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「失敗」は何が/誰が決めるのか。

最近、麻雀にはまっている。
もともと、囲碁やボードゲームを楽しんでいた自分。麻雀にのめり込むのも、時間の問題だったかも知れない。

「もっと強くなりたい!」と手にしたこの本が、麻雀の戦術だけにとどまらない衝撃を与えてくれた。

これは、かなりマニアックというか、専門的な麻雀の1冊で、巷の多くの人が手に取るものではない。僕だって、高度な内容をえっちらおっちら咀嚼しながら、なんとか1ページずつ読み進めている。

この本は、プロ雀士である朝倉康心が自身の対局を振り返りながら、自分のおかしたミスを徹底的に分析していくという内容だ。

それだけ聞くとどんよりしたナイーブな本に思えるけれど、ちょっと違う。彼が言う「こうすればよかった」は、望んだ結果が得られなかったからではなく、「自分の思考の過程に甘さがあった」、ただその一点に向けられているからだ。


この本には、彼が負けた対局が多登場する。「こうしておけばよかった」と。と同時に、彼が勝った対局も掲載されているのだ。同じく、「こうしておけばよかった」という言葉とともに。

勝ったからよし、ではない。そこに至るまでの過程にミスがあったかどうか、彼は驚くほどストイックに自分の思考を逆走する。

でも、僕が本書の肝と感じたのは、彼がいくつかの負けた一局に対しては、「この負けはしょうがない」とも語っているところだ。

そのとき自分は、考えるだけ考えて、最善を尽くした。その結果の負けを後悔しても、どうにもならない。そう、勝ちと同じく、負けた、という結果のみに彼は目を向けているわけではない。

朝倉の"失敗"を決めるのは、まわりの声でもなく、その結果でもなく、自分の思考を追う彼自身なのだ。


僕が好きな囲碁というゲームは、ジャンルとしては「二人零和有限確定完全情報ゲーム」という。

え? いきなり漢字ばっかりで脳みそがストップする?

まぁ、細かいところはいいんです。ここで強調したいのは、この"確定"という部分で、つまりゲームにランダムな要素が登場しない、ということ。

囲碁は、途中でサイコロを投げて、出た目によって打つ石の数が変わる、なんてことはない。おたがいが「ここに打とう」と考えた手を、黙々と交互に打ち合うゲームです。

一方、麻雀は大きな不確定要素が絡むゲーム。ランダムに割り振られた牌を使って、なんとか勝ちを目指しにいく。

なので、確率だとか統計だとかが大きな価値を持つゲームでもある。例えば、ある戦術を行なって有利になる確率が90%なら、それを行なった方がいい。たとえ、10回に1回は不利になるとしても。

だからこそ、麻雀は後悔をしやすいゲームとも言える。本来(という言い方も少しおかしいけれど)有力なはずの判断が、今自分が目の前で行なっている対局では失敗に繋がったりする。たまたま、そういうこともある。でも人は、「あぁ、こうしておけばよかったなぁ」とついつい後悔してしまう。


本書で朝倉が淡々と語る失敗には、上記のような未練たらしさはない。麻雀が不確実性を持ったゲームで、完璧な打ちまわしができないのは仕方のないこと。その上で、自分の思考や判断に間違いがなかったかを、愚直に検討していく。

なんというか、堂々としているなぁ、と思わされる本だった。

何が失敗だったのか。それを決められるのは、自分だけ。

勝ちに甘えず、負けに執着せず、ただ自分に向き合いながら進んでいく姿勢は、僕の背筋をピッと伸ばしてくれました。


そうそう、未練たらしさはない、て言ったけど、彼の悔しさは一語一語にギュッと詰まっているんです。そこも、いいよね。とっても。

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