎回うれしそうに注文を聞いて、世間話も交わしたじゃねぇか。おれの作業着姿が、火花の飛び散るせいでひでぇなりなのを恥ずかしがると、『きれいな事務服よりよっぽどかっこいいです』なんて言ってくれてよ。研削加工にまで興味を持ってくれたじゃねぇか。男がいないってのは、答えちゃくれなかったが、表情見ればすぐにわかった。あれ以降、人払いも兼ねて、四時に弁当買いに行ってたんだぜ。おかげで、上司には怒鳴られ、弁当も夜にはすっかり冷えきっちまってたがな。ただあんたの温もりをたよりに食ってたんだぜ、泣けるだろ?」
「『ごめんなさい。お付き合いできません』ってのは、まだおれのことを知らないから、もっと知り合えたら――って意味なんだよな。おれにもっと愛の証しを見せろって言ってるわけだ。ああ、喜んで見せてやるぜ。だからてめぇもそんときには堪忍して、素直に応じるんだな。義務を果たしたんだ、報いるべきだろ? だがよ、おれ――、何より大事なのは、そうおれに言ったと相手に信じ込ませることだ。前の女もそうだった。『おまえのためにやったのに』と、わが胸にドスを突きつけたら、黙って涙流しながら、服のファスナーを下ろして、おれに身をゆだねてくれたっけ」
「ケ、それによ、あんな同じ工場街の男に、女を取られてたまるかってんだ。女にとっちゃあ、大事な誕生日によ。おまえは誰より先におれと、その誕生日を過ごすのさ。真夜中になれば、女子寮ほどわけなく忍びこめるところはねぇさ。どんだけ惚れていようと、操が立てられなきゃ、別れるしかねぇだろ。それとも、おれのドスの餌食になるかだ。なぁ、浦田生子」
 今日、午後から出社した仕事場でひそかに研いだドスを眺め回しているとき、ドアにノックが鳴った。彼は返事をせず、黙ってドアを見続けた。寮員の飲みに行く誘いか、大家の彼の行状に対する愚痴か、はたまた強面の男の家賃催促か、彼はそういった場合、よく居留守を使っていた。彼は出入りするたび、必ずドアに鍵をかけており、さいわい明かり窓のない内戸で、外に出て窓越しにカーテンから漏れる明かりでも確認しないかぎり、中に人がいるかどうかを知られることはなかった。
 そのとき、ドアの向こうから、男子寮にあって、驚くべき声を聞いた。
「ねぇ、開けてくれない、小竹さん。中にいるんでしょう?」
 小竹は、大慌てでドスを窓の下の長持にしまい、荒々しく部屋を渡って、鍵をひねり、戸を開いた。
 相手を見て、彼がすぐに思い当たったのは『商売女?』『部屋を間違えたのか?』という憶測だったが、見せかけでない洗練された貴婦人のようなたたずまいに、すぐさま考えはあらためられた。そもそも寮に商売女を入れることは厳禁である。
「だ、誰だ、あんた? なんで、おれの名前を知っている?」
「あんた、自分のこと知らないの。その筋じゃあ、有名人よ」
 男だけの建物にあって、なおのこと粗野な男に詰め寄られながら、女は従容とした態度を崩さず、指先を口元に当てて、クスクスと笑った。小竹はまずそのことに衝撃を受けるとともに、彼女の言う意味がわからず、しばらくあっけにとられた。正気を取り戻すやいなや、口角泡を飛ばしてまくしたてた。
「そ、そりゃ、どういう意味だ。てめぇ、逃げるなよ。逃げたって、この建物を出るまでには追い付くからな」
「逃げはしないわよ。ほら、中に入って、ドアも閉めるわ」
 距離を取るため下がったのは、小竹のほうだった。
「……なにもんだ、てめぇ」
「見てのとおり、婦警さんじゃないから安心なさいな」
「な、なんでおれが警察なんかに怯えなきゃならねぇ?」
「あんた、ここに来る半年ほど前、何かしなかった?」
 喉仏が音を立てて上下した。
「……なんで、それを……」
「言ったでしょ。あんた、有名人だって。で、何したか言ってごらんなさいな」
「へ、大したことはしてねぇさ。おれのスケにちょっかいかけてくるスケの雇い主を、半殺しにしてやったまでよ」
「あんたのスケ? その子にはあなたより親しかった男性がいたようだけど」
「知るかよ。現にその後も、おれの女だったじゃねぇか」
「じゃあ、それはいいわ。ところで、さっき『半殺し』って言った? あいにく、そのときの怪我が元で、死んだわよ、その雇い主」
「ふ~ん、まぁ、どうでもいいがな。それよか、おれが知りたいのは、あんたが何者かってことだ」
 女は憐れむようにため息をついた。
「あんた知らないのね。人を殺すって、結構な罪になるのよ、こっち以上に向こうでは」
「はぁ、どこの国の話をしてるんだ? おれは、てめぇがなにもんだって聞いてんだよ? なんでそこまでおれのことを知ってやがる!」
「そりゃ、あんたのこと、調べたもの。あたしに、千里眼があるとでも思った?」
「すかした顔して言うんじゃねぇよ。なんで、おれのことを調べる?」
「浦田生子の姉だから――って言ったら?」
 続けざまに言った彼女の言葉に対して、小竹は二十秒近くも黙り込み、その間じっと彼女を見つめ続けてから口を開いた。
「……全然似てねぇじゃねぇかよ……」
「そりゃそうよ。腹違いだもの。しかも父親似のわたしと比べて、あの子は母親似なの」
「あんた、名前は?」
「秀子よ」
「大したタマだな、秀子さんよ。つまりこういうことなんだな。妹から手を引け。さもないと、そのことおおっぴらにして、警察に訴える――ってわけだ」
「別に駆け引きするつもりはなかったのよ。あなたの過去がそうさせただけ」
 小竹はふてぶてしく笑った。そこには今更、柳腰の美人を前にやに下がる笑みも含まれていた。
「かまわんぜ、やれよ。すぐさま逮捕されるわけじゃなし。おれは、あくまでも大切な恋人を守るためにやったと言い張るだろうな。あの女だって、きっとそう口裏合わせてくれるはずさ」
「そうでしょうね、あなたは彼女の何気ない一言を、そう訂正させたのですから。そのうち、自分が殺したと言い張るかもしれないわ」
「じゃあ、もうこの件で、おれを退ける術はなくなったわけだ。ところで、今度はおれから条件を出すが、こういうのはどうだろう。生子の代わりにあんたがおれのスケになるってのは? 言っとくが、留保はなしで、承諾するなら、今すぐここで抱かれるってことだ。折しも今、アパートの住人は出払っていて、声ならいくらでも出せるぜ」
「それはつまり、あんたに惚れることのないわたしは人身御供ってことね」
「懐かしい言葉を吐くんだな。ああ、そうさ。だが、安心しな。死ぬときゃ二人一緒だぜ●●●●●●●●●●おまえだけを死なせはしねぇ●●●●●●●●●●●●●。……んっ、どうした、その顔?」
 顔面蒼白となった秀子が、この場で初めて慄然となった。か細い声を震わせながら、彼女は言った。
「い、いまのセリフ、最後の旦那様とまったく同じだった……。わたしの生まれ変わりが仮に生子さんだとすれば、あなたも今ここに生まれ変わっていたのね――わたしを殺した人」
 視線が向けられたとき、小竹は総毛立つほどの恐ろしさを感じた。
「お、おい、何を言ってるんだ?」
「いいわ、抱かれてあげる。抱かれてあげるって言ったのよ」
「ま、待て。帯に手をかけるな。こんなときに平気で脱ごうとするなんて。てめぇ、案の定ヤクザの情婦かなんかだな。そうやって、自ら手を下さず、おれを殺させる気だな。おまえやっぱりただものじゃないな」
「『ただものじゃない』? フフフ、あんた、本当に女を見る目だけはあるのね」
 小竹にとっては話が散らばるだけで、一向に先が見えなかった。
「おかしい……。てめぇ、やはり、生子の姉とかじゃねぇな」
 滑稽だとでも言うように、秀子はカラカラ笑った。
「どうして? わたしとあの子は、双子のように瓜二つじゃない?」
 むろん小竹は、最前秀子が、容姿が似ていないことを認めた発言をしたのを覚えていた。
「う、嘘だ! じゃあ、言ってみろ。明日が何の日か、言ってみろよ」
 その切羽詰まって放たれた質問が、思いがけず、秀子をハッと驚かせた。憑き物自身でありながら、さながら憑き物が落ちたみたいに、きょとんとなり、目をパチクリさせた秀子であった。
「エッ、明日が何の日? 明日は……明日じゃない? 木曜日?」
「ハッ、ほら! それも知らねぇで、よく生子の姉と――」
 そのときである。背後で高らかな声が響くとともに、わずかに開いていたドアが思い切り引き開かれた。
「明日は、わたしの誕生日なんです、秀子さん!」そう叫んだ生子は、振り返ったまま虚を衝かれ立ち尽くす秀子を、涙溢れる潤んだ目で見つめた。「どうしてこんな危険なまねを、秀子さん、わたしなんかのために……」
 次の瞬間、生子の前には、八木山が立ちはだかった。彼は太陽のような笑みを浮かべて、にっこり秀子に微笑んだ。
「こんなことだろうと思いましたよ、秀子さん」
 凝然と固まった秀子は言葉を詰まらせながらつぶやいた。
「あなたたち、いったい、どうして、ここに?」
「おい、なんだ、人の部屋に勝手に上がり込んできやがって!」
 素早く背後に飛びすさり、蛮声を張り上げていきり立つ小竹を歯牙にもかけず、八木山は秀子を自分の背後にかくまいつつ、一歩前に出た。
 今まで誰も見たことのない、相手を見下した、居丈高な態度で彼は言い放った。なお、こういうときの八木山の顔は、驚くほど男っぷりがよかった。
「おまえ、見たことがあるな。研磨工場のやつだろう。物がない部屋からして、流れ者らしいな。まぁいい、一つ約束しろ。それさえしたら、おれたち三人は黙ってこの部屋から出て行く。いいか、今後二度と、生子さんに付きまとうな。むろん弁当屋にも行くな。どうだ、守れるか?」
 後ろに下げられた秀子であったが、間近に顔を合わせたとき、はっきりと八木山の眉間に濃い死相が出ているのを彼女は見てとった。一方、生子の額からは死相は消えてなくなっていた。ふと視線を返すと、それまで気づかなかったことだが、小竹にも死相が表れていた。秀子はこの部屋に入る前に、当然のこととして、姿を消した状態で室内の様子を観察し、小竹が研いだ刃物を持っていたことを知っていた。彼女の目には、次のような光景がまざまざと浮かんだ――小竹が不意を突いて、刃物で八木山の腹部を二度三度と刺し、その刃物を力ずくで奪い取った八木山が小竹の心臓めがけて深々と突き刺す、その姿が。卑怯にもだまし討ち同然に刃物で刺された八木山が、口から血を滴らせながらも、これで永久に片がついたとばかりニヤリと微笑む姿までも。
「ふん、やかましいわ。てめぇの会社があの界隈でちったぁ幅利かしてるからって、威張るんじゃねぇぜ。おれがどこで何しようと、てめぇには関係ねぇさ。やるってんならやってやろうじゃねぇか。かかってこいよ、おらっ」
 もはや女の前で辱められたことによる興奮と憤りで感情を抑えられなくなった小竹が躍りかかって、仁王立ちから動かぬ八木山の顔面に右げんこつを食らわせた。殴られた八木山はさすがに一歩足を引いたが、引いた足と逆の手でタイミングよく小竹の胸倉をつかむと、自分の体勢を立て直すのと同時に、小竹を窓側に向かって思い切り突き飛ばした。ほとんど飛ぶようにして部屋を縦断し、小竹は肩から壁にぶつかった。
「伊達に重い物ばかり扱ってないんでな。腕力に自信がないわけじゃないんだよ。そうだ忘れてた、これ返しとくぜ」
 八木山がしわくちゃに丸めて、畳の中央に放り投げたのは、小竹が今朝、生子に送った手紙だった。小竹の目の色が変わったが、それがきっかけだったといえば嘘になるだろう。なぜならそのとき、小竹はあくまで冷静だったのだから。彼の背中に隠した手には、鞘の抜けたドスが握られていた。
「女の前でかっこつけたいからって、調子に乗るんじゃねぇぜ」
 小竹がゆっくりと立ち上がり、一歩前に出たのを受けて、八木山も一歩踏み出した。
「まだ痛い目に遭いたいとはな。だが、お望みなら仕方がない。力ずくでも承諾させよう」
 二人の間隔が狭まり、上半身同士が近づいたとき、その下から、キラリと光るものが、八木山の脇腹めがけて突き立てられた。
 と、そのときだった。二人のあいだに割って入ったものがいた――秀子だった。秀子は背中から八木山の身体をすり抜け、その隙間に割り込んだのだ。秀子の右手は、同じ八木山の右手と手のひらを合わせる形でつながれていた。お互いの意思と、反射的に強く握り合ったことで、彼女の身体は瞬間的に肉体が宿っていた。
 小竹のドスは、入るはずのない隙間に割り込んだ秀子の腹部に突き刺さった。
「こ、こいつ、すり抜けやがった。ば、ばけもんだ!」
 眼窩からこぼれ落ちんばかりに目を剥いた小竹が、ドスの柄から手を離し、背後に飛び退いた。
「おひいさん? アッ、なんてことだ!」
 彼女が突如眼前に現れたこと、彼女に肉体があること、その彼女の腹部に刃物が突き刺さっていることを見た八木山は、手をつないだまま、彼女をわが胸に抱きとめた。
 そのとき生子は、実際秀子が動くより早く、八木山の危機を本能的に察知し、手を差し伸べていたが、今はわが目を疑い、何が起きたか信じられない様子だった。
 三人がその状態のまま――時間が停止した。
 空気さえ止まった状況で、秀子だけが動くことができた。秀子は、微動だにしないで、目を見開いて自分を見つめる八木山を振り返った。
「懐かしいわ。これが痛みなのね。でも、この刃物の痛みより、あなたの握った手のほうがはるかに痛いわ。こんなに皮膚の厚い、硬い手をしていたのね。わたし、あなたに会えて本当によかったわ」
 秀子は踵を上げ、少し開いた彼の唇に口づけをしようとしたが、一心に手を差し伸べる生子の顔が目に入ると、唇を避け、彼の頬に口づけた。
「大事なものですもの、取っておかなくちゃ」
 と、不思議なことに、八木山も、身動きこそ取れないながら、時間停止の束縛から解き放たれ、しゃべることができるようになった。これは、秀子にとっても予想外のことであった。こんなことが許されるのは、自分だけだと思っていたから。
「おひいさん、天上に帰るつもりなんだね」
「あら驚いた。ええ、だって帰らねばならない場所ですもの」
「じゃあ、ぼくも連れてってくれないか。きみと一緒に行くよ」
「バカ、あなたにはすでに守らねばならない人がいるでしょ」
「でも、だけど、ぼくは……」
 最初は男、そして女、涙が一筋、お互いの頬を伝った。
「泣かないの。そういう約束だったでしょ。きっとまた会えるわ。そのときには、唇同士優しく口づけしてあげる。あなたが居てくれたおかげで、この世も悪くなかったわ。じゃあ、せめて最後に、本当の霊の恐ろしさというものを、この世に知らしめて帰るとしましょう」
 彼女が背を向けた瞬間、部屋の時間が動き出した。
 小竹がおぞましい声を上げて、わめき叫んだ。顔じゅうの皮膚が焼けた鬼哭啾啾たる幽霊が目の前に迫ったのである。喉を潰した声が聞こえた。
「うらめしや~、おまえを冥途に連れてやる」
 八木山と生子が見ることができたのは、爪の剥がれた、糜爛した皮膚を鉤状にした手だけであった。その手が小竹の心臓部をなぎ払うと、彼は魂が抜かれたように、白目をむいてその場に崩れ落ちた。それと同時に、秀子の背中が、眩しいまでに光輝を放ち始めた。最初山吹色だった光は、次第に強みを増し、白く変わっていった。砂像が風にさらわれるように、人が、物が、空間が白い光に飲み込まれていく。八木山は必死に手を伸ばすも、すでに秀子の姿をとらえることはできず、影が消え、指先が光に飲み込まれていった。
「行かないでくれ! おひい……秀子さぁ――ん」
 八木山の叫びに呼応するように、秀子の声が聞こえた。
「さようなら、わたしの初恋の人」
 刹那、一点の曇りもなく、すべてが光に飲み込まれた。


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