菊之助のひとりごと。秋斗にも春田さんにも負けてしまった・・・

 叶わぬ恋をしたことがある人と、ない人では、きっと人生で何かが違う気がする。
 叶わなかった恋は時間という雨風にさらされても、色あせない。ただ純化され昇華されるだけだ。
 最期の時を迎えた瞬間に、叶わなかった恋を思い浮かべる人もいるんじゃないだろうか。多分俺も…。
 長い時が経って、和泉さんと街ですれ違っても、お互いに気づくことさえなくなったとしても、俺の中の和泉さんは、ガキだった俺と秋斗を指導してくれた強くて頼れる教官であり、かっこいい公安のエースなのだ。
 俺は和泉さんに愛して欲しかっただけじゃない。和泉さんに、自分自身を許して欲しかったのだ。
 教え子であり恋人でもあった秋斗が和泉さんをかばって死んだから、和泉さんの心は壊れてしまった。自分を許せないんだ。だから人生を投げ出してしまって、復讐に取り憑かれて、自分を痛めつけ、罰している。そうすることでしか正気を保てないのだろう。
 だけど、もういいんだよ。和泉さん、自分を許してあげてほしい。なあ秋斗、お前もそう思うだろう? 
 秋斗の命日に墓の前で和泉さんが言っていた。
「春田さんは陽だまりのように優しい人で、前に進むことを教えてくれたのはあなたでした。これでようやく区切りをつけることができます」
 俺は、秋斗にも春田さんにも負けてしまったんだな。和泉さんが前に進んでくれるように、自分を許してくれるように、幸せになってくれるようにと、ずっと祈りながらそばにいたけど、俺は結局弟でしかなかったし、何の役にも立たなかった。せいぜい、秋斗の写真が入ったロケットを見つけてあげたくらいだ。
 和泉さんは、この前の点滴スを、どう思っているんだろう。
 視線の先にいるサンドイッチマンになった和泉さんをそっと物陰から見つめながら、俺はため息をついた。
 あ〜あ、広告板に挟まれているのに、道路に落としたパンフレットを拾おうとするから転んじゃったじゃないか。
「元公安のエースが、何やってるんですか」
 手を差し出して和泉さんを助け起こした。
「もう、ほんとに…。しょうがないなあ」
 一旦手渡したパンフレットをむしり取って、「お願いしま〜す!」と道行く人に笑顔を振りまきながら差し出した。タイミングと笑顔と強気が大事だ。十人中七人くらいは受け取ってくれた。
 「和泉さん、疲れたでしょう。ちょっとそこに座ってやすみましょう」
 強引に誘うと、和泉さんは小さくうなずいた。
「おにぎり、食べてください」
 俺が手渡したおかかおにぎりを、和泉さんは黙って口に入れた。ひどく気まずそうで戸惑いの色が頬に影を落としている。
 「このあいだのこと、気にしないでくださいね。別に俺、返事が欲しいわけじゃないんで。せめてこのままあなたの弟でいさせてください」
 それまで俺の視線から逃げていた和泉さんが、やっと俺の目を見てくれた。
 「菊…」
 和泉さんの口の端にご飯粒がついている。小さな子供みたいに可愛くて、思わずふきだしてしまった。
「こういうのも自分で取れるようにならないと」
 ご飯粒をつまみながら顔を近づけた。思わず吸い込まれるようにその唇にキスしたくなる。ヤバイヤバイヤバイ!俺は今「せめて弟でいさせてください」と言ったばかりじゃないか。これでうっかりキスしてしまったら点滴スに続く嘘つキスになってしまう。
「その広告板、貸してください」
「え?何するんだ?」
「配るの手伝います。和泉さんじゃパンフレット受け取ってくれる人おばあさんくらいしかいないじゃないですか」
 俺は強引に広告板をつかんで頭からかぶった。
 「お願いしま〜す!」
 笑顔の大安売りをしながらパンフレットを差し出すと、女子高校生二人が照れながら受け取ってくれた。
 あっという間に全部配り終えたが、二月の太陽は、もう西のビルの陰に隠れ始めている。
「じゃ、俺行きますね」
 広告板を返して一礼した。
「和泉さん、なんか少しやせたんじゃないですか。ちゃんと食べなきゃダメですよ」
 本当はこのまま一緒に家に帰りたかった。たとえ弟としか見てもらえなくても、ご飯を作って食べさせてあげたかった。
 言ってはいけないことを口にしそうになって、俺はくるりと背を向けた。
 足早にその場を立ち去る俺の後ろで、和泉さんが「菊…」と小さく呼ぶ声が聞こえた。だけど俺は振り返らなかった。振り返ってしまえば、きっと、きっと抱きしめてしまう……。
 

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