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落語の呼吸の話

どうもです。


Twitterのフォロワーさんは概ね知っていただいてるかもしれんけど、俺は大学の頃に落研(落語研究会)に入っていた。

落研でも、自分だけで練習しても不安だからと先輩に練習を見てもらうことがある。プロみたいに「稽古をつける」というような大したものではなく、自分が演っているところを見てもらって、思ったこととかを伝えてもらう、というようなものだ。

とある先輩に見てもらった時に、「呼吸を意識しろ」というアドバイスを頂いたことがある。

その先輩曰く、「聞いているお客さんも呼吸している、そのお客さんが吸うタイミングで何か言うと、次は吐くタイミングだから笑いやすくなる」と。簡単に言うとそういうことらしい。

だから、まずは自身の呼吸とお客さんの呼吸を見て「合わせる」ことをやりなさい、ということだった。それを感じ取って出来るようになれば、ずらしたり押し込んだり引いたり出来るようになると。

その時とてもわかりやすく伝えていただいた。二年生の頃で何もわかっていないに等しかったから、その時の自分にとっては新たな発見。

そこから意識するようにして、考えた上で高座で実践するようになった。かなり後々影響を与えたというか、出来ることの幅は広がったように思う。


落語は辞めてしまったから、残念ながら演じる側としてその感覚はもう忘れてしまったんやけど、客として聞いてて同じように感じる部分もある。

プロでもアマでも、呼吸の合わせ方でだいぶと笑ってる実感が違うのだ。

強いキャラクターで押し込まれたり、グッと惹き付けられている時、というよりもむしろ、何てことのないセリフだったり表情だったりでフッと笑っている。説明が難しいが、説明出来ない部分で面白いと感じている感覚。

別に興味を失っているわけではないが、落語は時間が長いので、ふとした拍子に油断が生まれることがある。油断したところをふいに突かれると弱い。

掛け合いやワード、あるいはキャラクターの面白さだけではなくて、そういう油断を突くような笑いの取り方があるから、長い時間でも聞けるのかな、と思う。

別に時間が短い漫才やコントでもそれは多分にあるとは思うのだが、落語の場合そこの影響力がとみに大きい気はする。

これを合わせられて、大したことないやり取りでも笑わせるのが「上手い」ということなのだと思う。「上手い」と「面白い」は別物のように捉えられがちだが、俺の中では「面白さを作り出してる奴が上手い」なので一応共通している。

当然ながら、客も全員同じリズムで呼吸しているわけではないので、合わせても全員に合わせられはしない。

それでも、合った人から笑いが伝播して、「何か面白い雰囲気だよね」ってなってきたら客席の満足度としてはかなり高くなると、色んな人を聞いて実感している。


まあ結論を言うと、好きな落語家さんとか探す時に、客側としてもその「呼吸が合う」という部分に着目して聞いてみると見つけやすいかも、と思った次第。


ちなみに、演者側の感覚を忘れている、って書いたのは、この前辞めてから初めて落語のネタを繰ってみたのよ。(一人で口に出して演じてみることを俺とか周りでは「繰る」って言ったりする。)

そしたら、酷い酷い。やってないから当たり前やが。どうやっても合わせるイメージが出来ないの。

人前でやってない、というのはあるにしても、合ってるか合ってないかの判断すら出来ない。ただ呼吸で「絶対にそこじゃないだろ」ってのだけはわかる。吹奏楽や歌で有り得ないところにブレスを置いてる感じね。

これは慣れ。経験。継続。そういうものなんだなぁと実感した。


演る側としてはどうでもいいけど、見る側聞く側としてその感覚になったら面白さ全く感じられ無さそうでイヤやから、聞きたい落語や落語家さん、聞きに行きたい会があればあんまり躊躇わず通おう、と思った、という話。


以上。またお目にかかれますよう。さいなら。

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