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古代史:失われた十二部族の始まり (1)

日本の天皇の祖は古代イスラエル人だった。
これを考察するために、2つの側面から見ていきます。

  • ひとつは、歴史書としての旧約聖書の記述を踏まえながらイスラエルの調査機関アミシャブが失われた十二部族の足跡を調査した内容。

  • もうひとつは、DNA分析による父系をあらわすY染色体と母系をあらわすミトコンドリアDNAのハプログループの内容です。

日本と古代イスラエルのつながりを主張した西洋人はもともと少なからずいました。古くは江戸時代に長崎に滞在し5代将軍綱吉に謁見し、箱根の草花や日本の風習を「日本誌」として出版したオランダ人ケンペル。1963年から日本を研究し日本神道の神官にまでなったイスラエルのユダヤ人ヨセフ・アイデルバーグ氏。1962年に来日し最近では旭日双光章を受賞しているNY在住のマーヴィン・トケイヤー氏。アミシャブの創設者でもあり熱心に足跡を追ったラビ・エリヤフ・アビハイル氏。これらの人たちは「日本と古代イスラエルとは密接なつながりがある」ことは結論付けています。ただし、そのルートや年代、DNAとの関係となると諸説あるのが現状です。

最初に十二部族と状況を理解しておきましょう。

ソロモン王の死後BC 922年にイスラエルは南北に分裂しました。南ユダ王国はユダ族と好戦的なベニヤミン族が残り、北イスラエルはエジプト宰相だったヨセフの子のエフライムとマナセの二人の支族にも土地が与えられ、残りの部族に分け与えられています。レビ族は北に分類されますが、祭祀を取り仕切る一族なので、どの部族にも必要なため土地は与えられませんでした。実際にはユダ族の方に多かったようです。ちなみにユダ族の紋章は獅子です。

分裂の原因はソロモン王が自身の出身であるユダ族を厚遇し、死後もユダ族の後継者の王が重税を課したことに反発したことが原因です。

北イスラエル王国はエフライム族が王族となり、人口の多い兄弟のマナセ族が広大な部分を占めます。その他は屈強な兵士一族であるガド族(兵士の紋章)が東に位置し、北西部の海岸沿いにはフェニキア人(今のレバノン)と仲が良かったアシェル族(レバノン杉の紋章)。北部のナフタリ族は雄鹿の紋章に象徴されるように伝統的に足が早い民族でした。また海沿いのダン族は航海による貿易が得意でデンマークの語源はダン族からきており、北欧や英国・アイルランドのユダヤ人はダン族の子孫を主張しているようです。シメオン族は北でもあまり重要な部族ではなかったようでユダ国のなかに居留地を与えられました。北王国の王族のエフライム族は今で言う人格者だったようです。真面目で親切で非常に親しみやすく、勤勉でまっすぐな人柄と言われています。まるで日本人のようです。
北イスラエル10部族は多神教的な色彩があり、ユダ族のようにガチガチの一神教ではありませんでした。メソポタミア地方から伝わっている牡牛信仰もあり金の牡牛像を祭祀で崇拝することもあったようです。
ヨセフを父にもつ兄弟部族のエフライムとマナセは若木の実と水辺の若木と紋章も似ています。エフライムは一角獣(ユニコーン)を使う場合もあったようです。

BC733年 アッシリア捕囚が起こります。アッシリアとは今のシリア(イスラエルの北東方向)にあった国家です。その後の北10部族の行方が不明になったので「失われた十部族」と言われてきました。

続いて、BC597年にバビロン捕囚が起こります。古代ペルシア王国に南ユダ王国の人々が捕まります。その後に、王が変わり物分かりの良いキュロス王の時代には解放されて神殿建設まで援助されます(第二神殿)。しかし、その後はキュロス王も他国に攻め入られ、南ユダ王国の人間も離散します。最後には紀元後AD70年にはローマ帝国に攻め入られ第二神殿も破壊されます。

アッシリア捕囚の時点で北イスラエルの人々は2万数千人いたと言われています。彼らは日の出る方角である東に向かいました。(続く)




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