通勤note#20 相補性②

以前、相補性と題した通勤noteを書いた。4ヶ月も前のことではあるが、たしか「続きを書く」と言った気がするし、今更ながら追記できそうなことを書いてみたいと思う。


以前の記事では「自分本位なコミュニケーションは成り立たない」ということを書きたかった(気がする)のだが、そのエッセンスとしてタイトルを "相補性" としてみたのだった。要は、お互いに補い合うこと・またその意識があって初めて、コミュニケーションは「上手く」成り立つのだということを言いたいのだった(気がする)。勝手な自分の期待を相手に押し付けるな、ということでもある。人間関係のコツは相手に期待しないこと、と言い切る人もいるぐらい、「他人への期待」は対人関係能力に影響を及ぼすものなのかもしれない。


さて、この話がなぜ纏めづらかったのか少し考えてみたのだが、恐らく「抽象化しすぎた」のだと思う。結論としては「お互いの期待というものはおよそ一致しないものである」のでその点理解してコミュニケーションしましょうね、というものだったが、何だか安っぽくなってしまったのだと感じる。時に物事は抽象的になりすぎると物凄く凡庸な結論になったりする。「まあ結局人次第だよね」とかいう結論づけで終わる議論に何度か疑問を持ったことがあったが、たぶん同じことなのだと思う。そもそも、何でもかんでも話を綺麗に纏めようとすること自体に無理があって、無理やり結論づけることは単に自己満足のためにするものなのかもしれないし、そうなのだとしたら全く生産性のない行為でもある。


こういう時の解は、恐らく一段階抽象度を下げることかな、と思う。「お互い様だよね」とかで終わらず、少し具体的な場面での対策を考えてみたりするのが分かりやすいかもしれない。例えば場面を仕事に、対人関係を上司と部下に絞るだけでも大いに話が分かりやすくなる。
個人的にはかなりスッキリしないまま終わった "相補性" の記事だが、そこから上記のような新しい思考の糸口を掴めたので一応良かったと感じている。良かったというのは、スッキリしきらないまま記事を世に出したことであり、その旨を正直に吐露したことであり、結果、その事を忘れずにこうして自分なりに続編を紡げたことである。
自分は捻くれ者なので綺麗に纏めすぎても気持ち悪いし、この程度で書けるだけのことを書き留めておくのがちょうどいい。

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