見出し画像

倭人関連の文献の文章のみからの古代日本語の再構は難しいのでは

上記記事のような上代以前の日本語の探索をしている界隈で、「魏志倭人伝を解読した」というツイートが話題になっていたが、これで「読めた」というのは正直どうかなと思ってしまうのでちょっとメモっておく。

循環論法になっている

この論は「当時の方言分布を調べた」というのが趣旨だが、この論の最大の難点はこれで、地名の比定地が確実でないと言語学的な方言の検討がしにくいのだが、一方で比定地を「言語学的に決め」てしまっており、循環論法になっている。

この方法で行く場合、連立方程式を解くように「これ以外の解がない」というくらいきっちり詰めてないと論が成立しないが、見る限りそこまできっちり詰まっていない。

言語学的な疑問点

氏の論では姐奴*tsiaʔ-nɔがサナ、蘇奴*sɔ-nɔがサヌと、tsとsが同じサに割り当てられている。一方、同じtsでも戴斯烏越*tsəh-sie-*ʔɔ-wɑtはトシオオツとtの音に割り当てられており、このあたりに一貫性がない。

卑弥呼などに見える「呼」を現代のハ行(当時のp)に割り当てているのもアドホックに見える。東アジアの言語ではkとhの混同は起きやすいが、pからhへの変化はやや遠く(ハ行転呼ではɸとβ̞を挟む)、直接飛ぶのは斬新な議論のように思える。当時そのような(例に挙げているようなナンバ⇌ナニワのような)音便があったという議論は可能だが、根拠が薄い。事実、氏も議論の過程長い間「不呼はヒ、肥=火の国だろう」とずっと言い続けていたのであり、これしかないというほどの根拠はないように思われる。

氏のツイートの画像4枚目の再構音素と地方別発音の対応表は、特にɔがほとんどワイルドカードのような扱いをされており(大母音推移のような口の広さに由来する規則性があるわけでもなく)、これは特に言語学的再構よりは比定地をアドホックに決めてテキトーに埋めている感じを増強している。

歴史学的な疑問点

不呼*pu-hɔを不破関の「不破」に割り当てているが、当時不破がクニとして認識されるような地名だったかは疑問が多い。不破という地名は壬申の乱後の不破関の設置が初出で、これは峠道の道の名前にちなんでいる。延喜式のころから不破郡があるが、関が出来た後の新しい地名であるような示唆もされている。そもそも論として、不破郡は国造時代に三野前国で、律令時代は美濃国府が置かれており(不破関は額田国の可能性もある)、彌奴を美濃に比定するとそれと競合する(なお記紀や風土記によればミノ県は全国に広くあったようだ)。

関所の名前については、他のメジャーな関所である逢坂関、鈴鹿関とともに峠道の名前が由来である。鈴鹿は関所が出来た後の延喜式で鈴鹿郡があるが、氏の論で比定地にされている「佐那」の根拠である「佐那県造」等の段階では鈴鹿という地名は表れておらず、後の鈴鹿郡は川俣県造の領域であったようであり、鈴鹿郡は後に律令郡に移行する際に関所にちなんでつけられた名前のように思われる。愛発関に至っては比定地が定まらないほどで、関所自体はクニなど集住地の名前がベースではないように思われる。

再び循環論法の話

さて、不呼の比定地が不破以外にあり得ないなら呼を現代のハ行に対応付けるのは根拠があるが、「不破」が地域を代表する地名であったかは疑わしい。一方で、不呼の発音が現代のフワないしフハに必ず対応付けられる根拠があるなら不破郡に比定すべきだが、氏の論における「呼」の扱いはやはりこれも根拠が薄い。ということで、循環論法に見事に陥っているように見える。

ツシマ、イキ、マツラ、イト、ナやヒナモリ、ヒコあたりは歴史学者も異存がない確実とみなせる部分だと思うが、言語学的再構を目指すなら、こういった確度の高いものから埋められる部分と、そうでない部分の扱いは分けて段階式の解析にすべきだろう。

今のところ、日本語の古代の方言の音声を推定するには、文献資料の数が少なすぎ連立方程式は解けないように思う。


※この話は平和裏に相互理解のもとに終わりました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?