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連載小説 hGH:3


 翌日、ホーム球場にきていた井本をGM室に呼んだ。GM室がある球団事務所とホーム球場は目と鼻のさきにある。井本に用件の詳細は伝えていない。柴田とふたりで出迎えた。
「すまんな、井本君。復帰にむけて調整してるところを呼びだして」
 私はいった。シーズン終了後も、井本は毎日球場にきてリハビリメニューをこなしていた。いまも練習着姿だった。明らかに用件を勘ちがいしているように見えた。来季の契約の下交渉とでも思っているのだろう。表情には緊張も警戒もなかった。
「まあ、座ってくれ」
 私はいい、三人でソファについた。テーブルを挟んで井本とむき合った。柴田は私の横に座った。井本はカフェインをとらないと聞いている。秘書的な立場の職員が、果汁100%のオレンジジュースとコーヒーを置いていった。そのグラスとカップをテーブルの端によけると、柴田が井本の頭髪でおこなったドーピング検査の結果の書類をテーブルに置いた。
「来季から監督をやってほしい」
 私はいった。井本はまだわかっていなかった。検査結果をあらたな契約書か何かと思っているようだ。にやりと笑った。
「プレイングマネージャーですか。魅力的な話ではありますが、もうすこし待ってもらいたい。あと一、二年は選手に専念したいので」
「よく見るんだ」
 柴田がテーブルに置いた書類を突きつけた。井本が手にとった。井本の顔色が変わっていくのが、はっきりとわかった。
「これは要請じゃない。井本君、きみは今季で選手を引退し、監督に就任する。球団としての決定事項だ」
 私はいった。
「ちょっ、ちょっと待ってください。そんな、いくらなんでも。話が急だし、勝手すぎます」
 井本は早口にいった。額に汗が浮かぶのが見えた。
「急でも勝手でもないな。きみはもうずいぶん前から規定違反の薬物であるhGHを使用しているんだ。むしろわれわれが気づくのが遅すぎたぐらいだ」
 hGHという言葉に井本は反応した。しばし黙った。それから、絞りだすように口を開いた。
「こんな検査は違法だ。認められない」
 そんなことはわかっていた。その上で、私も腹をくくったのだ。
「受け入れなければ調査結果と検査結果をメディアに流す。球団としても甚大なダメージを受けるが、われわれには心中する覚悟がある」
 NPBでも血液を使ったドーピング検査がはじまっている。尿だけの場合、血液だけの場合、その両方の場合。全体から見れば。まだ年間を通しても対象選手はごくわずかだ。井本が血液での検査を受ける確率は、かなり低い。だが万が一、血液検査の対象に選ばれれば、使用が発覚する可能性は高い。今回私が踏みきった理由のひとつにそれがあった。
「すこし考えさせてください」
「だめだ、いまここで決めろ。いったん持ち帰るというなら、拒否とみなして即刻hGHの使用をメディアに流す」
 柴田が契約書と誓約書をだした。
「これにサインするんだ。すべて承諾するなら、hGHの件はなかったことにする。少なくとも、われわれ球団側からこの話は二度としない」
 契約書は監督としてのものだった。誓約書はhGHに関しての球団と井本とのとり決めだった。
「もう一年だけ、プレイさせてください」
 井本には、あと一年やれば達成できそうな記録がいくつかあった。それを達成すれば、引退後の箔がつく。その箔があるかないかで、将来の生活ががらりと変わることもある。
「わかった。それでおまえの名声が地に落ちていいなら、好きにしろ」
 井本は下をむいた。
「おまえにとっても悪い話じゃないだろう。いままで積みあげてきた栄光を汚すことなく、青年監督としてあらたな野球人生が歩めるんだ」
 井本が顔をあげた。
「どうしてもプレイングマネージャーは」
「だめだ、あきらめろ。おまえの自業自得だ。気持ちを切りかえて今後は指導者の道を進め」
 選手も兼任であれば、ドーピングの影はどこまでもついてまわる。引退した上で監督にならなければ意味がなかった。
「ですが」
 堂々巡りだった。
 それでも、われわれは根気強く説いた。食事もとらず、対話をつづけた。中断は、それぞれがトイレに立ったときだけだった。井本が席を離れるときは携帯電話を置いていかせた。いないとは思うが、協力者がいると面倒な事態になりかねない。
 夜も更け、柴田がトイレに立ってふたりになったときだ。理不尽は承知で、私は井本に子供の話を持ちだした。井本には、中二と小六の男の子がふたりいる。どちらも多感な時期だ。そこを突いた。
「なあ、井本。家族の今後のことを考えれば、おまえに選択の余地がないのはもう充分わかっただろう。そしてこうなった以上われわれ球団側にも退路はないんだ」
 井本が契約書と誓約書の内容を承諾し、それにサインをしたときには、すでに日づけが変わっていた。最後に書類をあらためると、井本は疲れきった顔で立ちあがった。横に座る柴田の顔にも色濃い疲労があった。私はいった。
「会見は三日後にやる。引退と就任は同時だ」
 わかりました、とかろうじて聞こえる声で返事をして、井本はGM室をでていった。その背なかは、きたときよりもひとまわり小さくなったような気がした。
 柴田も辞去してひとりになると、私はソファの背もたれに体を預け、大きく息を吐いた。
 契約書と誓約書にサインをさせたことで、われわれの今日の会談の目的は達成した。二季に渡って憂慮しつづけた懸案事項が、ようやく解決にむかって大きく前に進んだのだ。井本をふくめ、よほどだれかがおかしな動きをしないかぎり、ここから事態が大きくもつれることはないだろう。
 ただ、あらためて気づき、私は苦笑した。
 きょう数時間話しをしていて、井本の口からhGHの使用を否定する発言はまったくでてこなかった。長年ドーピングに手を染めていたことに対する謝罪の言葉も、ひと言もなかったのだ。
 私はソファから立ちあがってデスクに移動した。そしてパソコンを開くと、球団から公式にだす声明文の作成と、三日後におこなう井本の会見の場所と時間の調整に、ひとしきり没頭した。



 怪我が治らないということで押し通した。



  続 hGH:4


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