インフルエンザ許すまじ

インフルエンザにかかって、所属する音楽系サークルでの発表のためにたくさん練習してきた学園祭に出られないことが決定してしまって二日目の夜です。さいあくの気分。学園祭は明日からで、みんな本番に向けてうきうきです。私は部屋で一人涙をぽろぽろ。ほんとうに悔しい。みんなは明日の本番に向けて早寝しないといけませんが、私にいたっては寝なくてもいいわけですからね。もういっそ徹夜してみましょうか意味もなく。

あ~~~悔しいな~~~~~ほんとに楽しみだったのに。いろんな人に迷惑かけて申し訳ないな(涙)の段階はもう昨日で終えました。今は、なんで私だけ出られないの(怒)の段。そしてインフルエンザに入り込まれてしまうような免疫力の低いからだを作り上げた不摂生のせいだよ(自己嫌悪)の段でもあります。つらい気持ちのときは文章を書くのがいいと、19年弱の人生で何となく学んできました。それが私が涙を引っ込めるために一番有効な手段だと私は知っている。だから書いています。悲しい。つらい。私も出たかった。私がいなくても飛び入り参加の代打で曲が成立してしまうことが悔しい。私じゃなきゃダメであれ。と思うと同時に、私のせいでほかの人の出番がなくなるようなことがなくてよかったとも本当に思っています。特に四年生とかね。人間には善と悪が同時に存在するね。

でもやっぱり悔しくて、なんなら本番より楽しみにしていた打ち上げの参加もキャンセルしちゃった。だってあ~みんなは3日間ちゃんと全部出られてうらやましいなって思っちゃうだろうから。そんなんじゃ打ち上げも楽しくないから。自分がつらいとき、幸せそうな他人をみて憎らしく思うのはとても子どもだとわかっているけどやめられない。まだそう思ってしまう。これって思わなくなったら大人なのかなーーそれとも思っても他人にぶつけなくなったら大人って言えるのかなーーでも逆に、とっても小さな子供って他人がどうとかあんま関係なくて自分が不幸かどうかだよね。眠くて泣いてる赤ちゃん隣の子が寝ててもずるいって思ったりしてないだろうし(してるのかな)だからもしかすると他人の幸せを憎らしいと思うのが大人なのかもしれない、それって良く言えばなりたい姿を見つけられるようになったってことだし?目指すところがある(ないよりはあったほうがいい)大人より子どものほうが優れていることもこの世にはたくさんありますからね。まあでも少なくとも自分の不幸を理由に幸せな他者を憎み、それを行動に表しちゃうのは私がなりたい人間の姿ではないのでしないほうがいいに決まってる。私は今日、精いっぱいの言い訳で包み込んでそれをやろうとしてしまって、しっかりと思いとどまった。とてもえらい。これが成長だ。病人なのに理性があって偉すぎる。天才だ。

書いてたら案の定落ち着いてきた。眼鏡にぽたぽた落ちていた大粒の涙も乾き、レンズがカピカピに。落ち着いてきたので今日のリハの演奏動画も見られる。私が出る曲が私なしでめちゃくちゃよかったら悔しくてまた泣いちゃうので私が出る予定のやつは見ない。見ません。自分が悲しくなるようなことはしない。これも成長。

とおもって動画を見たらみんなの演奏が良くて結局また泣くという、、、

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