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表現批評に対するアカデミア寄りの批判のインデックス


是永論

是永論. "メディア表現の批判と社会批判の実践: ジェンダーの表象をめぐって." 社会学研究科年報 26: 7-18.

社会学において表現批評が行われてきた背景、先行研究を紹介しつつ、それらの先行研究の批判が今回の件にも適用可能である、という指摘。

大まかに言えば{最初から結論ありきで、結論にそぐわない要素を無視する姿勢が目立つ}{植民地時代の啓蒙主義にも似た、一方的な道徳観の押し付けによって他者を支配することを自己正当化する植民地主義的態度}として雑な表現批評を批判している。「植民地主義的態度」というのは、社会学や人類学(のうち科学であることを拒否している人たち)の間ではほぼ「悪人」「犯罪者」くらいのネガティブな意味合いがあるので、その手の人たちには刺さる批判である。

社会学におけるジェンダー表象批判の「基礎」と考えられていたゴフマンの研究においても、「社会システム」や「権力関係」のような理論的図式を先に立て、現実社会におけるそうした図式の成立を、表現の分析から「推量する(speculate) 」 (Miller & McHoul,1998)ような考え方はとられていなかった
ランドールらは、社会学に見られるこうした理論先行(優位)の姿勢を、引用文に示されたような形でドラマを見る態度になぞらえながら、その姿勢から、現実の人々の技能およびそこでの実践的な理解(practical reasoning)に対する、社会学者による「植民地的な形(a colonial fashion)」での取り扱いがもたらされていることを指摘する(Randall & Sharrock 2011:7)。つまり、社会学者の態度として、あらかじめ社会学的な理論の優位を主張しながら、こうした人々による実践的な理解のあり方に対して特に探究の目を向けることもなく、それらを「誤った理解の仕方」として改めようとすることが、ここでは帝国主義者の植民地に対する支配的な態度に相当するものとして考えられている

江口聡


全10回。私が読んだ感想としての概略だが、

牟田和恵に対して:「性的表現は取り締まられるべき」と主張しているが、「宇崎ちゃん」が性的表現であるという論証を行っていない、しかもその論理の粗を煙に巻くような書き方をしていてタチが悪い、というような批判をしている。

小宮友根に対して:小宮友根論説では「このような表現は性的である」ということを自前でイラストを用意して牟田論説のミッシングリンクを埋めることを試みているが、主観的に「私はこう思っている」レベルにとどまっており、「これ以外の解釈はできない」「これを見た人はみんなそう思う」という客観的・間主観的論証に欠いているので弱い、というのが批判の主題になっている。このほか、哲学等で使われてきた用語を不正確に使うことで意味不明瞭、読解困難にしていることを批判している。

uncorrelated

Eaton (2012) "What's Wrong with the (Female) Nude?" In Maes and Levinson "Art and Pornography: Philosophical Essays," Oxford University Press

小宮氏が上記のイートンの論説を引用し、一見するとそれに従って批評しているように見えるが、実はイートン論説では「宇崎ちゃん」に問題があるとすることが困難なため、「宇崎ちゃん」を問題にできる独自基準をその場で作っているという指摘。

小宮氏が引用しているヌスバウムの議論では、架空キャラの表現について批判できないのではないか?という指摘。

小宮氏の主張の本題の一つである、「抑圧の社会的構造があり、その抑圧経験が累積しているならば、それを連想させる表現に抗議してよい」という主張で、法律や自主規制など実質的な表現抑制をどこまで正当化するか論証が欠けている、という意見。

こちらは各論になるので、実のところ非学術的な表現者側からの批評を参照するのが良いと思うが、小宮論説の中で先に「不可」の例として出している要素が後で可の例として出されているというあたりの練り込みの足りなさ、アドホックさには笑ってしまう。江口氏の客観的・間主観的論証に欠いているという批判が体現されている場所と言えよう。

ショーンKY

筆者の書きもの。この2編を「アカデミア寄り」とすることは忸怩たるものはあるものの、一応小宮先生のロジックを読み込み、それに合わせて書いたものである:

「抑圧の社会的構造があり、その抑圧経験が累積しているならば、それを連想させる表現に抗議してよい」というロジックを採用すると、家父長制ファンタジーであるハーレクイン型の物語や、ルッキズムによる序列化を是認する「美男美女の主人公、平凡な顔の脇役やモブ」という表現一般を誰でも批判可能になる、ということを主張したかったのだが、それを迂遠に言いすぎている話。

ご存知の通り、これらは実のところフェミニズムでも伝統的に批判されてきた主題で、筆者は割と本気で、ハーレクイン型恋愛を女性の自立を妨げるものとして、ルッキズムを経済的にすら悪影響がある(エビデンスあり)生得的差別と位置付けており、小宮理論をもって「ハーレクイン狩り」「美男美女主人公狩り」をしているのを小宮先生が「私はそんなこと言ってない」などと言おうものなら、彼を反フェミニズムとして糾弾する準備がある。



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