「わかる」と「できる」は別。

今日、ZaPASSのビジネスコーチングを受けた備忘録に、ホカホカした心のままにだらだらと書き残す。
コーチは、綱嶋さんというお方。敬意と愛着を込め、つなっしーさんとお呼びする。

今回のセッションは、「たかが当たり前、されど当たり前」って言葉がすごくぴったりな時間だった。

ここ最近の自分が、自分とつながれてない感覚がすごかった。そこに、漠然とした恐怖があった。そういう状態でコーチングを受けることも怖かった(無駄な時間の使い方をしてしまうのではないか、とか、バカっぽく見られてしまうんじゃないか、とか思っていた)。

実際、最近コーチングを受けたときも、自分の口から出てくる言葉は、前も誰かに言っていたような痛みや恐れ。言葉にすることで苦しみは再生産されるしどんどん弱気になるだけでなく、本来、セッションでさらなる飛躍をするためにせっかくこさえていた「前に進む材料」が、出番をなくして寂しがっていた。

今回のつなっしーセッションも、そういう風に進んでいくのを感じて、途中すごく苦しくなった。うわぁ、これまた同じループかな。

すぐさま感じてることぜんぶ白状した。
「わたし、前にコーチングを受けたときと今、ほぼ同じことを言ってる気がする。『自分の中で何度も向き合ってきたことだからもういいよ。黙れ!』っていうような感情ばかりが出てきて前に進めないし、本当に話したかったことまでたどり着けない気がして苦しい。毎回、自分を慰めて終わるの、もういい。不安とか恐怖なんか探せばいくらでもあるし、出てくるたびにそいつと真正面から向き合うの、永遠に時間あっても無理なんじゃないかのかな。って思ってるけど先にそいつらが出てきて、悔しい。ていうか、この切り口自体がまたこの時間を”停滞”させる”闇に向き合う系”の時間になってる気がするのが悔しい。どうしたらいいですか。助けてください・・・」(なんかこの悩み、はぐくむコーチングスクールStep Up編のクラスでいじられたくだりのも入ってる)

続くつなっしーさんとの対話の中で、わたしはあらためて「自分の闇の声を邪魔者扱いしているんだ」と実感した。それも、「もう何回も考えてるよ。知ってる!」という声が自分の中に出てきつつ。「もう、わかってることをなぞるだけのために、つなっしーさんという優秀なコーチとの時間を使うのか。嫌だもっとわたしが知らないわたしの話をしたいよぅ」はぁ、今日もわたしの脳内はにぎやかだなあ・・・。

今回問われたこと、言われたこと、全部に対して、反応的なわたしの声は「わかってる」だった。そう。「わかってるけど、できない」ことについて話してたのだ。それができるようになるの、めちゃくちゃ大事じゃん。

「エダヒロ 秋のわかってる祭り」だった

「わかる」が「できる」に変わった感覚としてあったなというのが、つなっしーさんのある質問。

「闇の自分が出てきたときに、どうお迎えしてあげ、その上で自分はどう生きていきたいんだと伝えてあげたい?」

くるみの答えは、
「お、来てたんだ、いらっしゃい。くつろいでて。コーヒー紅茶どっちがいい?ちょっとわたし忙しいから、いてもらって大丈夫だけど、わたしは別のことするね」。

これは、ふたつの意味で大事だった。
ひとつは、お部屋にお呼びするイメージをしながら身振りをつけてやることで、身体感覚にアクセスすること。
もうひとつは、身振りまでしてやるのになんか可笑しさを感じて、別の意味で闇の声を忘れられること。

秀逸。。。

さらには、身体感覚については闇の自分に上の答えを伝えたとき、どこに温かさを感じるか、も問いとしていただいた。

ジャッジなく、あらゆる自分を自分として受け入れる。「そこにいていいよ」って言うこと。
それが、やっと今日感覚としてわかった気がした。

そして、話を聴く必要もないのだということ。
わたしは、感情はそれが出てくるたびに真正面から向き合うことが誠実なのだと思い込んでいた。よくよく言葉にしてみると、バカらしいが、でも心の中でやっぱり何となく思っていた。でも、違う。
頻繁に家に遊びに来る友達が、毎日押しかけて来たからといって毎回話を聴く義理はない。メンヘラだからといって、毎日話して事情を知っているのなら、話を聴く必要性と自分の忙しさのバランスを見て判断することはできるはずだ。

当たり前とか、わかってるっていって目を向けようとしなかったプロセスは、自分の土台部分を形成する本当に大切なことだった。大切なことは、何回でも確認できたらいいね。

「前に進みたい」ってコントローラーみたいな前傾姿勢で後半までヤダヤダ言ってたけど、セッション時間を通して、自分の「在り方」に本当に直結する大切な話だった。ありがとうございました。

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