ニギハヤヒノミコトを祀る【伊勢天照御祖神社】福岡県久留米市の神社

伊勢天照御祖神社
(いせあまてらすみおやじんじゃ/いせあまてるみおやじんじゃ)は、
福岡県久留米市大石町にある神社です。通称 大石神社。

創祀年代は不詳。式内社・伊勢天照御祖神社の論社。
旧社格:懸社。

国司越前守の何某かが、伊勢大神宮の瑞垣内の小石と古鏡を
ここに祀ったと伝えられています。

大石太神宮ともいわれ、古くは、伊勢御前神社、
あるいは天照御前神社と記されていたが、後に大石御前と記される。

『延喜式』神名帳は、筑後国三井郡三座のうちに
「伊勢天照国照御祖神社」を記すが、
久留米市御井町の高良大社の末社と当社に比定が分かれ、
他に『筑後国神名帳』の三潴郡「正六位上大石兵男神」を
当てる説もある。

古代の郡界が不明のため本来の所在地は定めがたい。
矢野一貞は『諸社捨実鈔』で当社を式内社としているが、
その論拠は注目に値する。

いわく
「社後の土中に許多の齎瓮埋もれたり、掬うべし、
 千年外の祭器なること疑いなし」。

現在の神社は市街地になっているが、
台地と筑後川の自然堤防の上に、
大石神社遺跡・速水遺跡・南崎遺跡など弥生時代中~後期の遺跡が
ひろがっている。

大石町の当社の神体は、本殿土間にある巨石で、
支墓の上石あるいは古墳石室の蓋石かと推測されているが、
江戸時代の『筑後志』や社伝は、
この霊石が年々肥大するという伝承を伝える。

また石の大きさは「方九尺」、別に「方三尺」という。

この巨石を祀る伝承が神社発祥にひきつがれているとすれば
祭祀はより古く、巨石は磐座であるかも知れない。

またこの神社も、社名と祭神から見て物部氏の日神祭祀に
関連していたと思われる。

御祭神
天照国照彦天火明尊(饒速日命)
あまてるくにてるひこあめのほあかりのみこと(にぎはやひのみこと)

九州最強の河童王 「九千坊河童」
「九千坊河童」のふるさとは
中央アジアタクラマカン砂漠を流れるヤルカンド河の源流。

約二千年前のこの地方は
猛烈な寒気に襲われ酷寒と食糧不足に耐えかねた一族は、
移動することを決意し、中国の東部をめざして出発、
まずヤルカンド川を下り楼蘭を通過、敦煌、王門関等を経て、
一応青海に落着いたのであるが、
ここも依然として食糧不足に見舞われたので、
一族は蓮来島(瑞穂の国・日本)に渡ることを決意し、
九千坊は部下の九千匹を引連れて黄河を下り、黄海に出て、
仁徳天皇の治世の頃に熊本・八代の浜辺に辿り着き、
球磨川を安住の地と定め、千余年を平穏におくった。

千六百二十年頃のあるとき、肥後城主加藤清正公は、
清正公の小姓が河童に殺された事を理由に河童が最も苦手とする
猿の大群を用いて球磨川から追放した。

追放された九千坊一族は、
その後久留米の有馬藩主の許しを得て筑後川に移住した。

有馬公は寛大にも「今後人畜に悪さをせぬと誓うなら以後、
我が領土にて暮らす事を許してつかわす」と「九千坊」に申し渡した。

「九千坊」は有馬公に感謝し、
以後、水天宮(水の神様)の眷属として領民を水害から守る事を
誓ったと言う。

寛永15年ごろ、江戸の有馬家下屋敷に水神様分霊を祭ることになり、
九千坊一族もまた江戸品川に移住し、墨田川に住みついた。

しかし、九千匹の中には、好色なものや、酒癖の悪いもの、
悪戯者等もおったので頭目から破門されたものも数知れず、
破門された河童は利根川を始め次第に全国の河川に散らばっていった。

正保4年ころ、部下を統率するのには、
問題が多いと判断した九千坊は、再び藩主の許しを乞うて古巣、
筑後川に帰って来た。

鎮座地
福岡県久留米市大石町字速水132

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