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小宮謹製お気持ちバットを非モテが握る日……という話のはずだったんだ
昨日書いた話へのリアクションを見ていると、
・よくぞ非モテの苦しみを書いてくれた
・私もこういう女性にあったことがある
・私はこんな話は身近では聞かなかった、だが悪いことなので避けるべきだ
・これは男性ホモソ内の家父長制的差別構造であって女性はそれに「乗ってる」に過ぎない
等々、様々な意見がある。これに対して私から言うことがあるとすれば――
ごめんな、これ前座なんだ。
頭と尻に書いてある通り、昨日の書き物は小宮友根さんのエッセイに対するある種の思考実験的な批評である。彼の議論では、
女性は社会全体の男女差別構造の中、氾濫する「性的目線」の累積的抑圧下にあった。それに対する抵抗として、それを連想する、性的に感じる表現に抗議してよい。
というのが表現抑制論の骨子になっている。私はこのロジックを台木として、「女性への性的目線」以外の別のものをこのロジックに接ぎ木することを試みた。その例が「非モテ」のメンズリブだったのである。
「非モテ」男性は社会全体の男女差別構造の中、氾濫する「家父長至上主義」の累積的抑圧下にあった。それに対する抵抗として、それを連想する、モテヒエラルキーを感じる表現に抗議してよい。
この接ぎ木が成り立つだろうというのは前回論じた通りである。前回の話へのリアクションのうち、「非モテ抑圧は男性ホモソの差別構造にある」的な意見は結構書かれているのだが、この意見は、非モテのモテヒエラルキーへの抗議が(彼女らの論じるところの)フェミニズムと整合性があり、男性ホモソの家父長制ヒエラルキーの表現たるモテ序列を連想させる創作表現に対し、非モテが小宮謹製お気持ちバットを握って表現狩りするということの正当性をますます強めてしまう、という構造になっている(彼女らがそれを正当と思うかどうかは別として)。
そして「表現狩り」の対象には、アルファメイル称賛とみなされうるもの――ハーレクイン型ロマンスの少なからずが入ってもおかしくない、という思考実験をやっていたのである。
なんで読者は前座で読むのを止めてしまったのか
多くの人が「本題」である小宮言説には触れず、その前座までを語っているんですが、その理由は――多分ですが、誰も小宮言説の中身に興味がないんじゃないかと思うんですね。はてブに結構な数がいるフェミニストでさえも。
もう一つの理由としては、非モテをモラル的に真っ向から擁護する言説があまり多くないため、前座部分だけでも新鮮味があると感じられた、ということなのかもしれない。
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