『轍』Lev.4 東埼玉道路開通後の未来Vol.2
東埼玉道路
東埼玉道路の起点は八潮市八条、終点は春日部市下柳。八潮市では外環道の草加ICと三郷中央ICの間にJCTが設置され、専用部と一般部がセットで供用される。
2004年、側道区間開通時の様子
外環道の「イカの耳」は中央環状線のそれとは違う雰囲気を醸し出す。上野線の“高架下にマンション”という奇抜な発想は抜きに考えても、周囲を取り巻く状況が切迫するのは東埼玉道路なのだ。
2004年10月2日、埼玉新聞では特集が組まれた。八潮町政施行記念の『八潮だより』では急速な工業化への変化が取り上げられたが、丁度40年の時を経て高規格道路の計画が動き、一部実現した。
庄和町は春日部市に編入され、千葉県野田市に隣接する地区。東北道岩槻ICと常磐道柏ICに挟まれ、「第二4号」こと新4号国道が延びる。記事にもあるように延長は17km、高速道路であればIC約2つ分の距離である。
全体のうちの3分の1だが、それだけでも周辺道路にとっては大きな恩恵があった。
東埼玉道路開通前には、混雑時の平均時速が17km/hを下回る状況だったとも書かれている。産業道路開通の効果を感じると共に、周辺道路の整備が遅れていることも意味していた。
外環道埼玉区間の歩み
東埼玉道路と接続する外環道。
2018年に千葉区間が開通したが、大泉(関越)・美女木(首都高)・川口(東北道)・三郷(常磐道)の4路線がつながった1994年以来約25年ぶりのことだった。
時代を1960〜70年代に戻すと、草加市や八潮市の工業化が進むと同時に道路整備は進んでいた。一方で、外環道の計画決定を巡って動きがあったのも同じ頃なのだ。
外環道整備に前向きだった頃
千葉区間と埼玉区間共に、1969年には都市計画決定がなされていた。その頃のエピソードについて、次の様な記録がある。
国道4号の草加バイパス開通が開通したのが1967年のことだが、急速な車の増加ですぐ飽和状態になっていく。産業道路も例外ではなく、交通事故も多発していった。
そもそも外環道自体が東京の渋滞緩和策な訳だが、県内では東北道が完成間近、隣の千葉県では常磐道建設に向けた動きが始まっていた。
更に、1970年に東北道や常磐道と直結する首都高2路線(川口線、三郷線)の事業決定が行われ、環状高速整備が求められる状況になっていた。
完成のあかつきには東京だけではなく、首都圏外からのアクセス性向上も図られるのだ。工業地域として発達する上では、高速道路は欠かせないツールだった。
外環一帯は「ほぼ東京」
計画決定から建設が始まるまでの間、地域の様相は変化していた。
同じ外環道沿線地域である隣の三郷市では、激しい東京一極集中の中、東京に比較的近いという条件で都市化が進んでいたようだ。
八潮“村”が八潮“町”になった1964年、隣の三郷市も変化を遂げた。1956年に発足した三郷村が三郷町になったのだ。
三郷町時代の1971年に発された「三郷町総合振興計画基本構想」の中から抜粋した一節だが、非常に重要な情報である。
こちらは、国道298号の維持管理を行う国土交通省・北首都国道事務所の資料である。1976年の情報だが、この時外環道は都市計画決定から7年経っていた。そんな時の流れと共に、東京区間(関越道以南)の条件と様相が近付いていたのだ。
都市計画段階から反対運動が強かった東京区間とは異なり、既に決定から着工へと移ろうとする段階での反対運動だった。
街自体は東京のベッドタウンとしても発展していったが、「東京から車を締め出す」という概念だった当時、外環道建設は必然だっはず。そんな情勢の元での運動が前途多難であったことについても、こう記録されている。
草加市では1971年に市議会で建設反対の請願が採択されたことで、一時凍結状態となる。
しかし、モータリゼーションの急速な高まりで環状道路建設は必須の状況になる。1992年に埼玉区間が開通する運びになる。
一方で東埼玉道路はと言うと、1988年に都市計画決定が行われ、1992年度から用地買収が行われた。側道のみの開通とは言え、16年間で事業が進んだ背景とは何だったのか。
更に、外環道の交通を左右するであろう首都高の未完計画も見てみたい。
つづく
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