上昇婚問題についての私のスタンス

基本的に私のスタンスは「全ての人は原則として平等(equal)である」「個性は認めるが、属性による違いは最低限しか認めない」というところに置いており、フランス的な自由主義、普遍主義を基盤とした思想を持っている。上昇婚の議論は、それに参入したときから、ほぼ一貫して男女の人権・経済・社会での平等、およびすべての子供の教育機会の均等をゴール地点として説明をしている。このスタンスを採用しているのは個人的好みもあるが、現代の法基盤もこのスタンスから出てきており、実際に制度を設計するうえでもこのスタンスが取れることは重要である。自分としてはこのスタンスをして「典型的な左派」を標榜しているつもりだが、いまや「古典的な左派」になりつつあるのは残念なところである。

私にとって上昇婚問題は男女平等の問題である

私がこの問題にコミットし始めたのは2015年で、露悪クラスタの語っていることを整理して理論化したこちらのエントリが最初だが、その時から政治経済的な側面にのみ注目し、上昇婚/同質婚の問題視も{それが平等を妨げる存在だから}という理由で一貫している。当時は上昇婚/同質婚がいかに問題であるかという点を語る人は少なく、ネットのムーヴメントではあったが大きな驚きをもって迎えられた(その直前、2014年の段階では上野千鶴子や中野円佳が上昇婚をカジュアルに語っており、着目されていなかったのだろう)。

当時のエントリや今回のエントリの意義は、上昇婚問題を政治的に正しいスタンスとなるようクレンジングし、公の場で議論しやすくするということにあると自認している。私の言説は基本的に「男女差別を除くためにある」「格差を取り除くためにある」ことを強調して、男女差別反対の人が好意的に扱うGGGIやNZのアーダーン首相を例に挙げている。上昇婚以外を政治的に正しい論拠で固め、そうでないの要素をそぎ落として{上昇婚は反ポリコレである}と結論付ける作業を行っているのだが、このくらいはしないと「良識的」「知識人」にとってはアンタッチャブルである。

「モテ」問題や先天性にコミットしない

一方、上昇婚/同質婚の話は現在のところモテの問題から語る人がかなり多いという印象である。たとえは反フェミニストの分類と称するものでも、まず第一にモテに着目していた(なお、自分は当該エントリの筆者に対して「私はむしろ急進的ポリコレ勢力である」と伝えている)。最近名を売っているすももさんもモテに着目することが多く、私から見るとそれが主題であるように見える。私が最近上昇婚問題に集中的に言及したのは、はっきり言えばすももさんの影響が大きい。私としては{上昇婚問題=モテ問題}という構図ができてしまうのは大変困ることであり、人権・経済・社会での平等という側面の存在をアピールする必要性がどうしてもあった(以前はこれを「私はウーマンリブですももさんはメンズリブ」と表現していたが、社会政策vsモテの対立にしたほうが適切だろう)。

また、上昇婚の話題では「上昇婚願望は先天的性質である、進化論的にそれが適応的である」と主張する人がいる。これはいわゆるアンチフェミ側でもよく見られるし、今回のように政治的に正しい主張でゴリ押しした際に女性側から出されることもある。「良識的」「知識人」としてはこれは禁句で、属性による先天的違いを積極的に受け入れるのは難しい。少なくとも{女性には生まれつき上昇婚を好む傾向がある}などという命題を前提とした法律を作るわけにはいかない。純粋に女性の社会進出の議論になるよう、この要素もクレンジングしておく必要があった。「産休世代のジレンマ」に批判的レビューを行ったのも、その結論で{女性には生まれつき上昇婚を好む傾向がある}という前提を入れた法制度を作るべしという提案があったからである。おそらくだが、法学徒がこれを受け入れるのは難しいのではないだろうか。

終わりに

今回ほぼ1週間にわたって長々と書き込んできたが、これだけ時間をかけたのは、読者の反応を見つつ、話題性が出る程度にとげがあり、しかし「良識的」な「知識人」が触れるようにクレンジングするのに時間がかかった格好である。

なお、私も属性による違いは合理的な範囲で最低限認めており、例えば女性のみ出産の負担があるという点は重視し、これに対する補償として男性の育休強制はありえる政策だと認識している。この点の一般論的考察は現在「ケイパビリティ・アプローチ——個人のそれと社会のそれ」というタイトルで執筆中であり、アカデミア向けのエッセイとして書いているため、元のブログのほうに掲載する予定である。

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