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『眠れる海の乙女』第4話 

 架純の部屋でカレーを食べた日の夜。疲れ切った体を布団に預けて、眠りにつこうとしていたが寝付けずにいた。体は疲れていても頭が妙に冴えていて、瞳を閉じても微睡む事が出来なかった。

「あいつ、彼氏いるのかな?」

 架純と三年ぶりの再会を果たした。俺の記憶に残っている架純の幼い容姿が、大人の女性に移り変わろうとしている。それは、より女性として意識を強める要因になり、架純に対する想いを加速させていった。

 架純は俺と別れてから、どんな人生を過ごしてきたのだろう。架純に対する興味が、尽きなかった。頭の中には常に架純がいた。仕事に対する向き合い方も、平凡で刺激こそあるものの、気力を欠け始めていた頃とは違い明るいものに変わり始めようとしている。

 架純は女子大に通っていると言っていた。学生時分から真面目な印象を覚えていたが、目立った成績を残すような記憶はなかった。別れてから勉学に励んでいたのだろう……架純は目的意識が強く、その為に努力を惜しまない女性だ。

引っ越しの事もそうだった。

 俺に話をしていたにも関わらず、結局自分の力だけで頑張ろうとして俺に声をかけずにいた。全部自分の力だけでやろうとする。だから時として甘えてほしく、頼ってほしかった。それでも架純は意地を張るだろう。そういう時は俺から声を掛けるようにしていた。

 今日の事もそうだった。架純が今晩、カレーを作る事は知っていた。結衣の仕事が終わり、帰ろうと仕度をしていた時の事だった。

『架純ちゃんがカレー作って、隼人君の帰りを待っているわよ?』

 そんな捨て台詞を残し、そそくさと帰っていく結衣の後ろ姿を見て戸惑った。

 どういう事だ。一瞬、何の事を言っているのか訳がわからなかった。結衣の話を聞く前に架純からメールもあった事を思い出し、ようやく合点がいった。それでも半信半疑だったから架純に電話をかけた。帰宅時間を尋ねられ、架純の声を聞くと無性に架純に会いたくなった。急ぎの仕事もない為、足早に店の戸締りを済ませ会社を出た。

 道中、架純がカレーを作って待っている事に若干の違和感を覚えた。架純なりの引っ越しが住んだ事に対するもてなしか? はたまた、まだ俺の事を好いてくれているのか……そんな淡い期待を抱きながらアパートまで歩き辿り着くと、架純の部屋の換気扇から芳ばしい香りがアパートの外廊下に漂っていた。

「……本当に作っていたんだ」

 結衣の話は本当だった。小窓から廊下に差し込む光に、架純が中にいる事を確認出来る。込み上げてくる感情を抑え、呼吸を整えるとインターフォンを押した。

 目の前の扉が開き、架純が顔を覗かせた。昨日見た時より化粧気がなく、自然な架純の顔に好感を覚えた。空腹を覚えている事実と架純が俺の為にカレーを作ってくれた事実を、結衣から聞いた事を伏せる事。その二点を知っていながらも自然にカレーを食すには、あの手しかなかった。

 結果として架純は俺をもてなしてくれた。一旦自身の部屋に戻り『万が一の展開』に備え、急いでシャワーを浴びた。杞憂に終わったが、架純の部屋で二人して食事を摂る時間は、とても居心地がよかった。

 架純が作ったカレーは甘口のカレーで、思い出深い味に仕上がっていた。初めて俺の家に来て、母親と一緒に作ったカレーを食した時と同じ味。架純は俺があの時に何杯もおかわりをしていた事を覚えてくれていた。その事に架純に対する想いが、全てあの時のカレーに詰まっていた。それを感じたからあの時、これからもこんな時間を架純と一緒に過ごせたらどんなに幸せな事だろう。そう思ったから自然と口にした言葉だった。

 今にして思えば、あの時の架純の顔は紅潮していたように見える。リビングのシーリングライトの光が、よりはっきりと架純の顔色を窺えた。架純のそんな表情を見て、自分の言葉の意味を噛み締めた途端、急に恥ずかしくなって話を逸らしてしまった。

 結果として話は好転した。架純が海に行きたいと話した時は、素直に嬉しかった。実際、架純と約束した来週は懇意にしている顧客とのアポイントがあった。何とか調整は出来るだろう。

 買ったばかりのハイラックス・サーフ。行先は二人の思い出の場所。助手席には架純が座る。こんな状況を楽しみにしない訳がない。先程から幾度も瞳を閉じて、眠りにつこうとしているにも関わらず、来週が楽しみ過ぎて興奮して眠れない。まるで修学旅行の前日に眠りにつけない小学生のようだ。

 もう一度、架純に気持ちを伝えよう。この気持ちを……この想いを架純に伝えよう。このままこの気持ちに蓋をしたら後悔する。

あの時の青春を、もう一度。

 架純と一緒に過ごしたあの時間を再び甦らそう。あの三年前の時間を取り戻す。毎日が架純に溢れていて、幸せに包まれていたあの時間をもう一度……。 

 玄関を出て隣の架純がいる部屋の前を通る時、妙に架純を意識してしまう。それは昨日の出来事だったり、来週の事であったりと様々な記憶や情報が脳内を駆け巡るから。今日は大学で授業だろうか。架純の部屋の前を通る時、中の気配を感じなかった。

 そんな状況で顔を綻ばせながらアパートの外階段を下っている最中、妙な視線を感じた。

 一旦動かしていた足を止めて視線の先を追いかけると、スーツ姿の男がアパートを見上げていた。最初は俺を見ているかと思ったが視線の先が異なり、その男の焦点と合致していなかった。その男の視線の先を振り返るように追うと、俺が先程出た二階の部屋辺りを見ているように思えた。

「……何だ?」

 俺とそれほど変わらない二十代くらいの男。俺より若干年上のように見える、落ち着いた端正な顔立ちをしている。怪しい雰囲気もないし、それほど悪人面でもない。俺が立つ階段の途中と、その男が立っている距離はそれほど遠くなかった。

 俺に用があるのか、若しくは……。

 多少の警戒心を持ちながら、ゆっくりとその男に近づいて行った。

「……何か用ですか?」努めて明るい声で声を掛けた。

「……えっ?」男はアパートに向けていた顔を俺に向けると、一瞬戸惑いを見せた。

「私の部屋辺りを見ていたので。私に何か用なのかなと……」

「あっ……いえ。失礼します」男の目が一瞬大きくなったが、軽く会釈をして去っていった。   

 男の声色や振る舞いからは、怪しい雰囲気ではなかった。挙動不審な様子もなかったが、全くの不審人物と言い切れる程の事でもない。微妙だった。初めて見る顔ではあったが、立場上もう一度見かけたら何かしらの対応を考えよう。架純に関する邪推な考えが脳裏に過らなかったと言えば嘘になるが、何も起きていない以上、対応も出来ない。架純の別れた彼氏が執拗に追いかけてきて、何かしらの方法で居場所を突き止めた……そんな筋書を考えると気が滅入ってきた。気を取り直し、会社に向かって歩き出した。

 会社に着くと、既に結衣が来ていた。俺がデスクに座り、バッグを漁っている結衣に挨拶をすると「おはよう」と振り向きながら返してきた結衣だったが、その表情は何かを欲しているような表情だった。

「なにか?」結衣が欲している情報には、概ね察しがついていた。

「……どうだったの? 昨夜は架純ちゃんと食事出来た?」

「えぇ、普通に食べましたよ」自身のデスクに向かって歩いて行く。

「そう……良かったね」

 デスクに座り、パソコンを起動させる。画面が点くまでの間、まだ結衣が何かを聞きたがる視線を感じた。

「……まだ何か?」

「それだけ?」意外そうな表情をする結衣。

「……えぇ」嫌な予感がしたので、来週の事は伏せた。すると結衣は俺のデスクまで回り込んで近づいてきた。

「もぉ、何やっているの?」俺の前に立ちはだかり、落胆ぶりを見せる。

「元カノと久々に再会したんでしょ? それで架純ちゃんは隼人君にカレーを作って待っていたんだよ? それ昨日伝えたよね? 隼人君は何も察しなかったの? それで終わり? 次の約束は? デートは? 仕事だってそうでしょ? お客様を案内した後に次のアポイントを取ったりするでしょ?」矢継ぎ早に俺の前で話す結衣に圧倒された。

「ちょっ、ちょっと、落ち着いて下さいよ」

「ねぇ? 架純ちゃんの気持ちも考えなさいよ? 二十歳そこそこの乙女が頑張ってカレーを作ったのに……どうして何も応えてあげないの? それって男としてどうなの? ねぇ? ねぇってば」

 結衣に両肩を掴まれ、揺すられながら問い質されるこの状況。その最中、どうして結衣にこんなに怒られなきゃいけないのか……どうしてこんなに、詰められなきゃいけないのか、全くわからなかった。

「ちょっ、ちょっと落ち着いて下さい……。あぁ、もう……約束しました、約束しましたってば」苦し紛れに放った言葉に結衣が反応すると、動かしていた両手を止めた。手は決して離さず、次の言葉を待っていた。鋭い目つきで俺が発する次の言葉を待っている。

「……来週の休みに……その、鴨川に」

 俺の弁明を聞くと、結衣は掴んでいた手を離し「……やるじゃない」と満足げに笑顔を浮かべてデスクに戻っていった。

 ジャケットを正しながら俺が「そんなに、気になります?」と結衣に尋ねた。すると先程まで浮かべていた陽気な笑顔とは違い、真剣な表情を浮かべた。

「……三十代にもなるとね、あなた達が羨ましいのよ」

「……羨ましい?」

「なんか青春って感じがね……初々しいというか、懐かしいというか」

「……そう、見えます?」

「振り返れば、いろいろ私もあったなって。時間が経って気付いた事……失ってから気付かされた事……余計な事も考えず、周りが見えなくなるくらい夢中になった事。私もそんな時があったなって」

「結衣さんも、そんな時があったんですね」

「あっ、今、ばかにしたでしょ?」

「しっ、してないですよ」

「あぁ、朝から何だか疲れちゃった……糖分摂らないと仕事手につかないな」

 デスクに備え付けの椅子に凭れながら結衣は、何か察しろと言わんばかりに尻目に俺を捉えながら言った。またか……やっぱりこういう展開になるのではないかと危惧していた。  

 いつもの事だし、さほど負担にも感じていないのが正直な所。日頃結衣には助けられているのも事実だし、年功序列の社会には仕方のない事だと割り切っていた。

「はいはい、わかりましたよ。タピオカで良いですか?」

「やりぃ、ゴチィ」わかってはいたが、相変わらずの変わり様だった。

「社長達が来たら買ってきますね」俺が言うと「……ところでさ」と前のめりになって、結衣が含みを持たせるように言った。

「この前、隼人君が買ってきたバナナジュース……あれ、私にはハマんなかったよね?」笑いながら結衣が悪戯っぽく言った。

「あっ、まだそれ言います? もういいじゃないですか」

 先日架純が初めて店を訪れた時に買い忘れた際に結衣に言った『タピオカドリンクより良いもの』を求めて駅前を探した。自分の首を絞める形になり、何を以って良いのか悪いのか判断がつかなかったが、探し歩いた結果とある店に辿り着いた。その店は駅前の商店街通りにあり、以前から存在は知っていたが訪れた事はなかった。喫茶店として昼間は営業をしており、店頭の立て看板には『女子に人気!おすすめ商品』と広告されていた。それらの事には疎い俺にとっては救いの看板だった。

 テイクアウトをして店に戻り、結衣が飲むと可もなく不可もない表情と態度で俺に意思表示をした。しまいには飲みかけのドリンクを俺に返してきた。試しに俺が飲むと意外にハマる形に落ち着き、それを見た結衣が『やっぱりタピオカが一番』と言い放った。

 その後に開店準備と清掃を済ませると、正和と小百合が現れた。事務処理と決済準備の為に書類を作成し終えると結衣に声をかけた。

「今なら買って来れますけど、いいですか?」時刻は十二時になろうとしている。

「うん……じゃあ、お願い」いつかの結衣の一言で、昼食時に飲むと午後も頑張れると言っていた事を憶えていた。行ける時にはその時間を見計らい買いに行っていた。

 店を出て駅方面に向かって歩き出す。行き慣れた道を小刻みに抜けて、目的地までの商店街通りまではあっという間だった。人通りは昼時の為か、スーツ姿の男性から家族連れなど多かった。見慣れた景色の中で、店頭で客寄せの為に大きな声を張り上げている若い男性。同様に少し進んだ先にある、服飾店の前で独特の甲高い声で服を畳みながら客寄せをしている若い女性。恐らく同年代であろう彼等の頑張りに心の中で賛美を送った。

 目的地のタピオカドリンク専門店の看板が右手に見えてきた。見慣れた景色を視界に捉えた時、若干の違和感を覚える。行き交う人々の喧騒と人混みの中で立ち止まった。その違和感を注視すると、正体はあっさりと判明した。

 目的地の手前数件の店頭に架純が立っていた。架純は店先で女性と話し込んでいる様子。隣にいるのは友達だろうか。声を掛けようか掛けまいか、悩む事なく俺は架純に近づいていった。こちらに背を向けた状態の架純だったが、俺が声を掛ける前に架純が突然振り返った。

「……びっくりした」振り返った架純の表情は、瞳を大きくして息を飲んでいる。

「こっちこそ……いきなり振り返るなよ」

「……どうしたの? こんな所に?」

「そこのタピオカ買いに来たら、お前を見かけてさ」数件先の店を指差しながら、架純に説明した。

「……隼人君、タピオカとか飲むの?」意外そうに尋ねる架純に「結衣さんに頼まれただけだから」と誤解を解いた。

「……友達?」架純の隣にいる女性に会釈をした。清楚な印象を覚える女性だった。架純より少し身長が高く、端正な顔立ちだった。その女性は架純と俺を交互に見ながら答えあぐねていると「あっ、大学の」とぎこちなく返した。女性は俺に向かって「どうも」と頭を下げる。「……雅美です」雅美の挨拶に俺も返した。

「ねぇ……来週、大丈夫なの? 仕事だって言っていたけど……」心配そうに尋ねてくる架純。それを聞いた雅美が「あっ」と声を発し、驚いた様子を見せた。雅美の口許を抑える様子に一瞬気にはなるも、取り上げずに架純の問いに返した。

「あぁ、なんとか大丈夫。さっき調整してもらって、改めてもらう事にした」俺の返事に架純は「そっかぁ、良かった」と胸を撫で下ろした。するとそこに「……あの、お取り込み中失礼」と割って入ってきた雅美。

「タピオカ……大丈夫何ですか?」その一言で、本来の目的を思い出した。

「そうだ……忘れていた。じゃあ、またな」架純に別れを告げ、雅美には会釈をする。踵を返し、足をタピオカ専門店に向けて数歩歩いた時――。

「隼人君?」

 背後から架純の声が聞こえた。商店街通りの喧騒の中、確かに架純に呼び止められたと直ぐにわかった。振り返ると架純は真っ直ぐに俺を見つめていた。進めていた足を架純に近づこうと思った瞬間、架純が近づいてきた。

「……夕飯、どうするの?」

「……夕飯?」突然の話題に頭が追い付かず聞き返した。

「昨日の残りならあるけど……」

「……あぁ、カレー?」俺が尋ねると架純は頷いた。

「良いよ、カレーで。むしろ、大歓迎」架純の顔が明るくなった。

「帰り……遅くなりそう?」

「どうだろう……多分、昨日と同じくらいの時間には帰れると思うけど」

「……うん。じゃあ、温めて待っているね」

「おう……じゃあ、また」

「……じゃあね」

 架純に再度別れを告げて足を進めた。突然の事態に内心戸惑いを隠せなかったが、これはこれで嬉しい出来事になった。来週までの間、架純と接する機会は多い方が好都合。それは互いに時間を共有する時間が長ければ長いほど、気持ちを架純に伝えやすくなる。架純からの提案は嬉しかった。

 振り返れば、架純がこんなに気持ちを俺に表現してくる事は付き合っている時にはなかった。好意を示してくれはしたものの、ここまで積極的と言えば良いのかわからないが、そういうタイプの女性ではなかった。どちらかと言えば俺の方が素直に気持ちを伝えて、架純がそれに応えてくれる。俺と会っていない間に、女性として何か変化があったのだろうか。

 結衣のお使いを済ませて、目的物を結衣に届ける。すると結衣の機嫌はすこぶる良くなった。忙しい朝にも関わらず、自身のお弁当を欠かさず作って持ってきていて結衣はちょうど昼食を摂っていた。  

「ありがとう……うん? 隼人君、何かあった?」おにぎりを頬張りながら、結衣がタピオカドリンクを受け取った。

「何がです?」

「顔……にやけてるよ?」

「……えっ?」頬に触れて確認すると、頬が上がっているようにも感じた。

「何か良い事あったんでしょ?」卵焼きを頬張った後、箸の先を俺に向けた。

「……特にないですよ? だって、タピオカ買いに行っただけですよ? 三十分くらいしか経っていないのにそんな、そんな良い事なんて……簡単にある訳ないじゃないですか?」

「……本当かな? まぁ、良いけどね」

 明らかな動揺を見せてしまった気がするが、結衣はそれ以上尋ねてこなかった。今朝の剣幕がすごかっただけに、こっちが拍子抜けしてしまった。

 そこからデスクワークを中心にこなした。土曜日には千葉市緑区内の全十六区画の建売住宅の一棟を契約。日曜日には市原市内の中古戸建ての案内が控えている。重要事項説明書と売買契約書の仕上げ、案内をする為のハザードマップの取り寄せや資料作成に追われる形になり、一日があっという間に流れていった。正和と小百合、結衣が仕事を済ませて帰宅していく。

 ちょうどその頃に俺の仕事が落ち着いてきた。時刻は十九時半を過ぎていた。普段の俺ならここまでの仕事量をこの短時間でこなせなかっただろう。店内の閑散とした空間の中に、一人黙々と仕事をこなし達成感に浸った。理由は明確だった。

 架純が待っているから。

 自分の帰宅を待ってくれている人がいる事が、こんなに心強く励みになるとは思わなかった。一人暮らしの俺にとっては経験する事のない類の事であり、それは遠い未来の話のように考えていた。家庭を持ち、社会人として働く事。それは平凡でごく自然な事。

 子供が出来て妻と子供を持てば、守るという意識が芽生える。辛い事や苦しい事、時には不条理な事にも耐えなければならない場面に出くわすだろう。

 俺が二十歳を迎えた時、漠然と考えた事があった。それは、それらの枠に収まる事に対する事。枠に収まれば、どこか息苦しさを覚えるのではないか。自分の性格上、それらは向いていないのではないか。世間一般のありふれた家庭に自分が属したら、これから先の人生、生活に刺激や変化はないのだろうか。

 今の状況を架純に当てはめて、妄想をしてみた。

 愛する妻が、夫の仕事帰りを待って夕飯の準備をする。風呂を焚き、着替えの準備をしてくれている。休みの日には二人で買い物や散歩をして、ゆっくりと時が過ぎる事を味わう。家族が増えれば育児に手を焼く妻。夫は妻の代わりに掃除や洗濯を買って出る。子供はみるみる成長する様を二人で見守っていく。人生の諸先輩方が家庭を持つ事の意味を、少しだけ理解出来たように思えた。

 そんな妄想で時間を忘れていた俺は、妄想が終わると我に返った。飛び跳ねるように椅子から立ち上がり、架純が待っている事を思い出した。やばい、二十時を回ろうとしている。急いで店の消灯や諸々の戸締りを済ませて店を出た。

 駆け足でアパートに向かったが、アパートに着いた頃は昨日よりも少し遅れていた。架純には昨日と同じくらいの時間には帰宅が出来ると伝えていたが、心配しているだろうか。特段向かうまでには連絡をしていなかった為、今更俺が不安になってきていた。

 架純の部屋の前に着くと、昨日と同じく換気扇から芳ばしいカレーの香りがした。乱れた呼吸を整えるように一息ついてからインターフォンを押した。すると昨日より早く架純が玄関扉を開けて、顔を覗かせた。

「遅いよ、もう」架純の機嫌は悪かった。

「ごめん、ごめん。急いできたんだけど、仕事が終わらなくて」

「……連絡ちょうだいよ? 温めて待っていたのに、もう一回温め直す事になるじゃない」頬を膨らませて愚痴をこぼす架純。

「……悪かったって」妄想の世界のようには上手くいかなかった。現実は甘くない。

「……先にお風呂入ってきたら?」

「あぁ、直ぐに済ませてくるよ」

「……うん」

 隣の自分の部屋に帰ると、急いで脱ぎ始めた。シャワーを浴び終わると、いつも着ているスウェットに着替え、改めて架純の部屋を訪れた。部屋に上がると、ダイニングテーブルの上にはカレーライスとサラダが綺麗に盛られていた。相変わらずのカレーの美味しさを、架純が向かいに座りながら堪能した俺はあっという間にカレーを平らげた。その間の時間は、取り留めの無い話をしたように思える。それがとても居心地が良くて、互いに最低限度の気を払いつつ自然で居られた。

「……そういえば」食事を終えて、満腹感を感じつつも今朝方の事を思い出した。

「うん?」架純はまだカレーを食している。

「俺くらいの身長で、歳は多分俺より数個上。スーツを着ていて、目鼻立ちがはっきりしている男……心あたりある?」

「……うん? それが、どうしたの?」架純は手を止めて眉間に皺を寄せて考えている。

「いや、大した事じゃないんだけど。今朝俺かお前の部屋辺りを外で見ていた男がいてさ……怪しい感じではなかったんだけど、ちょっと気になって」

「……ふぅん」

「最初は架純の元彼かなんかかと思ってさ……一応、声掛けたんだわ」

「……へぇ」

「そうしたら、御丁寧に会釈してから、逃げちゃって……不審な感じではなかったし、かと言って行動は怪しかったからさ……って聞いているか?」架純は空のどこか一点を見つめながら、物思いに浸っている。

「……うっ、うん。聞いているよ。でも何もなくて良かったね」

 明らかに先程までの顔色より暗い表情になっている。気にはなったが、これ以上聞くのは野暮だと思った。再びあの男が現れた時に問い質せば良い。今は良いんだ。

「あの子、友達か?」

「あの子?」

「昼間会った時、隣にいた子。大学の友達?」話題を変えようと、昼間の事を思い題した。

「……あぁ、雅美ちゃん? そっ、そうだよ」

「授業は大丈夫なのか? あんな昼間に友達といて」

「全然大丈夫……まだ一年だし。あっ、もしかして雅美ちゃんの事、気になってるの?」悪戯っぽく尋ねてくる架純に「まぁ、綺麗な子って思ったけどな」と何も考えずに答えると、先程見せた暗い表情とは違い、架純の機嫌がすこぶる悪くなった。架純は感情が顔に出るタイプだった。

「あっ、そう」俺が平らげた食器を持って立ち上がり、キッチンのシンクに運んでいき、食器を洗い始めた。しかも荒々しく食器の音をたてながら。自分の言葉の効力を、そこまで配慮しなかった。その言葉が誤解を与えていると気付くのに数秒要した。急いで立ち上がり架純の横まで近づく。

「かっ、勘違いするなよ? 別に架純が綺麗じゃないとかそういう意味で言ったんじゃないん―――」

「じゃあ、どういう意味で言ったの?」

 淡々と食器を洗う横から見る架純の顔は、明らかに不機嫌そうだった。答えあぐねている俺に架純が「帰ってよ、もう」と吐き捨てるように言った。

「……ごめん、俺が悪かったって」

「別に私達は付き合っている訳じゃないんだから、そういう目で他の女の子を見たって隼人君からすれば何も問題ないもんね」黙々と食器を洗いながらも口調は刺々しく俺の胸に突き刺さる。

「いや、そういう事じゃないと―――」

「隼人君、乙女心をもっと理解した方がいいよ」

 食器を洗い終えた加純は俺と向き直った。加純がこんなに感情を露わにしたのは初めて見た。

「以前の隼人君だったら、そんな事言わなかった。私を気遣ってくれたし、優しかった」

 その一言が妙に俺の心を刺激した。

「言わせてもらうけどな、別に俺は加純が聞いてきたから純粋に答えただけだし、感想を言っちゃいけないのかよ?」

 俺の言葉に明らかに不機嫌そうな表情を浮かべる加純。

「そういう事を言っているんじゃなくて、少しは私の気持ちを考えて言ってよ」

 加純の叫び声が部屋中に響き渡った後に静寂が訪れた。

「私の気持ちってお前―――」と静寂を切り裂くように俺が口を開いた途端「……ばか」と加純が小さく呟いた。 

「……えっ?」

「いいよ、もうカレー食べたでしょ? 帰ってよ、もう」いつかの出来事のように、再び玄関まで架純に追いやられたて、外廊下まで押し出される。そして、目の前の扉が閉まりかけた時、その隙間から見えた架純の目にはうっすらと涙が滲んでいるように見えた。

 それからの数日間は特に大きな出来事もなく、平穏無事に過ごした。例のアパートを見つめていた男も、それっきり見かけなくなった。

 強いて言えば、正和の体調が芳しくない様子だった。以前から体調を崩しがちだと思っていたが、会社に来る頻度が少しずつ減っていった。妻の小百合も、正和の側に付いている為、ここ数日は顔を見ていない。

 結衣とそんな会話をする機会が増えていった。さほど気にもかけていなかったが、会社勤めの人間なら、定年退職している年齢を優に超えている。それにも関わらず、元気に働いている姿が異常に思えた。正和を見ていると、それが当たり前だと勘違いしてしまう。

 架純とはあれ以来会っていなかった。特段何かあった訳でもないが、連絡も取っていなかい。あんな形で気不味い別れになってから、関係を修復する術を持ち合わせていない俺にとってはどうにもこうにも行かない。

 帰宅時に架純の部屋を通っても、室内の明かりが点いていない日があった。友人の雅美と食事にでも行っているのだろうと自己完結をしていた。俺から連絡を取って夕飯を作れとも頼みづらい為、手料理にありつけず店の近くにある牛丼チェーン店で夕飯を済ませていた。

 そして、あっという間に翌週の火曜日を迎えた。  

 当日の朝は不思議と目覚めが良かった。昨夜は心待ちにして翌日を迎える為に、体中の神経が研ぎ澄まされ、なかなか寝付けなかった。それでもいつの間にか寝落ちをして今日を迎えた。

 昨夜ベッドに体を預けた後に、スマートフォンを手に取った。あんな別れ以来だけど行かないって事はないよなと思いながら確認の意味で架純に『明日は、十時に下の駐車場でどうだ?』とメールを送った。要はようやく加純に連絡を取る口実が出来た訳だ。俺が帰宅した時に架純の部屋の明かりは点いていなかった。

 送って間もなく、既読表示になり架純から電話がかかってきた。

『もしもし?』

『もしもし? 隼人君?』架純の声は明るかった。

『……メール、見たか? 時間どう? 大丈夫か? 十時に出れば、昼前くらいには着くだろうから向こうでお昼食べて――』

『大丈夫。隼人君に任せるから……もう、そんなに一気に喋らないでよ?』架純の笑い声が聞こえてきた。まるで前回の気不味い別れがあった事を掻き消すように。

『……今、家か?』

『うん、そうだよ』

『……そっか』隣の壁を見つめた。壁の向こうに架純を想像する。

『……うん』

 高鳴る気持ちを抑えつつ『じゃあ、明日な……遅れるなよ?』と声を押し殺しながら、言葉を放った。

『隼人君こそ、寝坊しないでよ?』

『……じゃあ、おやすみ』

『おやすみ……また明日ね』

 朝を迎えた俺が先ず行動を起こした事は、愛車の洗車だった。黒のハイラックス・サーフのボディは土埃で汚れており、車内は汚れと匂いが目立っていた。市販のウェイトティッシュと消臭スプレー等で急いで掃除をする。

 それなりに時間をかけて念入りに掃除を済ませたサーフは、合格点を取った。時間を確認するがそれほど余裕もなかったので部屋に戻り、シャワーを浴びた。浴び終わると、自分が持っている選抜メンバーの私服からお気に入りに着替えた。お気に入りと言っても、カジュアルな服装だった。基本はジーンズにシャツを併せたもの。髭を剃り、髪を整えると時間は約束の十分前だった。

 駐車場に向かおうと玄関を出る。架純に声を掛けようかとしたが、女性の仕度は時間がかかるものだと結衣に言われた事を思い出し、催促はしなかった。今頃慌ただしく仕度をしているのだろうと想像した。

 車に乗るとエンジンキーを回した。スマートフォンを取出し、鴨川の水族館の住所を調べる。カーナビに住所を入力している時、いきなり助手席の扉が開いた。

「うわっ」俺が仰け反るように驚く姿を見て「うっふっふ」と架純が笑った。

「おはよう……乗っていい?」聞く前に乗車しようとしている。淡いピンク色のワンピースに白のライダースジャケット姿に気分が高揚した。まるでこの前の別れがなかったように明るい加純だった。そんな加純を見て俺だけ妙に気にしていて緊張していたのが馬鹿らしく思えた。もう忘れて今日を楽しもう。

「おはよう。思った以上に早いな……って荷物多くないか?」ショルダーバッグと別に、小ぶりのバッグを持っていた。架純は後部座席に小ぶりのバッグを乗せながら「あとのお楽しみ」と言って助手席に座る。架純が隣に座った途端、柑橘系の香りが漂った。

「とりあえず、前に行った水族館で良いか?」

「うん」架純が頷いた。

 その言葉を合図に、サーフを発進させた。近くの蘇我インターチェンジまでは一般道路で十五分程度の場所にある。

「やっぱり大きい車って、格好良いよね」隣に座る架純は車内を見渡している。

「もうすぐ高速乗るけど、コンビニ寄らなくて平気か?」カーナビが示す蘇我インターチェンジの入り口が近づいていた。

「私は大丈夫。隼人君は?」

「……小腹空いたから、寄ろうかな」起きてから何も食していなかった。俺がそういうと架純が「ちょっと早いけど……」と後部座席に置いた小ぶりのバッグに手を伸ばした。バッグを膝元に置いて中身を漁り出す。

「はい、口空けて?」運転している俺には注視出来なかったが、一瞬振り向くと架純が手に持っているのは、ラップに包まれたおにぎりだった。言われるがまま口を開けて食べた。直ぐにわかった。具は昆布で塩が利いていて美味かった。

「……それ、作ったのか?」架純が作るおにぎりを初めて食した。

「どう? しょっぱくない?」

「そんな事ないよ。美味い、美味い」

「本当? 良かった」架純も同様のおにぎりを食べ始めた。架純は準備万端で水筒も用意していて俺が一口欲すると注いで俺に渡した。俺はそんな架純の優しさと今日という日を、架純が楽しみにしていてくれた事に嬉しくなった。

 やがて蘇我インターチェンジの入口に入り、館山自動車道を通る。平日の割には交通量が少なくて、予定より早く到着しそうだった。

「……なんか、車を運転している隼人君って新鮮だな」。

「こうして車で出かけるのも初めてだもんな」

「私、ドライブデートするの初めて」窓の外の景色を眺めながら架純が呟いた。その言葉を聞いた時、俺の中で聞かずにはいられない事が脳裏に過る。先ずは確かめなければならない事だった。こっちが勝手に盛り上がっている可能性だって十分にある。

「……架純はさ、彼氏っていないの?」架純が発した言葉から数秒の沈黙が流れてからの事だった。架純に気持ちを伝える前に、どうしても確認しなければならない事。こうして今日を迎えている時点で、その可能性は低いと思う。それでも念の為の確認だった。

「……いる訳ないでしょ? いたらこうして来ないし……それに、おにぎりだって作らないから」架純は口許を尖らして答えた。

「……だっ、だよな」一先ず、第一関門は突破した。

「……隼人君こそどうなの? 彼女は?」矛先が今度は俺に向けられた。

「同じだよ……いる訳ないだろう?」

「……そっか」尻目で外の景色に顔を向ける架純を捉えた。先程から高速道路を真っ直ぐ走って、変わり映えのしない景色のはずだが、架純は顔を背けだした。まるで俺に顔を見られたくないように。

「正直に話すと……」俺はその話の勢いのまま話し出した。

「……架純と別れてから、誰とも付き合っていない」

 俺には重苦しい空気が車内に漂っているようには思わなかった。互いに沈黙しながらも次の言葉を探すように探り探りあっている。でも居心地は悪くなかった。俺には駆け引きなんて器用に出来ない。だから言ったまでの事だった。架純に知って欲しい気持ちを抑えられなかった。今までの架純との思い出や、これまでの架純への思いを少しでも今知って欲しかったから。

 架純は外に向けていた顔を戻し、俺に向けた。俺は握っているハンドルを力強く握り直す。前方を走る軽自動車との車間距離を改めて保ちながら、アクセルを踏む右足を弱めた。

 架純は俺に向けていた顔を再び外に向けた。すると「……私も」と架純が呟いた。俺には締め切った窓から走行音が毀れてもはっきりと聞き取れた。

「……何か言った?」照れ臭さに思わず聞き返してしまった俺に架純は「……ううん、何でもない」と返した。

 県道に入ると今度は房総スカイラインに乗り換えた。道路標識が鴨川や房総が見えると、あの頃に訪れた時の懐かしい記憶が蘇ってくる。それは架純も同様だったらしい。

「……懐かしいな」田畑が広がる田園風景と緑力しい聳え立つ山々。もう少し先に進んで車窓を開ければ、磯の香りが車内に吹き込んでくるはずだ。

「……修学旅行の時以来だよね?」尋ねられた俺は「三年ぶりだな」と返した。

 俺と架純が千葉県内の公立高校に通っていた頃。修学旅行で訪れた鴨川。何も千葉県に住んでいて県内で事を済まさなくてもいいのではと当時は思った。現に他の同級生からもクレームが複数あった。他校では海外に行く高校もあると聞く。どうしてうちの高校は近場で終わるのかと。

 そしてもう一つ、記憶に残る悲しい事があった。

「……私達が別れた場所」架純が噛み締めるように言った。

 架純が言う様に俺達が向かっている鴨川は、二人が別れた場所だった。修学旅行が架純との最後の高校生活になり、当時は失望を加速させたんだ。

「でもこうして、また会えた」努めて明るく話した。

「……この鯱のおかげかな」架純がバッグからキーホルダーを取り出す。

「本当だな……あの時誓った通りなった」あの時、俺達は再会を約束した。いつか再び会おう。それで御揃いのキーホルダーを買った。

「だから言ったでしょ? 鯱は縁起が良いって」

「そういえば……」含み笑いをしながら、先日の夢を思い出した。

「どうしたの?」

「鯱が夢に出てきたんだ」

「……うそ?」

「本当だって。空一面に何頭も飛び跳ねて――」

「違うの。それ、私も見た」俺の話を遮るように架純が告白した。

「架純も?」

「……うん」

「すごい偶然だな……」同じ夢を見る事なんて、ありえるのだろうか。

「いつも同じ所で夢が途切れるの。空一面に鯱が飛び跳ねていて、隣に人の気配を感じる。見上げていた視線を隣に戻そうとした時にそこで――」

「途切れるんだろう?」今度は俺が架純の話を遮った。

「……うん」この夢に一体何の意味があるのだろうか。そもそも、自分と同じ夢を見た事を聞いた事がない。

「もしかして、その隣にいたのって――」架純か? そんな考えが及んだ時、架純が唐突に言った。

「何かのメッセージなのかも知れないね」

「メッセージ?」

「隼人君と再会出来た事。こうして同じ時間を一緒に過ごしている事。同じ夢を見た事。全部、これのメッセージかも知れないなって」ふと隣に座る架純を見るとキーホルダーを掲げて、窓から差し込む光を眩しそうにしながら見つめている。

「何のメッセージだろうな」漠然と思った事を素直に口にした。それに架純は「良い事だといいね」と答える。

「……そうだな」

 鯱からのメッセージ。きっと良い事が起きる前兆だと信じて車を走らせた。

 出発前に表示された、カーナビの到着時刻より早く着いた。

「先に昼飯と水族館、どっち行きたい?」架純に尋ねると「隼人君はどっちが良い?」と反対に尋ねられた。

「俺が聞いているんだから、架純が決めろよ? 言い出しっぺだろう?」

「うーん」架純が決めやすいように二択で尋ねたが迷いあぐねている。

「じゃあ、先に水族館行くか?」俺が救いの言葉を差し出すと架純は大きく頷いた。

 全国的に知名度が高く、千葉県を代表する観光地である鴨川市内の水族館を訪れたのは三年ぶりだった。施設内の駐車場は平日の昼間という事もあって、さほど混み合っておらず空きが目立っていた。それでも観光バスが数台止まっており、観光ツアーの一環として今でも利用されているようだった。入口で入園料金を支払い、館内に入ると海の香りと心地よい風が俺達を出迎えた。

「うわぁ、懐かしいね」架純の無邪気な笑顔に心が波打った。入園料金を支払った際に渡された館内案内マップを架純と見合う。

「私、これ見たい」架純が指差したのは、スタジアム内で行われる鯱のパフォーマンスショーだった。定期の時間事に行われているようで、次の開始時刻までまだ時間がある。

「そうしたら、先に水族館行って……あっ、ほらここのレストランで食事したら、いい時間になるんじゃないか?」

 俺が提案すると架純に肩を叩かれ「それ、私もそう思った」と得意気に言った。言い終わると先を歩き出す架純。

「……おい、今の嘘だろ?」

「いいから、ほら? 早く行こ?」架純は足を止めると俺に手を差し伸べた。差し出された架純の手を俺は迷いなく掴んだ。架純の手は少し冷たかった。小さなその手を俺の体温で大きく包み込む。架純が俺に見せた微笑みに俺も応えた。

   今、始まった。

 架純に触れてこの空白の三年間が、空虚な心が少しずつ満たされていく。これから幾度の時間を架純と過ごす事が出来るだろう。どんな表情を架純は俺に見せてくれるだろう。きっとその度に架純の事をもっと好きになっていく。もっと愛おしくなっていく。

 水族館に入ると、幻想的な空間に支配された。三年ぶりに訪れた時と変わり映えはしないものの、薄暗い中を架純と手を繋ぎながら歩いていく。架純は展示されている海中生物に一喜一憂しながら俺を連れ回した。

「なぁ、これ見てみろよ?」俺が指差した水槽の中には、橙色の体に白いラインが三本入った、クマノミの一種の魚だった。水槽の中には何匹も泳いでいる。

「……綺麗」

「この魚って、前に映画にもなったモデルの魚だったよな?」

「えっ? 違うでしょ?」

「いや、そうだろう? たしかこの魚だって」

「こんな黄緑色じゃないって?」

「……おい、何言ってるんだ? どうみても橙色だろう?」水槽に指差し確認するように架純に説明した。

「……そう?」納得いかない様子で水槽に顔を寄せる架純。 

「……なっ?」

「あっ、あっち見てよ?」顔を上げて今度は、隣にある大きな水槽の中で泳いでいるクラゲに興味を移した。

「クラゲの目ってどこにあるか、隼人君知ってる?」話題を逸らそうとする架純だったが、仕方なしに俺はそれに付き合った。水の中をゆっくりと浮遊しながら漂うクラゲを見つめながら架純が尋ねてくる。あまり興味を示さない俺を見て架純はすぐに答えた。

「クラゲの種類にもよるんだけど、傘の縁にある黒い点が全部そうなんだって」

「……へぇ」顔を近づけて目を凝らす。実際に見てみても、定かではないがあるように見えた。

「数十個あってそれが全部、目なんだって」

「……そんなにあるんだ」架純は小さい頃から生き物に詳しかった。

「……でもね、ほとんど見えてないんだって」

「こんなにあるのに?」不思議でならなかった。

「周囲の僅かな光しか捉えられないの……だからクラゲによっては、明るい所に集まったり、反対に暗い所に集まるクラゲもいるみたい。もともと人間の脳みたいにクラゲには脳がないからみたいだよ」

「それじゃあ、まるで眠っている状態と一緒だな」クラゲを見ながら何気なく呟いた。

「……そうだね」

「……何か言った?」架純の声が霞んで聞こえた。振り返り架純の顔を見ると「ううん、何でもない」と頭を振る。俺が架純に近づくと「ねぇ、お腹空いて来た。何か食べに行こう?」と俺の手を握り先に進んだ。

 架純と一緒に先に進む道中、架純に対する違和感を覚えた。振り返った時に見た架純の表情はどこか寂しく虚ろな瞳をしていた。再会して以来、初めて見た顔だった。だがそんな事を考えている時間は僅かだった。

「ねぇねぇ、これ美味しそうだよ?」

 船内をイメージした、バイキングレストラン入口付近にあるサンプルケースを見て架純が興奮気味に同意を求める。架純が指差したのは、大皿にライスを鯱の形に盛り、その横に豚肉や色とりどりの野菜があるメニューだった。店内の状況を確認しようと、入口から中を覗く。さほど混み合っておらず俺が架純に「ここで良いか?」と尋ねると架純は頷いたので、店内に入った。

 店員に窓際のテーブルを案内された。改めてメニューを確認し合い、架純が気に入った先程の料理と同じものを注文した。料理が届くまでの間、高校生時分の話に華を咲かせた。同級生の恋愛話や、当時話題になったテレビ番組の話。窓際の席を背に座った俺は、向かいの席に座る架純が差し込む光でより明るく映える。夢中に話す架純の豊かな表情を見つめ、話に耳を傾けながら注文を待っていた。

「わぁ、すごいね」

 目の前に運ばれた料理を見て架純は、目を大きくさせた。サンプルケースで見た通りの料理が運ばれる。豚肉の芳ばしい香りと色彩豊かな野菜に気分が高揚し、食欲をそそられる。

 デザートのフレンチトーストを架純が食べている時、時刻を確認した。午後から行われる鯱のパフォーマンスショーが始まる時刻が迫っていた。

 食事を終えると屋外に出てスタジアムまで向かった。行先が同じなのか、子供連れの客足が多く見受けられた。スタジアム内に入ると、アーチ状の観客席が目に入る。当然、鯱と距離が近い前の席の地面は濡れていた。さほど混み合っていない観客席の為、選択肢は多かった。架純とどこに座ろうかと話合った結果、後部座席でもなく、中盤の位置の席に腰を下ろした。

 時間になると音楽が流れ始め、女性トレーナーが登場した。こういったショー独特の話し方に安心感を覚え、架純と一緒に前方のスタンド内を見ていた。トレーナーが掛け声を始めると、スタンド中央の水槽の中を大きな黒い物体が二つ姿を見せる。中央までその物体が来ると、トレーナーが合図の声を掛ける。すると、その物体が海面から姿を現し高く飛び跳ねた。前方の客席にいる子供達が歓声を上げる。

「……すごいね」

 隣に座る架純は、その後も次々と行われる鯱のダイナミックなパフォーマンスに興奮していた。スタジアム内に流れる音楽の曲調が変わると、よりダイナミックさを増した。

ショーが終わり、スタジアム内を出た時に架純が「夢で見た方がすごかったね」と俺に寄り添いながら感想を述べた。

「確かに……もっとこう……ダァーって飛んでいたもんな」俺の身振り手振りを交えての説明に架純は、口許を押さえながら笑った。話が終わると、行く宛ての無い歩みを一旦止めた。

「……なぁ、この後どうする?」ここまでの予定は決まっていたが、この先は特に決めていなかった。夕方までは少し時間がまだある。すると架純が辺りを見渡し、ある方向に指を差した。

「あそこ、行ってみない?」架純はメインゲート脇にあるショップを指差した。訪れた客の多くが最後に訪れるギフトショップ。俺は特に反対の意思を示さず、架純と一緒に向かった。

 店内には鯱やイルカなどに関するお土産品からグッズまで数多くあり、品ぞろえが豊富だった。架純は俺を気にもせずに店内をうろうろとしながら、商品を手に取ってみたりしている。こういう時の男の立ち位置はどうすれば良いか……俺には難しかった。さほどこういったお土産やグッズに関して興味がない。女性からすればどれも『カワイイ』と手に取って吟味したり、楽しそうにしている。手持無沙汰の状態で店内を歩いていると、目にと見込んできた商品があった。

「……これって」手に取ったのは、鯱のキーホルダーだった。三年前に架純と一緒に買った物。当時と鯱のデザインが少し異なるが、かなり似ていた。

「……懐かしいね」振り返ると、架純が顔を覗かせた。持っている買い物籠には、クッキーやら商品が入っている。

「……そうだな」手に取っていたキーホルダーを元の場所に戻す。すると「せっかくだし、何か記念に何か買っていかない?」と架純が言った。俺はそれに同意をして、店内を架純と一緒に探し回った。鯱のぬいぐるみ、ストラップ、中にクッキーが入っているミックス缶など探し回ったが、決め手に欠けた。

「隣の店、行ってみるか?」併設されたショップが隣にもあった。架純は一先ず会計を済ませる為、レジに向かった。レジは数名並んでいたので、先に物色しようと架純に声を掛けてから俺は隣のショップに向かう為に店内を出た。

「いらっしゃい、いらっしゃい。ハズレ無しの鯱くじやっていますよー」

 隣のショップ入口付近で路上のくじ引きが行われていた。興味を覚えたので向かうと、カップルらしき組み合わせで数人が並んでいた。どうやら球体の中にくじが入っていて、手を入れてくじを引くエアー抽選機式のようだった。一等は先程店内で見た鯱のぬいぐるみより数倍は大きい、ジャンボ鯱のぬいぐるみ若しくは白イルカの同サイズのぬいぐるみ。二等以下はサイズが小さくなっていくが、いずれも景品は、ぬいぐるみのようだった。鯱くじを行おうと並んでいる人達の様子を眺めていると架純がやってきた。

「何しているの?」

「……鯱くじだってさ」

「一等がそこにある、ジャンボサイズの鯱のぬいぐるみだって」店頭に並んでいる鯱を指差して、先程仕入れた鯱くじ情報を架純に説明した。

「えぇー、かわいい」興奮気味にぬいぐるみを見ている架純。その様子を見て俺が「試しにやってみるか?」と言って列に並んだ。先程から見ていると、どれも四等が五等のショップでも売っているサイズのぬいぐるみばかりだった。

「隼人君って、こういう運って強かったっけ?」並んでいる最中、架純が尋ねてきた。

「いや、そんなに……むしろ、悪いな」こういった運を試す事で、今まで目立った功績を遺した記憶がなかった。だが、架純のさっきの様子を見て、やらざるを得ない気持ちに駆られた。

 やがて順番となり店員に千円札を渡す。俺の前に並んでいたカップルは、彼氏がくじを引いて四等に終わった。俺と同年代くらいの男性が、彼女に良い所を見せようと臨んだ結果に、彼女が寂しそうな顔をしていた。

あんな顔を架純にさせるものか。

 名前も知らない男の志を引き継ぎ、根拠のない自信を胸に秘めて、抽選機の中に手を入れた。瞳を閉じ抽選機の中で弄っていると、人差し指と中指の間に挟まった紙があった。直感的にそれにしようと指で挟んだまま腕を引き抜いた。取った紙をその場で開くと、まさかの一等の文字が書かれていた。

「……うそ?」思わず声に出た。係りの女性に紙を見せると、驚いた様子でハンドベルを鳴らした。

「おっ、おめでとうございまーす」並んでいたカップル、そして遠巻きで見ていた人達から拍手喝采を浴びた。

「すごい、すごいよ、隼人君」興奮した架純の様子を見て、誇らしい気持ちになった。

「おめでとうございます。一等の景品は、こちらの鯱とイルカのぬいぐるみとなります。どちらか選んでください」目の前に出された二つのぬいぐるみ。

 促された俺は隣に立つ架純に「好きなの選べよ?」と選択を委ねた。

「……えっ? だって隼人君が――」驚いた表情を見せる架純。

「元々、架純の為にやった事だし……」

「ありがとう……じゃあ、そっちの大きい鯱で」架純が指差した鯱を係りの女性から受け取った。持ってみると想像以上に重かった。全長一メートル近くあるんじゃないのか。

「架純にはこれ持てないな」両肩にぬいぐるみを乗せて一先ずその場を離れた。

「寝る時に抱き枕として使おうかな」架純が鯱の触り心地を確認しながら答えた。

「女子ってこういうぬいぐるみ、本当好きだよな。俺には理解出来ない」

「幾つになっても、こういう可愛いものは女子は好きなの。隼人君、そういう乙女心はちゃんと理解しないと駄目だよ?」

「……乙女ねぇ」嘆息混じりに答えた。先日の件もあるから理解するように心掛けた方が良いのかもしれない。

「ところでさ……これ車に積んでいい? このまま持って歩くには、ちょっと恥ずかしいんだけど」一先ず、駐車場に向かった。現に先程から行き交う人々の視線がこの鯱のぬいぐるみに集まっていて気が引けた。しまいには子供から『あれ、欲しい』と指を差される事態。駐車場に着くと、車の後部座席にぬいぐるみを積んだ。

「さてと……この後、どうしよっか?」駐車場内に停めてある車の数は、来た時より少なくなっていた。

「ちょっと、行きたい所あるんだけど……」

 架純は先程までの雰囲気と違い、緊張を孕んだ声色で言った。

 駐車場に車を停めたまま水族館から歩いて数分の場所。高台に位置した水族館から、国道に沿って歩くと海岸へと続く階段がある。下った先には太平洋を一望出来る海岸がある。俺と架純は海岸に降り立った。砂場に足を取られながらも架純は海へと近づいていく。

「うーん、気持ちいい」

 両腕を広げ、体を伸ばすように深呼吸をする架純。架純が鴨川に行きたいと話した時から、何かあるのだろうと思っていた。俺も俺で架純に伝えたい事を胸に秘めながら、タイミングを窺っていた。

「……やっぱり海っていいな」

 架純は靡く髪を押さえ目の前に広がる景色を眺めている。潮の香を乗せた風を身に纏い、橙色へと移り変わる空を背に隣に立つ架純が綺麗だった。

「私ね……小さい頃に海で溺れた事があるの」架純はゆっくりと話出した。

「家族と海に遊びに行った時だったかな……あれ以来、海が怖くなっちゃってね……近づくのも極力避けていた。それから大きくなって、こうして見ると……好きになってきてね。何だろ……抱えている不安な事だったり、嫌な気持ちが和らいでいく気かして」

「……あの時もここに来たよな?」

 三年前の修学旅行に架純と一緒に抜け出して、この場所を訪れた。その時に架純から突然別れを切り出された。架純の父親の転勤で引っ越さなければならなくなったと伝えられた。架純は泣いて俺の胸に飛び込んだ。最後は再会を誓って、固い握手をした記憶がある。

「でも、こうしてまた会えたね」

 こうして架純と再会出来るとは思わなかった。再会を望む事を心の中では願いながらも、どこか現実的な問題が立ち塞がる。それは時間や理屈的な事だけではなく、互いに気持ちを持ち続けているかどうかだった。

「隼人君と会ったら、ここに一緒に来たかったんだ」

 加純の事をもっと、もっと理解したくなる衝動に駆られた。

「私がこっちに戻ってくる事になって、隼人君に連絡しようと……って隼人君さぁ、私が転校してから、携帯とかSNS変えたでしょ?」急に話の矛先が来て狼狽えた。

「……あれは、いろいろあってさ」

 架純が転校してから、無気力な日々を過ごしていた。それでも、支えになっていたのは架純との再会の約束だった。だが周囲から心無い言葉を浴びた。次第に架純への想いは、薄れていった。本当に架純は再会を望んでいるのか? もしかして俺の勝手な妄想ではないのか? 心と体が裏腹になり、自身が置かれている環境を断ち切る為に行った行動だった。

「……まぁ、無理もないよ」端的に架純に事情を伝えた。「でもね……」架純が話を続ける。

「私は、三年間変わらなかったよ……隼人君への気持ち」

「……架純」

 どうしてこんな気持ちになるのだろう。どうして俺は、いつもこうなのだろう。何かを一つ終える度に、いつも湧いて来るこの気持ち。終わっているようで、終わっていなかった。全てが中途半端で勝手に自身の中で終わらしていた。

「この場所ってさ、私達が一度別れた場所でしょ? だからもう一度始まるとしたら、ここからが良いのかなって。だから――」

「待ってくれ」架純の言葉を遮った。

「……それ以上、先は言うな」

「……えっ?」架純は突然の事で戸惑いを見せた。

 ずっと秘めていた架純への想い……架純に言わせる訳にはいかない。このままこの気持ちを閉ざす訳にはいかない。もう懲り懲りだ。架純に誠意を見せよう。この気持ちに素直になって、架純の気持ちに応えよう。

「……もう一度、始めないか? 俺達……」視線の先に架純を捉える。

「好きだった……架純の事。別れてからも……ずっと」もう一度向き合いたい。もう一度、架純と一緒にいたい。

「……隼人君」

 俺に向き合う架純。瞳を閉じて架純は俺を求めてきた。架純の肩に触れ顔を近づける。そして架純の唇に重ねた。

 ゆっくりと顔を離すと、架純は照れ臭そうに顔を俯かせた。その瞬間、俺は言葉にならない衝動に駆られ架純を力強く抱きしめた。

「ちょっ、ちょっと隼人君?」

戸惑う架純に俺は「……離さない」と答える。

「もうあんな寂しい思い……したくないんだ」

 架純は小さく「……うん」と頷いた。


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