キライとニガテ

実はフルーツが苦手です。
食べられないわけではないぞ、と。好んで食べないだけだぞ、という言葉を使って、いつも「僕はフルーツがキライなわけではない」というしょーもない「好き嫌い多くないよアピール」をしているけど、まあ人からしてみりゃあ、(口にしたくないならそれは嫌いな食べ物じゃろがい!)と思われている筈。恥ず。
筈だが僕は声を大にして言いたい。嫌いではない、苦手なのだと!恥ず!

ふむ、なんで「キライ」じゃなくて「ニガテ」と言いたいんだろう。自分のために整理してみよう。

まず第一に皆さんに伝えたい。フルーツは美しく、かわいい。
そう、フルーツは美しく、かわいいんだ!揺るぎないんだ!

ここで大事なのは、フルーツが美しくかわいいことではなく、「僕はフルーツを美しく、かわいいものだと思っているんだ!」という主張をしたいということです。

納豆が嫌いな人がいる。臭いとかあの粘りとかが嫌いな人がいて、食卓に置かれていること自体がイヤな人がいる。人が納豆を食べているところも見たくない人がいる。いわゆる、「顔も見たくない」というやつだ。いやあれでも納豆はくさいから、単純ににおいがイヤなのかもしれない例えが悪かった。

でも僕と果物の関係は少なくともそういう「顔も見たくない」関係じゃないんだ。フルーツ側はどう思っているのか知らんが。フルーツの存在を否定しないし、むしろ大肯定しているんだ。美しい!かわいい!

ケーキ屋さんのショーウインドウに飾られた、色彩豊かな、ドヤ顔の、もりっもりのフルーツケーキをみると、とってもほわわわーんとなる。(な、な、なんて麗しいんだ!!!素敵だ!!!)ともう惚れ惚れしちゃう。嬉しくなる。

でも(なんて美味しそうなんだ!)ってなったことが一度もない。口に入ってきた幸せを想像したことない。ただただ目の前のめかしこんでいるケーキさんにほわわわーんとなるだけだ。そしてその隣のモンブランをみて(ギョギョエー!ウマソッッ!!!)ってなるだけなのだ。

なんなら、フルーツを美味しく食べることができたらいいのになぁ、という厄介な憧れもある。人が美味しそうに食べているのをみると勿体無さを感じてしまう。人が楽しんでいるものを楽しめない感じがして損をした気分になるじゃあ食えよ!めんどくさいなあ!

果たしてこの状態は「キライ」なのか?きっと僕はこれを「ニガテ」と言いたいのだ。

「キライ」という言葉を口に出してしまうと、僕の中で2つキライが生まれるからキライだ(ややこしや)。ひとつは「全部嫌だ!」って言ってるみたいでキライなんだ。嫌だということががベースになって、「好きだー!」があっても「嫌だー!」に負けてしまいそうになるからだ。もうひとつは絶縁をするような感じがするからキライなんだ。はっきりとした拒絶で、自分の視界に入って欲しくないんじゃー!って感じがするからだ。

でも、「ニガテ」という言葉は、「嫌だー!」がベースになることを一旦保留にしてる気分になれる。そういう気分になれることがいい気分なんだ。そして一定の距離を保って、その距離をゆっくり測っている言葉なんだ。今は「ニガテ」でもいつか好きになれるかもしれない。もしかしたらこの先チャンスがやってくるかもしれない。もっと歳を重ねれば突然フルーツが美味しいと思えるかもしれない。追いかける執念や、近づく努力なんてものは要らないのだ。「キライ」を「ニガテ」と言い換えるだけで、僕はそんな気分になれる。あくまで僕は。

フルーツだけじゃなく、僕にはたくさんの「ニガテ」がある。他の食べ物も、場所も、いろんな作品も、話も、人も、「ニガテ」がたくさん。でも「キライ」って口にしたくない。屁理屈なやり口で小賢しながらも、「ニガテ」との距離を測っている。そんでいつか好きになれるのを気軽に待つことにする。


あ、トマトは嫌いです。



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