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連載小説 hGH:6



 六億でも落とせなかった。
 足もとを見られた。選手本人にではなかった。代理人と代理人の会社にだった。  
 結局、出来高をふくめて七億円で契約が成立した。むこうのいい値が通った形だった。契約は、「裏」にせざるを得なかった。
 代理人は一時期日本に住んでいたこともあるという米国人だった。うちの戦力を詳細に分析していた。うちがベンソンを必要としていることをはっきりと認識されていた、ということだ。端から勝ち目のない交渉だったのだ。
 ベンソンとの契約が合意するとすぐに、私は球団広報を使って、年俸四億、出来高一億のトータル五億円での契約成立を非公式にメディアに匂わせた。それで、各報道機関から「推定年俸五億円」の報道がおこなわれる。ベンソン本人にも代理人側にもこちらの意向に沿ってもらった。契約のなかに、表むきの金額とじっさいの金額を使い分ける承諾の文言を入れたのだ。じっさいの契約額の公表をしない、と。あとは、事実を知るうちの幹部連中に箝口令を敷いた。
 これで、「裏」の契約ができあがった。
 米国から帰国した大島が、今回のベンソン獲得の経緯を、GM室に直接報告にきた。
 途中報告は、そのつど柴田経由で受けていた。直接受けるのはこれが初めてになる。
「GM、今回はすみませんでした。七億もかかってしまって」
「いい、気にするな。本件に関していえば、金額はやむを得ない。だれが交渉してもベンソンと契約するなら七億しかなかったんだ」
 大島の交渉にミスはない。そこは、大島のためにも今後の球団運営のためにもはっきりさせておかなければならなかった。
 翌日、大島が帰国して初めての幹部ミーティングを開いた。久しぶりに幹部五人が全員顔をそろえた。
 まずそれぞれがルーティンの報告をした。
 ひと通り報告が終わると、さっそく議題はクリス・ベンソン獲得の経緯に移った。本件の責任者の柴田に仕切りを任せた。柴田が概要を説明した。
「井本の抜けた穴埋めのためのベンソン獲得はいいのですが、なぜそれに七億もかかったのか、もう少し詳細を聞きたい」
 柴田からの説明が終わると、幹部のひとりがいった。
「なぜ裏の契約にいたらなければならなかったのか明確な理由を教えてください」 
 べつの幹部がいった。
 柴田が詳細を話した。それで、どちらも納得した。ベンソンに七億で「裏」の契約。この件については、井本のhGHの後処理の意味もふくめてやむを得ない、ということで全会が一致した。
「ところで、どうして富樫を獲得したのかの説明はまだ受けていませんね」
 ベンソンがらみの話が終わると、初めにベンソンの質問をした幹部がいった。
「ただでさえベンソンで金がかかっているのに、差額は二千万とはいえ、安い選手をだして、とくに必要でもない、使えるかどうかわからない年俸の高い引退間際の選手をわざわざトレードで引っ張ってきている。その理由を」
 やはりその話になるか、と私は思った。柴田が口を開いた。
 ベンソンが獲得できなかったときの保険。富樫の調子がかなりいい状態で保たれていて戦力として期待できる。野球に真摯にむき合っていて若手の規範となる選手である。そういった趣旨の説明を柴田はしたが、これにはほかの幹部も納得しなかった。やはり、理由が弱い。このていどの選手であれば、すでにうちに何人かいるのだ。私は助け舟をだした。
「最終的には、私がどうしてもほしくて柴田に頼んだんだ」 
 理由を訊かれた。
「勘だ。いま柴田が説明した理由を踏まえて、長年の経験からくる勘が働いたのだ」
 それで押し通した。私自身富樫の獲得には疑問符がついている。獲得の根拠は明確ではないが、柴田が獲りたいといった。きっとなにか意味があるはずなのだ。富樫という選手をどうこういう前に、私は富樫を獲りたいといった、その柴田の判断を信じた。
 ミーティングはそれで終わった。
 二日後、クリス・ベンソンの入団会見がおこなわれた。
 球団側からは、私と柴田と大島が出席した。ベンソン側は代理人が同席した。大島は通訳も兼ねていた。
 会見のなかでわれわれは、ベンソンが現役バリバリのメジャーリーガーであることを必要以上に喧伝した。夫婦ともに日本びいきだということも。契約内容についての話題はできるだけ避け、金銭にまつわる質問ははぐらかした。だれにもよけいな発言をさせないよう、柴田と大島にも細心の注意を払わせた。ベンソンのアメリカンジョークと片言の日本語で、場は終始和んだ。会見は、つつがなく終わった。
 念のため、私はその後数日ようすを見た。球団内外を問わずアンテナを張った。とくに問題はないようだった。今回のベンソンとの契約に関して、不穏な気配やおかしな空気が流れることはなかった。
 井本の現役引退と監督就任。戦力の穴埋めにベンソン獲得。
 これで、一連のhGHがらみの後処理はひと段落した、と私は判断した。
 あとは、今後の球団運営をうまく軌道に乗せることができるかだろう。


 年が明けて春季キャンプがはじまった。
 ベンソンはいったん帰国していて、春季キャンプに合わせて正式に日本にやってきた。
 春季キャンプは毎年国内の温暖な地方でおこなわれていて、私は今年もそれに合わせてチームに帯同した。
 事前に聞いていた通り、初日からベンソンも練習に参加していた。ベンソンは、まだまだ軽めの調整の段階だった。私は練習前に二、三分言葉を交わし、軽く背なかを叩いて、期待している、がんばってくれと声をかけた。とくに不摂生の感じはなく、体はあるていど絞られているように見えた。通訳を介しているが、チームメイトとも積極的にコミュニケーションをとっている。問題はないだろう。
 グラウンドを一周し、私はなんとなく気になっていた富樫を見にいった。富樫は秋の段階から若手にまじって汗を流していたと聞いている。かなり調子がいい、と報告は入っていた。
 富樫はグラウンドの端のほうでティーバッティングをしていた。私が近づいていくと打つのをやめ、帽子をとって頭を下げた。
「土尾GM、この度は私を獲ってくれてありがうございました」
 うちに移籍してきて、直接話すのは初めてだった。それよりも、富樫のティーバッティングを見て少し驚いた。スイングスピードが思っていたよりも数段速い。そして、バットの軌道、タイミングのとり方。私の目にもかなりレベルの高い打撃ができているように見えた。あくまでティーバッティングだけを見ての感想だが。
「ちょっと代わってくれないか」 
 ボールをトスしているコーチにいって、トス役を代わってもらった。
 数球をふつうに投げたあと、私は打ちにくいのを承知で、トスをあげるボールのコースやミートポイントをずらして何球か投げた。富樫は、すべてのボールに対して、体勢もスイングも崩さずに芯でとらえた打球を正面のネットに打ち返した。
 私はふと思い、ボールをふたつ手にとって同時に二球投げてみた。富樫はそれにもまったく体勢を崩さず、ふたつのボールをミートポイントに引きつけ、バットの面をうまく使った軌道のスイングで、その二球をバットの芯付近でとらえて打ち返した。二球とも正面のネットに勢いよく吸いこまれた。センター前ヒットを二本同時に打った、といった形だ。
「GM、さっきから遊んでるんですか」
 富樫はいった。
「すまんすまん、あまりにも調子がよさそうなんでな」
 これになんの意味があるのか私にもよくわからなかった。ただ、富樫の状態がかなりレベルの高い状態にあることだけはなんとなくわかった。
 トス役のコーチに礼をいい、富樫にひと声かけ、その場を離れた。
 各選手のシートノックを遠目に見ながら、今季もしかすると富樫はおもしろい存在になるかもしれない、と私は思った。


 ペナントレースの公式戦がはじまった。 


  続 hGH:7



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