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連載小説 hGH:8


 ベンソンの帰国理由がわかった。
 ベンソンの代理人から連絡が入ったのは翌日で、ベンソンの完全帰国と正式な退団の意向を聞かされた。球団としては本人と話したかったが、法を駆使した文言を盾に、直接ベンソンと連絡をとることを禁じられ、本件を深く追求することも禁じられた。年俸は、日割り計算で早急に振込むよう指示してきた。随所に米国の法をちらつかせての要求だった。どちらが被害を被っているのかわからない、ずいぶん一方的ないい分だと私は思った。
 自国から遠く離れた、言葉も文化もまったくちがう国での生活と野球に、心身ともに疲れ果て、とても日本で野球をつづけていける状態ではなくなった。
 代理人から聞かされた、ベンソンの帰国と退団の理由だった。事実だとはとうてい思えなかった。ベンソンは、私が見た外国人選手のなかでも、歴代最高といっていいほど日本に順応していた。プレイだけではなく、対人のコミュニケーションをふくめ、グラウンドのなかでも外でもだ。上辺だけの見せかけであそこまでうまくはいかない。だが代理人を通して正式に退団し、法をちらつかせている以上、われわれとしては飲むしかなかった。ベンソン自身の帰国と退団の意思が固いことだけは、どうやらまちがいないようなのだ。
 私はすぐに、うちの球団と委託契約のある企業に、秘密裏にベンソンの帰国と退団に関する調査を依頼した。いま私にできるのはそれくらいだった。
 きのう夜遅く、幹部を全員集めて緊急ミーティングを開いた。朝まで今後の対応について話し合った。そのときはまだ、日本にもどってくるのかどうかなど、ベンソンの情報はまったく入ってきていなかった。正式にはなにも決まらず散会した。
 そのミーティングが終わるのを見計らったように、代理人からの連絡が入ったのだ。朝の九時だった。
「ひどい話ですね」
 代理人との対話が終わり、委託企業に調査の依頼をすると、幹部ミーティングが散会したあともGM室に残っていたGM補佐の柴田がいった。
「とりつくしまもないな。まあMLBの代理人だ、こんなもんだろう」
「で、どうしますか」
「とりあえず、ベンソンのことはいい。もういないんだ。ほんとうの理由は調査で明らかになるだろうが、それはまたさきの話だ。それよりもきょうから公式戦が再開される。今後のことを早急に決めなければ。現場の首脳陣とも、選手の起用法について話しておく必要がある」
 あと数時間で、ペナントレースの後半戦がはじまる。それまでに、球団としてしっかりと試合に臨める状態にしなければならなかった。
「メディアなど外への対応はほかの幹部と球団広報に任せて、とりあえずわれわれは球場へいこうか」
 GM室をでると、エレベータで地下に降りて駐車場から車をだした。私も柴田も一睡もしていなかったが、悠長に睡眠をとっている時間などなかった。


 柴田とホーム球場の監督室に入った。
 監督の井本とヘッドコーチが不安げな顔で待っていた。私からふたりに状況をかんたんに説明した。
「いなくなってしまったものはしょうがない。空いた穴はかなり大きいが、いまいる戦力で後半戦を戦い抜き、なんとか今季をいい形で終わらせたいと考えている。ここが正念場だ」
 ふたりは神妙にうなずいた。
「とにかく空いたファーストのポジションと三番の打順だ。どの選手をどう使っていくのがいいか、意見を聞こう」
 柴田と井本とヘッドコーチ。それぞれが選手の名前をあげた。それから起用法をいった。フォーストに入れる選手。三番を打たせる選手。打順の組み替え。守備のコンバート。
 穴埋めに入れる選手の候補は三人に絞られたが、柴田と井本とヘッドコーチの意見がきれいに三つに割れた。私もその三人で迷っていた。タイプとしては三者三様だ。三人ともそのままファーストに入ることができ、打撃も守備もそれぞれ及第点以上のスタッツを残している。三人の日替わりで、調子のいい選手を使っていくというやり方もあった。
「この三人はきてるか」
 私はいった。
「三人とも早めに球場入りするよう連絡してます。だれが先発でファーストに入ってもいいように。いまアップ中です」
 ヘッドコーチがいった。ここで考えていても埒が明かない、と私は思った。
「よし、わかった。私がこの三人に投げる。三人に、フリーバッティングの準備をさせてくれ。直接見たい」
 練習着に着替えて私はグラウンドにでた。打席をとり囲むようにバッティングケージが用意されていた。マウンドの前には防球ネット。候補の三人がバットとヘルメットを手にして待っていた。
「事情は聞いていると思う。とりあえず、きょうの試合のファーストの先発を決めかねている。直接打撃を見せてほしい」
 私が投げるというと、三選手のあいだに微妙な空気が流れた。私は軽くアップをして、手すきの選手にキャッチボールの相手をしてもらった。私のキャッチボールを見て、三選手の空気が変わった。
「だれからでもいい。ひとり十五球から二十球をめどに打席に入ってくれ」
 三選手は全員右投げ左打ちだった。そこも、ひとりに絞りきれない理由だ。三人のうちのふたりは今後が有望な若手で、それぞれ井本とヘッドコーチの推薦になる。もうひとりは柴田が推している富樫だった。ベンソン獲得の際に、柴田が保険の意味もこめてどうしてもとトレードで獲得したベテランだ。
「では、はじめようか」
 私はマウンドに立つと、ピッチャープレートから一メートルほど前にでた。その分防球ネットも前にだした。いくらそこそこ投げられるとはいえ、私の球速など並の高校生レベルだ。
 若手のふたりから順にケージに入った。私はコースの四隅をついたフォーシームを投げた。それをふたりは無難に打ち返した。コースに逆らわず、いいスイング軌道をしていた。ひとりはパワーヒッターで、ひとりはアベレージヒッターだ。それでも投げていて、ふたりとも若干だがインコースに難があるように感じた。スタッツ通り、及第点はクリアしている、と私は思った。
 それぞれ最後の一球に、予告せずにスライダーを投げた。私は右投げで、左打者の懐に食いこんでいく。ふたりとも、案の定バットの根元でどん詰まった。一流どころの投手の球ならバットを折られているだろう。やはり両名ともそのへんにウィークポイントがありそうな打撃スタイルだった。
 最後に富樫がケージに入った。富樫は打席に入ってかまえると、睨みつけるような鋭い目でこちらを見てきた。ほかのふたりとは明らかにちがっていた。試合中の真剣勝負の目だ。
 はじめのふたり同様、私がどのコースに投げてもフォーシームは富樫も無難に打ち返した。前のふたりよりも力強かった。三十代後半という年齢は感じさせない。そして、最後の一球といって投げた予告なしのスライダーもきれいに芯でとらえて打ち返した。ただこのスライダーは、私が前のふたりで投げたのをケージの後ろからすでに二度見ている。
 私は、これがほんとうに最後だといってボールを挟んで投げた。フォークボール。バッターの手元で、急激に落ちた。私のなかでもあるていど納得のいく落ち方だった。それを富樫は、まったく体勢を崩すことなくフルスイングし、バットの芯でとらえ、ライトスタンドに放りこんだ。
「どうして落とすのがわかった」
 打球の行方を見送ってから、私は富樫に訊いた。
「いえ、GM。まさかフォークまで投げるとはまったく頭にありませんでした。自分は真剣勝負のつもりで打席に入っていました。体がかってに反応しただけです」
 私は、そうかわかったとうなずきながら、これで三人の差ははっきりでたな、と思った。もう迷う必要はないだろう。グラブを外して汗を拭うと、富樫をふくめた三選手にむかって口を開いた。
「では以上だ。きょうの先発はすぐに監督から伝える。通常の練習にもどってくれ」
 私はマウンドを降りると、ベンチの前で並んで見ていた柴田と井本とヘッドコーチに歩みよった。
「富樫だ。当面はベンソンの抜けた穴埋めとして、ファーストに富樫を使うんだ。三選手の併用も守備の入れ替えも必要ない。成績がよくても悪くても一ヶ月は富樫の先発でオーダーを組んでくれ。打順の組み替えが必要なら、それは現場に任せる」
 富樫を使えば、あるていど戦力の穴は埋まる気がした。富樫は前の球団での昨季もふくめ、今季うちでも一軍の試合にはほとんどでていないが、現在状態はかなりいいように見えた。スイングの力強さ、バットの軌道、タイミングのとり方。そしてなにより、あの打席のなかでの鋭い眼光と、いきなり投げたフォークをスタンドまで持っていく瞬時の反応と勝負勘。
 昨季のシーズンオフ、あそこまで強引に富樫を獲得したいといった柴田の意図が、いまになってようやく私にもはっきりとわかった気がした。
 井本とヘッドコーチが選手たちのほうへ歩いていくと、私はきょうの試合のことでさらに二、三柴田に確認をとった。
「では、あとは現場に任せてわれわれはひと息入れようか」
 数時間後、このグラウンドでホームのナイトゲームがおこなわれる。
 私はプレイボールがかかるまでのあいだ、ダグアウト裏の空いている部屋を使って束の間の仮眠をとった。


 ベンソンのほんとうの帰国理由がわかった。


  続 hGH:9



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