見出し画像

【訃報】ウィリー・メイズ/史上最高の中堅手

「MLB史上最高のセンターフィルダー」と言われた、元メジャーリーガーのウィリー・メイズさんが6月18日に亡くなりました。
93歳でした。

ウィリー・メイズさんは1931年5月6日、アラバマ州ウェストフィールドに生まれた、右投げ右打ちの外野手です。
幼少の頃からスポーツ万能で、地元のフェアフィールド・インダストリアル高校に入学すると、野球以外にも、バスケットボールでは得点王となり、アメリカンフットボールではクォーターバック、フルバック、パンターを務めました。
野球の二グロリーグのバーミ​​ンガム・ブラック・バロンズを経て、1950年、19歳でニューヨーク・ジャイアンツ(現・サンフランシスコ・ジャイアンツ)と契約しました。
途中、1953年には朝鮮戦争のため兵役に従事しますが、1954年に復帰、1972年のシーズン途中で、ニューヨーク・メッツに移籍し、1973年のオフに現役を引退しましたが、MLB在籍通算22年の中での活躍はここに書ききれないほどです。

メイズさんは、そのプレースタイルとともに「セイ・ヘイ・キッド(Say Hey Kid)」というあだ名で親しまれ、メイズさんが着けた背番号「24」は、ジャイアンツ、メッツの両チームで永久欠番となっています。

MLB史上唯一、通算3000安打、300本塁打、300盗塁、打率3割をクリア

<タイトル>
・首位打者:1回(1954年)
・本塁打王:4回(1955年、1962年、1964年、1965年)
・盗塁王:4回(1956年-1959年、4年連続) 

<表彰>
・ナショナル・リーグ新人王(1951年)
・シーズンMVP:2回(1954年、1965年)
・ゴールドグラブ賞(外野手部門):12回(1957年 - 1968年)
*ロベルト・クレメンテと並びMLB最多タイ
・MLBオールスターゲームMVP:2回(1963年、1968年)
・ロベルト・クレメンテ賞:1回(1971年)
・MLBオールセンチュリー・チーム・外野手部門選出(1999年)

<主な記録>
・MLB史上最年少(当時)での「シーズン50本塁打」:24歳137日(1951年)
・MLBオールスターゲーム選出:20回(1954年 - 1973年)
*ハンク・アーロンの21回に次ぎ、スタン・ミュージアルと並ぶ歴代2位タイ
・「シーズン30本塁打・30盗塁」:2回(1956年、1957年)
・MLB史上初の「300本塁打・300盗塁」達成(1969年)
・MLB史上4人目(当時)の「20二塁打・20三塁打・20本塁打」(1957年)
・MLB通算本塁打数:660本(歴代6位)
・中堅手としてのMLB出場試合数:2829試合(歴代1位)
・MLB通算刺殺数(外野手):7095(歴代1位)

<その他表彰>
・アメリカ野球殿堂:1979年(有資格1年目、得票率94%で選出)
・大統領自由勲章(2015年)

MLBが生んだ最高の「オールラウンド・プレイヤー」

米国では、野球に必要なすべての技能に優れたプレイヤーを「5ツールプレイヤー」といいますが、メイズさんは「オールラウンド・プレーヤー」であり、「コンプリート・プレイヤー」とも言われました。

メイズさんのもっとも有名なプレイは、1954年のワールドシリーズ第1戦の守備で見せた、世紀のキャッチ、「ザ・キャッチ」でしょう。

1954年のワールドシリーズ第1戦、ウィリー・メイズの「ザ・キャッチ」

1954年の第51回ワールドシリーズは、アメリカン・リーグの優勝チームで6年ぶりの出場となる、クリーブランド・インディアンス(現・ガーディアンズ)、一方、ナショナル・リーグの優勝チームで3年ぶり出場となる、ニューヨーク・ジャイアンツとの対戦となりました。

9月29日、第1戦は、ジャイアンツの本拠地であるポロ・グラウンズで行われました。
ポロ・グラウンズは1891年に開場し、その後、何度か改修されましたが、かなり変形したスタジアムで、左翼フェンスまでは279フィート (約85.0 m)、右翼フェンスまでは 257.67フィート (約78.5 m)なのですが、左中間と右中間が大きく膨らみ、しかも、中堅フェンスは最深部で483フィート、約147mもあるとされました。

試合は両チームが序盤に2点づつ取り合い、膠着状態となり、2-2の同点で終盤へ。
8回表、インディアンスの攻撃、ジャイアンツの先発のサル・マグリエ がインディアンズの先頭打者、ラリー・ドビー(のちに中日ドラゴンズにも在籍)に四球を与えました。
続く、アル・ローゼンがヒットを放ち、無死一、二塁となります。
ここでインディアンスの左打者、ビック・ワーツを迎えたところで、ニューヨーク・ジャイアンツのレオ・ドローチャー監督は動きます。
左腕のリリーフ、ドン・リドルをマウンドに送りました。

ワーツ対リドルの対戦は、カウント2ボール1ストライクとなり、リドルが4球目を投じると、ワーツはセンターへ大きなフライを打ち上げました。
打球はグングン伸び、このとき、試合を見ていた誰もがインディアンスの勝ち越しを確信しました。

ところが、このとき、ジャイアンツのセンターを守っていたメイズは打球を目掛けて一直線、ウォーニングトラックまで背走し、最後は肩越しにノールックで捕球しました。
そして、すぐに反転して倒れ込みながら、二塁に向かって送球しました。
ワーツの打った打球の推定飛距離は420フィート、130メートルもあったと言われています。

https://www.youtube.com/watch?v=7bLt2xKaNH0


インディアンスの二塁走者のドビーは、メイズがボールが捕球した瞬間に、タッチアアップしれていれば、勝ち越しのホームを踏めたかもしれませんでしたが、まさかメイズに捕球されるとは思わず、一旦、二塁に戻って三塁にタッチアップしなければなりませんでした。
これでインディアンスは1死一、三塁となります。

その後、ジャイアンツは右腕のマーヴ・グリソムが登板します。
グリソムは代打の デール・ミッチェルを四球で歩かせて、1死満塁にしましたが、続く代打のデイブ・ポープを三振に打ち取り2死、そして、最後は捕手のジム・ヒーガンをレフトフライに打ち取り、チェンジ。

ジャイアンツの絶対絶命のピンチを、メイズはスーパーキャッチで防いだのです。
結局、試合は延長10回裏、ジャイアンツの攻撃で代打のダスティ・ローズがライトスタンドのフェンスギリギリに飛び込む3ランホームランを放って、サヨナラ勝ちし、シリーズ初戦をものにすると、そのまま4連勝でワールドシリーズを制覇しました。

これが、ウィリー・メイズが後世まで語り継がれることになった、「ザ・キャッチ」です。

のちに、メイズに打球をキャッチされて、”殊勲打”を損した打者、ヴィック・ワーツはこう語っています。

「こんな風に考えるんだ。
もしも、ウィリーが捕った打球がホームランや三塁打だったりしたら、何人の人が私のことを覚えていただろうか? 多くはないだろうね。
こんな感じで、初めて私に会う人は皆、ウィリーの『ザ・キャッチ』と私を結びつけてくれるので、気分がいいんだ」

「ザ・キャッチ」がこれだけワールドシリーズ名場面としても何度も話題に上るメイズですが、面白いことに、メイズはワールドシリーズでは打つほうはさっぱりな結果で、1954年に続き、1962年と2度のワールドシリーズに出場したものの通算では打率.239、本塁打0本に終わっています。

MLB史上初の「300本塁打・300盗塁」、史上6位の「660本塁打」


メイズさんは1961年7月4日、通算300本塁打を達成すると、1969年4月8日、通算300盗塁にも到達、MLB史上初となる「300本塁打、300盗塁」をマークします。現在でも、MLBではわずか7人しか達成していない偉業です。

メイズさんの通算本塁打660本塁打は、ハンク・アーロンに抜かれるまで、ベーブ・ルースに次いで、MLB歴代2位でした。

現在はバリー・ボンズアレックス・ロドリゲス、アルバート・プホルスにも抜かれて、歴代6位です。

ただし、MLBで通算600本塁打・通算300盗塁を両方クリアしているのは、メイズさんが最初で、その後、バリー・ボンズアレックス・ロドリゲスだけです。

大谷翔平は、メイズ越えできるか?


メイズさんは、1955年、当時、MLB史上最年少でシーズン50本塁打に到達しましたが、そのシーズン、51本塁打、24盗塁、13三塁打という記録を残しています。

MLBの長い歴史で1シーズンで、「50本塁打、20盗塁、三塁打10本以上」を記録しているのは、メイズさんだけです。

これを破る可能性があるのが、大谷翔平です。

大谷翔平も2021年に46本塁打、26盗塁、8三塁打、2023年に44本塁打、20盗塁、8三塁打を記録していますが、「シーズン42本塁打、19盗塁、三塁打8本以上」を2回以上、記録しているのは、メイズさんと大谷翔平だけです。

メイズさんは1964年、31歳で「47本塁打、19盗塁、9三塁打」を記録していますので、大谷にもメイズさんを上回るチャンスはあるでしょう。



1960年、日米野球で来日、野村克也と野球談議

メイズさんは1960年、日米野球でサンフランシスコ・ジャイアンツの一員として来日しており、全国各地の球場で読売ジャイアンツと1試合、全日本の選抜メンバーと15試合を戦っています。
このとき、全日本の選抜メンバーには野村克也さんがいました。
メイズさんは全日本選抜との試合で、野村さんのプレースタイルを見て、「ムース(Moose)」と綽名をつけました。

「ムース」とは、北米における「ヘラジカ」のことで、ノムさんの、のそっとしているが周囲をよく観察し、敏感に反応する動きやプレーをメイズさんは観察していたようです。
そして、遠征先に向かう移動中、二人は同じ電車に乗り合わせ、野球談議をしたそうです。


(杉浦忠で)うらやましかったのは、その筋肉だ。
 1960年のオフ、お前と一緒に日米野球のメンバーに選ばれた。あの年は、サンフランシスコ・ジャイアンツが来日。遠征の電車でメジャーのスーパースター、ウィリー・メイズと乗り合わせ、私は彼と野球談議をした。彼の半そでのシャツから伸びた筋肉隆々の二の腕に、俺はくぎ付けになった。「ちょっと触らせてくれないか」と言うと、快く了解してくれた。
 そのとき触ったメイズの腕と、スギの腕の筋肉の感触が、まったく同じだったのだ。筋肉の上にピッタリ張り付いた皮は、つまもうとしても筋肉から離れない。
「お前の体は、メイズ並みだなあ」
 私はうらやましさのあまり、ため息を漏らした。

1985年のヒット曲「センターフィールド」にも登場


・米国カリフォルニア州生まれのロックシンガーのジョン・フォガティは1985年、「センターフィールド」という曲を発表しました。
この曲は、主人公が野球の選手になっており、歌詞にはメイズさんの綽名である「セイ・ヘイ・キッド」(Say Hey Kid)も登場します。

So say hey, Willie
Tell Ty Cobb and Joe DiMaggio
Don't say it ain't so
You know the time is now

さぁ、“セイ・ヘイ”、ウィリー・メイズでも、タイ・カッブでも、
ジョー・ディマジオでもなんでも来いさ
「そりゃムリだ」なんて言わないでくれよ
いまがその時だってわかるだろ

この曲のミュージックビデオでは、往年のメジャーリーガーの映像がふんだんに使われていますが、メイズさんの「ザ・キャッチ」のシーンも収められており、そのシーンは1分48秒から始まります。

・そして、サビの歌詞はこんな内容です。

Oh, put me in, Coach
I'm ready to play today
Put me in, Coach
I'm ready to play today
Look at me, I can be centerfield

おい、監督、オレを試合に出してくれよ
オレは今日、プレーする準備はできてるんだ
監督、オレを試合に出してくれよ
オレは今日、プレーする準備はできてるんだ
オレを見ろよ、センターフィールドを守れるんだぜ

R.I.P Say Hey Kid, Mr. Greatest Centerfielder, Willie Mays

この記事が参加している募集

#野球が好き

11,139件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?