日本ハム・球団初代オーナー/大社義規、背番号「100」
北海道日本ハムファイターズは今日7月12日から、本拠地・エスコンフィールド北海道で、千葉ロッテマリーンズを迎えて3連戦を戦う。
そして、7月2日から行われる本拠地9試合で、日本ハムファイターズの初代オーナーである大社義規さんの背番号「100」をつけたユニフォームで戦うという。
北海道日本ハムファイターズは、1974年、日本ハムファイターズとして再スタートを切って50周年を迎えるが、その初代の球団オーナーが大社義規さんである。
大社さんは1915年2月1日、香川県大川郡津田町(現・さぬき市)に生まれると、1942年、徳島市で「徳島食肉加工工場」を設立、1951年に「徳島ハム株式会社」を設立、その後、本社を大阪市浪速区に移転し、1963年には「日本ハム株式会社」に商号を変更、同社をハム・ソーセージを中心とした食肉加工のトップメーカーに成長させた。
大社さんは1974年、名将・三原脩の勧めにより、「日拓ホームフライヤーズ」を買収し、新チーム名として公募で決定し、「日本ハムファイターズ」としてプロ野球に参入した。
大社さんと三原脩は、旧制・高松中(現・香川県立高松高校)の先輩・後輩という関係であった。
大社さんはファイターズの初代球団オーナーに就任、球団社長に三原脩、監督には三原の娘婿である中西太を招聘している。
ファイターズは中西太監督の下、最初の2年はリーグ最下位、大沢啓二監督に交代してからも2年連続リーグ5位と苦しい船出であったが、1978年からは3年連続でAクラス入りを果たした。
そして、1981年、大沢啓二監督就任6年目にして、1962年の「東映フライヤーズ」時代以来となる19年ぶり、ファイターズに改名後に初となるパシフィック・リーグ優勝を果たしている。
このとき、大社オーナーも胴上げされている。
初代オーナー・大社義規の命日に、黙とうを提案した新庄剛志監督
今季、日本ハムは、大社義規さんの命日である4月27日、練習開始前に本拠地のエスコンフィールド北海道で「感謝の黙とう」を行った。
しかも、新庄剛志監督の発案で行われたというから驚きだ。
新庄監督は以下のようにコメントしている。
大社さんは2005年4月27日、90歳で激動の生涯を閉じた。
北海道日本ハムファイターズは2006年、トレイ・ヒルマン監督の下、25年ぶりのリーグ優勝、そして、1962年以来となる日本一に輝いた。
10月26日、札幌ドームで日本一が決まったその瞬間、大社さんの息子、大社啓二オーナー(当時)が父の遺影を両手に持ち、選手たちによって胴上げされた。
それは、選手・新庄剛志が大社さんへ約束を果たした瞬間でもあった。
大社さんのつけた背番号「100」は、大社さんの生誕95年目となる2009年2月1日、ファイターズで唯一の永久欠番に制定されている。
それにしても、一体、いまのプロ野球チームの監督で、「初代オーナーの命日に、黙とうしましょう」なんて提案する現役の監督がどこにいるだろうか。
新庄監督は2022年オフ、監督就任時の記者会見でも、日本ハムの前身で、1945年に設立された「セネタース」の初代監督である横沢三郎の名前を挙げた。
新庄剛志監督の人の縁を大切にする姿勢、歴史を大切にする姿勢が伝わってきた。
大社さんは来年2月1日、生誕110周年を迎える。
新庄監督の願いは、来年2月1日、春季キャンプ地にチャンピオンフラッグを掲げることだろう。
大社義規、野球を愛し、野球に愛された男の一人である。
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