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TSUNAGUレポート

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将来を見据えて、包材の企画・販売にチャレンジ。「おいしいを支えたい」を、新しく実践していきたい【勝木研二商店(後編)】

大手メーカー勤務の後、家業を継ぐことに 私は、小さい頃から会社が2階、自宅は3階の建屋、という商売が身近な環境で育ちました。祖母から「将来、仕事は何するとね?」と聞かれると、2階を指さしていました。そうすると祖母が喜んでくれるんですよね。だから小学校低学年の頃から”継ぐ”という意志は、どこかにありました。 大学も醸造学科があるところを選び、卒業後は大手食品メーカーに入社。 ”発酵”が楽しいなと思ったのは、就職してからです。自分で発酵管理したものが商品になり、営業の方が

食品原料、添加物の販売で、九州の「食」をバックアップ。独自の営業スタイルで、メーカーの心をつかむ株式会社【勝木研二商店(前編)】

酒造をルーツに九州の「食」を支えてきた企業 お客様は、醤油・味噌メーカーが約35%、調味料・タレメーカーが約25%、漬物メーカーが約15%の割合。これが全体の約7割のお客様となります。特に九州の醤油は、アミノ酸液を配合して甘味や旨味をつけた混合醤油がメインなので、大手との差別化ができて福岡県内でも80軒以上の醤油メーカーがあります。 元々、本家が酒蔵で分家である私共の先祖は醤油屋でした。創業者の勝木研二は福岡県酒造組合の理事長として仕事をしていた際、酒屋に出入りする業

造り手として、まだ出会えていない味・香りがたくさんある。焼酎の新しい「価値」をもっと追求していきたい。三和酒類株式会社(後編)

麹・酵母と会話しながら、環境を整える 大分の麦焼酎の特徴は、主原料の大麦を糖化するのに必要な「麹」も含め、すべてを大麦で仕上げることです。これにより、より麦らしい風味を生かした本格麦焼酎となります。大分県は元々、大麦の産地で麦味噌に使ったりという食文化がある土地柄です。 三和酒類では、さまざまなタイプの原酒を持っており、ブレンドすることで、さまざまな商品設計が可能となる点が強みです。コンセプトに合わせたオリジナルの酵母を開発していて、その組み合わせや貯蔵の期間・方法など

「いいちこ」を始め、人との“ご縁”を大切にずっとチャレンジしてきた会社、それが三和酒類。【三和酒類株式会社(前編)】

4社合同で設立した、三和酒類の歩み 三和酒類は1958(昭和33)年からその歴史がスタートします。現在の宇佐市で創業していた赤松本家酒造・熊埜御堂酒造場・和田酒造場という3つの造り酒屋が一緒になってできた会社です。各蔵で造っていた日本酒の共通銘柄を「和香牡丹」にし、共同瓶詰め場として業務を開始しました。 社名の由来は、スタートが「3社」だったので「3社で和を持って」という気持ちから「三和」に。「酒造」ではなく「酒類」としたのは、この当時から「将来は日本酒だけではなく、さ

キユーピー醸造との協働、レストラン事業などを通じて“お酢の魅力”をもっとアピールしていきたい【株式会社庄分酢(後編)】

15代目が中心に開発した「かすみくろ酢」 いま庄分酢は、そろそろ息子・清太朗へのバトンタッチの時期に来ているのです。彼が中心となって開発プロジェクトを進めた商品もあります。 その一つが「かすみくろ酢」です。キユーピーさんの研究で、酢を作る「酢酸菌」という成分が、体にいいということが最近分かってきたんですね。今までのお酢の製造工程では、「酢酸菌」は取り除いてしまう成分でしたが、それをあえて残した、古来製法の「にごり酢」なんです。 「酢酸菌」を加えることで免疫力の向上が

300年来の伝統製法で作る「有機玄米くろ酢」をベースに、カジュアルな女性向けビネガー商品へと展開【株式会社庄分酢(前編)】

お酢ではなく、微生物が働く環境を作る 庄分酢がある“榎津”という地域は、大川市でも古い町並みが残っている地域です。この辺は、古くから家具作りで栄えた土地で、職人さんが多く住み着いた町。築後川があり、そこに船が来て、荷下ろしし、市が開かれました。家内工業が始まったのもその時代で、お酒、お酢、醤油などの醸造店が近くにあって、当時の花形産業だったのではないかと思います。 うちは江戸時代初期に造り酒屋としてスタートし、1711年、四代清右衛門からお酢の商売を始めました。それ以来

醸造をベースとした、こだわりの調味料作り。海外進出も目指し、人材育成にも力を入れる。【フンドーキン醬油株式会社(後編)】

主力商品の「カボスぽん酢」と「青柚子こしょう」 現在、フンドーキン醬油の本社工場は全63名(男性40、女性23名)、約140種の調味料を生産しています。月産は約60万本。先端技術を取り入れながら、長年の味噌・醤油の醸造物を扱った製法で培った、昔ながらの本物の味を追求していくのがフンドーキンのスタイルです。 製造している調味料は、大分が発信源の「カボスぽん酢」と「青柚子こしょう」が中心です。とにかく、いい原料を使っていきたい。素材の美味しさを生かすということが、本社工場で

「五感」を大切にしたドレッシング作りに注力。時代を見据え、女性従業員の活躍にも期待。【フンドーキン醬油株式会社(前編)】

醤油・味噌に続く次の一手がドレッシング フンドーキン醬油のドレッシング工場は、1999年に設立され、現在は従業員数78名、生産品目は約80品目に上ります。 昔から醤油・味噌作りには定評があった弊社ですが、昭和40年代に入った頃から、市場が厳しくなりました。技術革新で大量生産ができるようになり、醤油・味噌の価格もどんどん下がっていった。スーパー、デパートで価格競争の時代になっていったんです。そこで、注力するようになったのが醸造技術を生かした加工調味料。その一つが、ドレッシ

「赤しそジュース」「九州黒にんにく」「韃靼蕎麦(だったんそば)」など数々のベジフード(健康野菜食品)で話題に。SDGsプロジェクトも進行中。【ユワキヤ醤油株式会社(後編)】

大分の「にんにく」を活用 「黒にんにく」も人気商品です。約18年前、大分県の推奨作物の会議があって、JAさんと野菜問屋さんから、「大分のにんにくが売れなくて困っている。数カ月で芽が出て廃棄になる。なんとかならんか」と相談を受けたのです。 そのとき頭に浮かんだのが「黒にんにく」。 自分も食べたことがなかったのですが、青森県の「黒にんにく」をお取り寄せして食べたら、甘くて美味しいんですよ。それで急きょ独学、試行錯誤して、工場に製造室を作り、温度管理もして。価格も分かりやすく

“キッチン感覚”のモノ創り。“オーダーメイド”でロングセラー商品を生み出す。【ユワキヤ醤油株式会社(前編)】

大分で家業を継ぐことに 私が子どもの頃、昭和30年代は、とにかく右から左に売れた時代。3代目はアイデアマンで、軽飛行機で空からPRをしたり、金曜日の19時にTVCM(静止画像)を流したり。家業は活況でした。 その後、スーパーなど新しい業態の量販店が主流になっていくのですが、4代目は、既存の顧客で会社は回っていたため、ハードルの高い新しいニーズにチャレンジするという選択はしなかったようです。 その頃、私は大学を卒業し、東京の大手量販店に就職し、郊外型スーパーの新規出店

『マーシー』をきっかけに、海外にも “大山食品のファン”を増やしていきたい。 【大山食品株式会社(後編)】

品質を見直し、体に優しい「自然塩」に  結婚し子どもが生まれた後、健康についていろいろと考える時期があって。家族で食事を変えてみたんです。玄米菜食と、自然岩塩を使った発酵食品を中心にした食事を3カ月間続けました。そうしたら、家族の体調が良くなっただけでなく、私自身の持病もすべて治って体重は10kgも減ったのです。食事の質って大切なんだなあ、と身をもって実感しました。    その経験から、商品の品質について改めて考えました。そこで見直したのが、「塩」です。それまでは精製塩を使

手のかかる「古式醸造法」が当社の原点。 まず、それを大切にしていきたい。【大山食品株式会社(前編)】

昭和5年、宮崎での酢づくりをスタート  私の祖父にあたる大山清が20代のときに創業しました。宮崎に住むあるお酢屋の男性と偶然に出会い、酢の製造を一から教わったことをきっかけに、甕(かめ)仕込みの醸造をスタートしました。  元々は隣の国富町に工場を置いていましたが、昭和48年に、現在の綾町へ移りました。その理由は、広い敷地と、甕を設置できる日当たりの良い高台があったから。私たちが行う静置発酵法に適した環境だったのです。  また、良質な水に恵まれていることも大きな決め手だっ