ポップな中にあるネガティブさを肯定してくれる

XYZ

いっとき、GLAYのライブの基軸となっていたこの楽曲。自身が、どうしてもGLAYに傾ける情熱の割合を少なくせざるを得ない時期だったこともあり、ライブでこの楽曲が中心的になっていることに、自身の知らないところでことが進んでしまっているようで、少し寂しくなった当時の感情をふと思い出した。2017〜2018年頃の話。
でも、今改めてこの楽曲をこの映像と共に聴いてみたら、あの頃に感じた自分の感情だけだったことへの愚かさになんと恥ずかしいことか。自身が多少離れざるをえなかった時間にもGLAYは進化をしており、それをちゃんと証明していた。自身がもっとも尊敬するスタイルで、変わらずにファンを魅了しているだけだったんだなと。
ちっぽけな理由で、多少なりともこの楽曲に抱いたネガティブ感情そのものが悔しい。それくらい「GLAY」が詰まった楽曲だから。

このライブに自分はもちろん行けていないが、GLAYのライブの中でも類稀なライブではないだろうか。ライブ中の頭上に何かがあるということは、過去のライブでもあったが(TERUもライブ中にヘリに乗って、そこから会場を煽ったこともあったし)、あのスピード感のものが空中を飛び交い、機体がもたらす風をダイレクトに感じながらライブを楽しむなんて、この先あるかもわからないほどに、貴重なライブだ。その迫力たるや。どうイメージしようと思っても、自身の乏しい経験では、なかなか匹敵する経験がないために、リアルなイメージはおそらくできない。
そう考えると、GLAYを好きになったことで経験できたことの多さに改めて気づいたりするものだ。

さて、楽曲については、GLAY節が炸裂の1曲。アルバム3曲目にふさわしいというか。そう言う意味では、GLAY楽曲としての珍しさというか、目新しさのようなものはないが、音源として聴くイメージよりも、特に晴れた野外で演奏された時の、演出されていない演出マジックで化ける楽曲だなと感じる。「グロリアス」的な感じの楽曲?ポップで、メジャー調で、それでいて、空の下で演奏された音たちが、空に吸い込まれるのではなく、ずっと先の空にまで漂って、留まっている感じ。ちゃんと空と共に、そこに存在できる音であると感じる。

歌詞の中にもその要素が多分に含まれていると思う。明るい楽曲に明るい歌詞を乗せるのではなく、湿った感情がうずまく心のうちが吐き出されているような歌詞。明るいだけじゃ生きられない、でも、忘れたふりした、気づかないふりした無理に作った明るさが、いつか本物の明るさになって、湿った感情をちゃんと包み込んで、端っこに寄せてくれる。それでいいんだということを、メロディと歌詞に込めてくれている楽曲。ヒーローだって、ヒロインだって、永続的にヒーローとヒロインでいられるわけではない。人知れず、唇を噛み締めていることだっていっぱいある。そういう人生の全部を受け止めてくれる楽曲。

あぁ、夏の野外で聴きたい。

・・・ということで、もう一回コピペ。

#GLAY #XYZ #夏の眩暈ごと連れてきてよ #アンニュイ #redbull

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