死なないで

 今朝から私はもう何度も泣いている。あの美しい女優さんが、娘が大ファンだった女優さんが亡くなってしまった。
 今年に入って、何人目だろう……。若く、未来のある素晴らしい方達が、突然この世界から消えてしまうなんて、どうしても受け入れることができない。
 惜しんでも惜しんでも惜しんでも、それでも惜しみ足りない命の永遠の不在を、どうして受け入れることができようか。

七十年近い人生を振り返ると、強く死を願ったことが三回ある。
一度目は高校二年生の時だ。居場所のない家で、私はただその日その日を消費していくだけの日々を送っていた。夢や希望なんかどこにもなかった。私を心から大切に思ってくれる人もなく、両親の不仲はエスカレートしていて、兄弟仲も悪かった。父が母をひっぱたき、よろけた母が窓のガラスを頭で割った時には、本気で父を殺そうと思った。
 私の夢は医者になって貧しい国で医療活動をすることだった。
しかし、母の一言で、私は人生の目標を失い、全てを投げ出してしまった。
「あんたはもう勉強しなくていい。この家にとって大事なのは男の子達だけ」
その頃、父が借金の保証人になって家が傾いていたので、私を大学にいかせる余裕がなく、母も苦しんでいたのだろう。母もまだ若く、未熟だったのだ。
私はある日、学校生活でのちょっとした嫌なことが引き金になって「死のう」と決めた。五十年以上前は薬局で睡眠薬が買えたのでそれを手に入れて飲んだ。
しかし、致死量には達していなかったらしく、一命をとりとめた。目が覚めて自分がまだ生きているとわかった時、心に感じたのは絶望だけだった。
十七歳の私は知らなかったのだ。人生には様々な困難が待ち受けているけれど、いつかきっとそれを笑って話せる日がくるということを。人生が真っ暗なトンネルのように思える時があるけれど、出口は必ずあるということを。
死に損なった私は高校卒業と同時に家を出た。そして五年間一人暮らしをしたのだが、家族と離れたことで、少しずつ嫌な記憶が薄らいでいき、また家族と一緒に暮らそうと思うようになった。ところが、実家に戻ってわずか三ヶ月後、私は呼吸器系の難病にかかって、大学病院に長期入院することになってしまった。ステロイド薬の大量投与のために体重が二十キロ以上増えて、髪の毛が抜けた。その頃仲が良かったボーイフレンド達は激変した私を見て、二度と面会に来なかった。
悪いことは重なるもので、私が入院して数ヶ月後に、今度は父が末期の肺がんで同じ病院に入院してきた。そして、桜が満開になった日に旅立ってしまった。父は国家公務員だったので官舎に住んでいたのだが、そこはすぐにあけ渡さねばならず、母と兄弟達は狭いアパートに引っ越した。
 私は一日も早く退院して仕事をしなければと焦りに焦った。なんの役にも立たないことが申し訳なくてたまらなかった。そんな時、面会に来た弟がいきなりこう言い放った。
「俺たちみんな、大変なんだよ。姉貴のせいで、俺は彼女と結婚もできないんだよね。姉貴がいる限り、俺たち幸せになれないんだ」
 私がいかに家族のお荷物になっているかを、弟はこれでもかというくらい言いつのって帰って行った。
 私は身体中が痛かった。こみ上げる涙をどうにか押さえ込んでエレベーターに乗り、九階の病室に戻った。病室は六人部屋で、大抵誰かいるのだが、本当にたまにだが、全員が売店やレストランや敷地内の散歩に出かけたりして、病室がカラになることがあった。
その時もそうで、部屋には誰もいなかった。窓が開いていて、心地よい風が入って来た。私は窓の前に立って窓枠に手をかけた。
 綺麗な青空を見上げ、そしてゆっくりと地上を見下ろした。人間が豆粒みたいに小さかった。
誰一人、私を必要としていない。今、ここで飛び降りたら、家族のお荷物はいなくなる。私も家族も楽になるんだ……。
そう思った瞬間だった。勢いよくドアが開いて同室の人が入って来たのだ。私は自分のベッドに戻り、布団の中に潜り込んで泣いた。
 長い入院生活が終わり、退院した私の願いは「結婚」だった。一日も早く家を出たかった。居場所が欲しかった。家族が欲しかった。だから、舞い込んだ見合い話に飛びつき、相手のことをまだよく知らないまま結婚した。
夫は一緒に暮らすのがものすごく大変な人だったが、後悔はしなかった。実家にいる頃に比べたら、自分の居場所があるだけずっとずっとマシだったのだ。
けれど、二人の娘を産んだ直後から、私は心を病み始めた。体調も慢性的に悪かった。今思えば、あれは間違いなく産後鬱だったのだ。孤独で、不安で、何もかもが怖かった。
私はどんどんおかしくなっていき、久しぶりに会った人が皆ギョッとするくらい痩せてしまった。
そして三度目の「その時」がやって来たのだ。
幼い娘たちが二人して高熱を出し、咳と熱がいつまでも治らず、何日も眠れぬ夜が続いていた。孤独と不安を抱えたまま、私は薬をもらいに車で出かけた。その帰り道、私は家に帰るのが怖くてたまらなくなった。小さな娘がまたあの乾いた咳をしているのだろうと思うと、涙がこみ上げた。帰りたくなかった。逃げたかった。その時だ。視線の先に、大きなトラックが私に向かって走って来るのが見えた。私は小学校のグラウンドに張り巡らされた緑色のネットの横を走っていた。トラックはもうすぐそこまで来ていた。そして魔の瞬間が訪れたのだ。
「ああ今ハンドルを右に切れば、もうあの咳の音を聞かずにすむんだなあ……」
 それはほんの一瞬だった。一秒の半分くらいの間だが、そんな恐ろしいことを考えたのだ。はっと我に返った私の指は小刻みに震えていた。
 
私が今生きているのは奇跡みたいなものだと思っている。自力で生きて来たというより生かされた命だ。
娘が小学校に入学した時、成人式を迎えた時、漫画家になって原稿料で化粧品を買ってくれた時……、色々な場面で私が思うことは一つだった。
「生きていて良かった!」
 毎年、隣の家の桜の木に可愛い薄紅色の蕾を見つけるたびに、しみじみとそう思う。

南木佳士さんのエッセイ『トラや』の中に、鬱病とパニック障害を発症した南木さんが、自死しようとした瞬間のエピソードが書いてある。

 出刃包丁を手に取ったその時、猫が飛び出して来て、南木さんは「餌をやってから死のう」と思い直した。猫が餌を食べているのを見ているうちに少し落ち着いて来て精神科に駆け込んだそうだ。その時、猫が飛び出さなかったら、南木さんはおそらく死んでいただろう。

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 三十分頑張って生き延びたら、死を回避できて命がつながるということはあると思う。明日も明後日も一年後も生きていなくてはいけないと思わなくてもいい。今日一日だけ、一時間だけ、三十分だけ生きてみようと思うだけでもいい。それだけだって大変なエネルギーが必要だ。私も、毎朝目が覚めた時に「今日一日をどうやって生き延びよう」と絶望した日々があったから、痛いほどわかる。
どうか、今日一日を、この一時間を、この三十分を耐えて欲しい。生き延びて欲しい。自力で難しかったら薬の力を借りるのもいいかもしれない。知り合いの女性は「もうだめだ」という時に抗不安剤を飲むと言っていた。

 今、この瞬間も「死にたい」と思っている人がいるはずだ。私が九階の窓に立った時のように、青いトラックを見た時のように……。
私は今、この原稿を泣きながら書いている。祈りながら書いている。
私にはこんなことをいう言う資格なんかないかもしれない。だけど、だけど、だけど、どうしても言わずにはいられない。
 どうかどうか死なないで!死なないで!死なないで!

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