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連載小説 hGH:7


 ペナントレースの公式戦がはじまった。
 チームは開幕から好調なスタートを切り、同一カード三連戦を二勝一敗のペースで順調に勝ち星を重ねていた。どの試合も投打の歯車がしっかりとかみ合った理想の戦い方をしていて、敗けた試合でも内容は悪くなかった。現在ペナントレースで首位を独走している。戦力的にもうちが頭ひとつ抜けた状態で、とくに攻守のバランスに秀でたチーム編成になっていると私は自軍の現状を分析していた。ここ数年見てきたなかでも、いまがいちばんいいチーム状態かもしれない。
 今季は井本をhGH使用の緊急措置として急遽引退させ、監督に据えた。その戦力の穴埋めに、これもまた急遽「裏」の契約でクリス・ベンソンというメジャーリーガーと契約した。例年以上に不安材料を抱えていたが、キャンプ、オープン戦ととくに大きな問題はなく、いい形で公式戦に入ることができていた。
 私から見てなによりよかったのはベンソンだった。キャンプ、オープン戦と日本人選手と同じスケジュールをこなし、開幕に照準を合わせて調整をしてくれた。通常メジャーの選手は夏場あたりにコンディションのピークを持ってくる。それをベンソンは、日本式に公式戦の開幕にピークを合わせる方向で適応してくれのだ。
 ベンソンには開幕からファーストで三番を任せていた。まだ二十数試合しか消化していないが、攻守とも現時点では昨季の井本以上の数字を残している。チームに貢献しようとする真摯な姿勢の評価も高かった。プレイだけではなく、人間性も球団内外で認められていた。シーズンを通してこのままの状態がつづくのであれば、年俸七億もそれほど高くはない、というのが私のいまの率直な感想だった。
 一方監督としての井本は、就任当初こそどこか自信なさげに見えたものの、公式戦に入ってからは監督然として堂々とチームを引っ張っていた。ヘッドコーチがベテランということもあり、選手交代、チームとしての戦術、試合のなかでの作戦面など、監督としての目立ったミスもほとんどしていなかった。
 井本は、監督になってより知名度があがった印象がある。ベンソンは、老若男女問わず幅広いファン層に支持を得ていた。昨季よりも、注目、集客、視聴、販売とすべての部門で数字は上をむいていて、明らかに収益はあがっているのだ。球団運営を総合的に見てもかなりいい状態といえた。 
 GM補佐の柴田の強い推薦で獲得した富樫もキャンプ、オープン戦を通して調子がよく、試合勘をなくさないために、二軍の試合に出場させていた。そこでかなりの好成績を残しているが、いまのところ一軍の試合での出番はほとんどない。レギュラー陣の調子がよく、怪我や故障もないのだ。レギュラー陣の休養の代役出場は、やはりチームとしても今後を見すえて若手を優先して使っていくことになる。
 調子のいい控えのベテランがベンチを温めているのは、チームの選手層という意味では健全な状態であるともいえるのだ。
「現状を整理するとそんなところか」
 私はいった。開幕して一ヶ月ほどたったある月曜日だった。公式戦に入って最初の定例幹部ミーティングを翌日に控え、GM補佐の柴田をGM室に呼び、事前に一度ふたりで球団運営を総括したのだ。
「キャンプに入るまではバタバタしましたが、そこからはオープン戦、公式戦とむしろ例年以上に順調ですね」
 柴田はいった。柴田も私とほぼ同じ意見だった。じっさい、現状なにかを変えたり加えたりする必要性を、われわれふたりはまったく感じていない。
 それから、念のため細かい数字を精査した。チームとしての成績。選手個々の成績。球団としての収支。やはり、いまのところ懸念材料はない、というのがふたりでだした結論だった。
「現状維持、を当面の球団運営の方針としようか」
 私はいった。いい状態を長く維持する。じつは球団運営にとって非常に難しいことではあった。つねにさまざまな外的要因が絡んでくる上に、やはり選手は『生き物』であり、『なまもの』であるからだ。 
 そういった面も踏まえ、私は柴田と現状に対する見解を統一した。これで、明日の幹部ミーティングもとくに荒れることはないだろう。


 その後もとくに大きな問題はなく、五月、六月と順調に試合を消化していき、チームは前半戦を首位で締めくくってオールスターブレイクを迎えた。
 私はそこで、私が独断で決める今季前半戦のGM賞を、ベンソンに贈った。文句なしの働きで、まったく迷うことなく決めた。当然のように、ベンソンはオールスターにも出場した。ファーストで、ファン投票全体一位の選出だった。二試合ともに先発出場し、そこでも存在感のある活躍を見せたのだ。
 私はそのオールスターの録画映像をGM室の大型モニタで流しながら、デスクにむかって選手個々のデータのとりまとめ作業をしていた。
 きのうときょうの二試合分の映像が終わると、いったん仕事の手を止め、思いを巡らせた。
 このオールスター戦もふくめ、前半戦のベンソンの働きは見事だった、としかいいようがない。年俸七億はうちにとってはかなりの高額だが、いまのところそれに見合うだけの仕事は充分にしている。それは、グラウンドのなかだけではなく、外でもだった。現状、文句のつけどころはないのだ。シーズンの残り半分、多少の調子の波はあったとしても、このままの状態を維持してチームを牽引してくれるのが、われわれ球団側の理想だった。そしてそれがじっさいにできるなら、ペナントレースの優勝も早い段階で見えてくるのではないか。 
 私は過度に膨らむ期待を抑えつつ、きょう中に終わらせたい自軍の選手のスタッツの精査に思考をもどした。

 翌日だった。そんな私の期待はものの見事に裏切られた。前半戦で積みあげてきたものが、すべて吹き飛びかねない出来事が起きた。
 ベンソンが、突然アメリカに帰国した。経緯や理由はまったくわからない。だれもなにも聞いていなかった。
 ベンソンに張りつかせていた、通訳兼マネージャーの球団職員からの電話で初めて、帰国の飛行機に乗ったということがわかった。私はその電話をGM室で受けた。
「どういうことなんだ」
 私はいった。
「すみません、GM。わたしにも状況がまったくわかりません。妻と帰国する、ありがとう、さようなら、といった内容のメッセージが私の携帯に届いただけです」
 その球団職員も混乱していた。現状わかっているのは、ベンソンが妻と一緒に帰国した、ということだけだった。この帰国が一時的なものなのか、永続的なものなのかすらもわからなかった。
 ベンソンの日本の住居は球団が手配した高級マンションで、家具や家電は備え付けなので、その気になれば手荷物だけで日本を引き払うことはできる。
「ベンソンに連絡は」
「こちらからは通話もメッセージもつながりません」
「とにかく、状況を把握するんだ。引きつづき、ベンソンには連絡をとりつづけてくれ」
 とりあえずベンソンの住居を見にいかせる指示をだして電話を切った。
 職員との通話が終わるとすぐに、ベンソンの代理人に国際電話を入れた。つながらなかったので、メールでメッセージを送った。しばらく待ったが、折り返しも返信もなかった。
 私はデスクに着いてパソコンを開くと、今後の自軍の試合の日程表をプリントアウトした。それから、うちの控え野手のリストとその選手たちのスタッツをプリントアウトした。
 あしたから、公式戦の後半戦がはじまる。
 私は、私の直属の部下である五人の幹部全員にメッセージを送り、今後の対応を協議するための緊急ミーティングの招集をかけた。


 ベンソンの帰国理由がわかった。


  続 hGH:8



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