一言多十と熊耳武彦/1946年、セネタース創立初の公式戦に先発した新人バッテリー

NPBの2023年シーズンの「セ・パ交流戦」も残すところあと1試合となりました。

今日、6月18日、甲子園球場で行われる阪神タイガース対北海道日本ハムファイターズ戦ですが、また新庄剛志監督がビッグサプライズを発表しました。

2023年ドラフト会議で1位指名した投手の細野晴希(東洋大学)、そして2位指名した進藤勇也(上武大学)を揃って先発起用することを自身のインスタグラムで明言したのです。


新人バッテリーの同時初出場は1946年の一言多十と熊耳武彦以来

ファイターズの歴史で前身を含め、新人の投手と捕手が同じ試合でそろってデビューするのは、1946年、前身のセネタース時代の投手・一言多十と捕手・熊耳武彦以来とのことで、実に78年ぶりというわけです。

一言多十は「ひとこと・たじゅう」と読みます。
プロ野球オールドファン、トリビアファンにとっては常連ともいえる投手です。

そして、熊耳武彦の苗字「熊耳」は「くまがみ」と読みます。
二人ともプロ野球選手の「難読氏名」で必ず挙がる選手です。

この二人がバッテリーを組んで開幕戦に臨んだ1946年のセネタースはどんなチームだったのでしょうか?

戦後初のプロ野球、セネタースらが加入、8チームで再開

日本の職業野球は戦後、1946年に8チームで再開されました。
その中には新チームの「セネタース」、「ゴールドスター」もありました。

そして、そのシーズン開幕となった1946年4月27日、後楽園球場で行われたセネタース対巨人戦で、いまの日本ハムに連なる「セネタース」の歴史が始まりました。

セネタースは、戦前の職業野球に加盟していた「東京セネタース」の関係者であり、監督を務める横沢三郎と助監督・横川四郎の兄弟が中心となってつくった新しいチームで、「東京セネタース」の直系ではありません。

セネタースの初代メンバー、職業野球経験者は6人も、開幕戦スタメンはたった1人

新チームの「セネタース」はまず、選手をかき集めることに難航しました。

セネタースの初戦の先発メンバーを見てみると、

1番 サード 横沢七郎 (慶應義塾商工ー慶応義塾大ーマキノキネマーコロムビアー東京セネタース・翼軍)
2番 ショート 鈴木清一 (島田商ー専修大学)
3番 センター 大下弘 (高雄商ー明治大学中退)
4番 ファースト 飯島滋弥 (慶応義塾大ー日立航空)
5番 セカンド 長持栄吉 (島田商-東海製紙ー東洋紡富田)
6番 ライト 上口政 (下妻中-明治大)
7番 キャッチャー 熊耳武彦 (台北工ーコロムビア)
8番 レフト 大木薫四郎 (千葉商)
9番 ピッチャー 一言多十 (島田商-専修大)

セネタースの選手には戦前、職業野球の経験がある5人が入団しましたが、全員、「東京セネタース」の在籍した選手OBでした。
そして、記念すべき初戦の先発メンバーのうち、プロ経験があるのは、1番打者の横沢七郎だけ。
セネタースの初代監督・横沢三郎、助監督・横川四郎の弟です。

大下弘はのちに「青バットの大下」と称され、野球界のスターとなります。
実は終戦直後に開催された「日本職業野球東西対抗戦」で、明治大学を中退してセネタースに入団した無名の新人としてデビューしましたが、4試合で15打数8安打、12打点、1本塁打、打率.533で、最優秀選手賞を獲得しました。
特に第3戦、西宮球場で放ったホームランは、115メートルも距離のあるライトスタンドを超えた特大アーチで、一躍、話題になりました。

そして、セネタースのこのメンバーの出身校を見れば、新チームの「セネタース」が選手編成にいかに苦労したかがわかると思います。

特に静岡・島田商業出身者が、鈴木清一、長持栄吉、一言多十と3人もいます。
慶應出身者も、横川七郎、飯島滋弥、白木義一郎がいました。
監督の横川三郎が明治大学出身のため、後輩の大下弘、上口政らを入団させていますが、大下に至っては無理やり明治を中退させて入団させたため、横川三郎は以後、明治大学の野球部を出入り禁止となりました。

そして、戦後初のプロ野球のシーズンが開幕。
セネタースにとっても記念すべき最初の試合が始まりました。

セネタースの先発、一言多十は静岡の古豪・島田商業出身で、1937年春のセンバツから、1940年夏の大会まで、1938年夏の大会を除き、計7度も甲子園の土を踏んでいます。
最初は外野手でしたが、1938年春からエースとなり、1939年夏はベスト4、1940年夏は準優勝と全国制覇まであと一歩、届きませんでした。

一言は卒業後、五大学リーグ(現在の東都大学野球リーグ)に加盟する専修大学に進学、1941年春季リーグで1年生ながらいきなり、リーグ史上初のノーヒットノーランを達成するなどの活躍を見せました。
ところが、太平洋戦争が激化する1943年にはリーグ戦が中止となり、一言も学徒出陣で海軍に配属となりますが、実際に出陣することはないまま、終戦を迎えることになりました。
その後、地元・静岡に帰っていたところを、セネタースの助監督兼マネージャーでもある横沢四郎のスカウトを受け、入団を決めます。

開幕投手・一言多十と熊耳武彦のバッテリー、1死も取れずノックアウト

ところが、セネタースの先発としてマウンドに上がった右腕・一言多十は、巨人打線に対して、制球が定まらず、3つの四球とヒット1本で早々にノックアウトされました。

セネタースの2番手として登板した右腕・黒尾重明は、都立化学工業高校から入団テストで唯一、合格して入団した投手ですが、巨人打線の勢いを止められず、初回、一挙、6点を失いました。

結局、その後もセネタースは黒尾が9回まで一人で投げ切りましたが、被安打15、四死球12、自責点8と散々な出来でした。

一方、セネタース打線は、巨人先発の近藤貞雄の前に、被安打3、四死球4個、5奪三振、無失点に抑えられ、最後、9回の攻撃は打撃のよい投手の白木義一郎(慶応義塾商工ー慶応義塾大学)まで代打で起用しましたが、完封を許し、巨人が12-0と圧勝しました。

注目の新人、大下弘はデビュー戦、4打数ノーヒットに終わります。
ファーストゴロ、三振、ライトフライ、三振でした。

新生・セネタースにとって、先が思いやられる敗戦でしたが、翌日4月28日、後楽園球場で行われたゴールドスター戦では、甲子園、早慶戦でも鳴らした白木義一郎がプロ初登板し、ゴールドスター打線を被安打3に抑え、無四球完封勝利を挙げました。

一言多十、13四死球を与えながらプロ初完投勝利

初戦でノックアウトをくらった一言多十も、4月29日の対中部日本戦では、9回を投げ切り、被安打3で1失点完投勝利でプロ初勝利を挙げました。

しかし、一言の投球内容は大荒れで、なんと与四死球は13個。
それでも、中部日本の打線が無死満塁などの場面で1試合で4併殺に倒れるなど、拙攻に次ぐ拙攻に助けられたこともあり、セカンド・根津弘司の失策による1失点だけで、自責点は0でした(スコアは6対1)。

一言の1試合与四死球13個は、1942年4月22日、黒鷲の小松原博喜が、プロ初登板・初先発した後楽園球場で行われた対巨人戦で、1試合14個の四死球を与えた9回を完投(敗戦)したのに次ぎ、当時のプロ野球ワースト2位でした。

その後、1994年7月2日、近鉄バファローズの野茂英雄が、西武球場での対西武ライオンズ戦で191球、毎回与四球、16与四球で3失点完投勝利を挙げるまで、一言はNPBにおける「最多与四球勝利投手」の記録保持者でした。

一言はこの年は25試合に登板、うち23試合に先発して、6勝13敗という成績でしたが、セネタースが選手不足のため、外野手としても88試合に出場、規定打数にも達して、打率.233(リーグ36位)、ホームラン0本、22打点という打撃成績でした。

一方、正捕手の熊耳武彦は100試合に出場、打率.255(リーグ30位)、2本塁打、14打点でしたが、盗塁1個にもかかわらず、三塁打はリーグ6位となる10本を放って、アグレッシブな走塁を見せました。

「セネタース」、善戦するも、わずか1年で身売り、「東急フライヤーズ」へ

セネタースは結局、1946年のシーズン、105試合を戦って、47勝58敗、8球団中、5位で終えました。新チームのゴールドスター(のちの金星スターズ、高橋ユニオンズ)、既存チームのパシフィック(のちの大陽ロビンス、松竹ロビンス)、中部日本(のちの中日ドラゴンズ)よりも順位が上でしたので、善戦したといえるでしょう。

特に白木義一郎は新人ながらチーム105試合のうち、59試合に登板、うち48試合に先発して、43試合に完投、30勝22敗、リーグ4位となる防御率2.58で「最多勝利」のタイトルを獲得しました。
セネタースのチーム47勝のうち、白木ひとりで実に2/3に当たる30勝を挙げたのです。

しかも、白木は11月5日、優勝が懸かった巨人を相手に、9回を投げ、1失点で完投勝利を収め、4-1で巨人に勝利して、巨人の戦後初の優勝を阻止しました。
そして、この試合で、大下弘がシーズン20号本塁打を放ち、本塁打王を獲得しました。
新人の左打者でシーズン20本塁打は、2021年、阪神タイガースの佐藤輝明まで75年間、現れませんでした。

しかし、セネタースというチーム名はわずか1年で終わりを告げます。

セネタースの経営は苦しく、チーム内で内紛も絶えなくなります。

結局、その年の12月、五島慶太率いる東京急行電鉄(東急)に球団権利金24万円を合わせ、合計35万円でチームを売却することとなりますが、監督の横沢三郎はこれに憤慨して、半ば解任のような形で監督を辞任してしまいます。

そして、東急は1947年1月7日、球団名を「東急フライヤーズ」に変更し、新しいオーナーに大川博が就任します。
大川はその後、映画会社の東映の初代社長となり、1947年に東急フライヤーズを買収、「東映フライヤーズ」と改称します。1962年にフライヤーズはチーム創設16年目にして悲願のリーグ優勝を果たし、大川は「背番号100」のユニフォームを着て、宙を舞うことになります。

その後、紆余曲折ありながら、現在は北海道日本ハムファイターズとして、いまも歴史を重ねています。

「セネタース」初代メンバーのその後

一言多十は1950年オフ、投手としては通算68試合に登板、11勝28敗という成績を残して現役を引退しましたが、打者としては通算2本塁打、打率.198という成績でした。

一方、熊耳武彦は1948年にセネタースを退団しますが、1950年にまたも新設された大洋ホエールズに入団、一軍では出場なしで、現役を引退しています。

白木義一郎はその後、1947年には26勝25敗、防御率1.74で「最優秀防御率」のタイトルを獲得、1950年は開幕投手を務め、開幕から4試合連続無四球完投(内訳は2勝2敗)するなど、開幕戦から5月25日の阪急戦の8回にかけて、74イニング連続無四球という、当時の日本プロ野球新記録を樹立しました
(その後、1981年、ヤクルトスワローズの安田猛が81イニング連続無四球で記録更新)。

しかしながら、白木はそれまでの登板過多がたたったのか、1951年はわずか4勝に終わって東急を退団、1952年に阪急ブレーブスに移籍しましたが、そのオフ、33歳で現役を引退しました。
通算242試合に登板、97勝98敗、防御率2.83でしたた。
引退後は、参議院議員として、1956年から1986年まで31年も務めました。

新庄剛志監督の原点は、大先輩の苅田久徳?

なお、白木と熊耳のバッテリーは、試合中にピッチャーゴロに打ち取ると、白木がわざと捕手の熊耳に送球し、それから熊耳がファーストに転送したり、白木はやはりピッチャーゴロに打ち取ると、ファーストへの送球をゴロで転がしたりするという「珍プレー」を多用したそう。

これは1947年から東急フライヤーズの選手兼監督に就任した苅田久徳が選手たちにショーマンシップを推奨したからでした。

一方でチーム内からは「エラーしたらどうするんだ」という批判の声も上がっていたそうです。

苅田久徳は1934年、のちの読売ジャイアンツとなる「大日本東京野球倶楽部」の設立に参加、三原脩に次いで巨人軍に入団した選手の第2号でした。
東京セネタースに移籍後は二塁手として華麗な守備と走塁を誇り、1938年秋シーズンでは「最高殊勲選手(現在のシーズンMVP)」に輝くなど、戦前、職業野球界において「投の沢村栄治、打の景浦将、守の苅田」とも謳われるほどでした。
苅田は二塁の守備で、投球ごとに守備位置を変えたり、ジャンピングスローを見せる一方で、「隠し球」や「空タッチ」などの”トリックプレー”も好んで使っていたようです。

そういう苅田久徳のショーマンシップをいま思い起こさせるのが奇しくも、現在、ファイターズの監督を務める新庄剛志監督です。
新庄剛志監督は知らず知らずのうちに、大先輩・苅田久徳のスピリットを受け継いでいるのかもしれません。



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