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自己紹介

「未来予想図は大体はずれる(気がする)」

人生は、何が起こるかわからない。未来なんて、心に描いた通りにはいかない。
子供の頃の夢は医者になって貧しい国に行き、医療活動をすることだった。だけどある日、ガリ勉の高校生だった私に母がいきなりこう言い放った。
「あんたは、勉強しなくていい」
その頃、父が借金の保証人になっていたりして家が傾いていたから、息子を大学にやるだけで精一杯で、私を大学にいかせる余裕がなかったのだろう。
男尊女卑の我が家では、当然すぎる判断だった。そこで私の最初の未来予想図は砕け散った。
私はその日からガリ勉をやめて未来予想図を描き直した。
「結婚」を人生の目的にしたのだ。私は子供の頃から結婚に強い憧れがあった。両親がものすごく不仲で寒々とした家だったので、「暖かい家庭」というのは、私にとってファンタジーだった。だからこそ喉から手が出るほど欲しかったのだ。私はサザエさんのお母さんのお舟さんのような人生を思い描き始めた。
二十五歳くらいで優しい人と恋愛結婚して、寿退社。子供は二人。子供のどちらかを医学部に行かせる。六十歳くらいには孫が二、三人いて、仕事を引退した夫と二人で平和な日々を送り、八十くらいで夫が天国に逝き、数年遅れで私も子供や孫に見守られて天国へ。
だけど、本当に人生なんて何が降ってくるかわからないものだ。
二十五歳で結婚するはずが、二十五歳になってすぐに肺門リンパ腺の難病で一年入院してしまった。ステロイド投与で顔が倍に膨らんで、その頃まわりにいたボーイフレンド達は蜘蛛の子を散らすように逃げ去った。
顔が膨らんだだけで男達がいなくなってしまったということは、私に人間的魅力がなかったんだなあと反省しつつも「男なんてどいつもこいつも!」とムカついたのも正直な気持ちだ。
顔が元に戻っても恋愛はうまくいかずに、二十代後半でお見合いをした。
見合い写真を見た母がこう言った。
「ブサイクな男はいい夫になるって、フランスかどっかのことわざにある。きっとこの人はいい夫になるから結婚しなさい」
 私はそれを信じた。俳優顔負けの超イケメンだった父が家庭人としてはめちゃくちゃ問題のある人だったから、その逆の人なら良い夫になるはずだと思ったのだ。ところが結婚してみたらまあ大変!夫はものすごい変人だった。コミュニケーション能力が限りなくゼロに近く、自己中。気分はコロコロ変わるし、気が短いし、新婚旅行の二日目には「しまった!とんでもない奴と結婚してしまった」と思った。
「自分のすることは全て許される」という根拠のない自信に満ちた夫は無断外泊なんて日常茶飯事。交差点で信号待ちしている時、ふと横を見たら隣の車線に夫の車が止まっていて、助手席には女性を乗せていたこともあったっけ。
二人の娘を授かったものの、娘たちは虚弱体質でしょっちゅう病院に行かなくてはならず、おそらくその不安と孤独から鬱と重い強迫性障害を発症してしまった。
家に閉じこもり、どうしても必要な時以外人と会わずに暮らして十年以上が経ち、娘達が中学生になった時、「このままじゃダメだ」と、焦燥感にかられ始めた。虚弱体質の娘達がやっと人並みに学校に行けるようになって少し心の余裕ができたからだろう。
「夢を持ちなさい。夢を叶える努力をしなさい」
 娘達にそう言い続けていたが、私にそんなことを言う資格があるだろうか?
立ち止まって自分の人生を振り返った時、私は自分が今岐路に立っていると強く感じていた。
「何がしたい?」
 自分に問いかけてみた。答えはすぐに出た。
「大学に行きたい!勉強がしたい!」
 ガリ勉だった少女は、三十年経ってまたガリ勉生活を始めた。だけど、問題は入学金と授業料だった。お金の管理は全て夫がしていたのだ。娘達に相談すると二人は結託して夫と交渉を始めた。
「お母さんが大学受験して、もし受かったら授業料払ってくれる?」
 娘がそう言うと、夫はせせら笑っていたそうだ。
「アホか!あの歳で受かるわけないやろう。万が一受かったら出してやる」
 その万が一が起こって、私は四十六歳で福岡大学に入学した。生活がガラリと変わったおかげで、強迫性障害はかなり軽くなった。がむしゃらに勉強した結果、特待生になり、奨学金を頂けることになったのだが、私はそれまでカードはおろか貯金通帳も持たされていなかったので、夫に内緒で通帳を作った。
それから数日後、奨学金が振り込まれた私名義の通帳を開いた時の感動は、今も色あせることはない。特待生の奨学金は返す必要がないので、そのお金は私のものになった。その勢いのまま五十二歳で九州大学大学院へ進んだ。大学講師の仕事に就けるかもしれないという儚い望みに賭けたのだ。でも、若い研究者でさえ就職できない状況で、私程度の実力では叶わなかった。
夫からの自立の道を模索していたある日、乳がん発症。五十九歳だった。
しょっちゅう病院に行かなくてはならない日々の中で、死の恐怖が張り付いて、未来に光なんか見えなかった。どこまでも続く暗いトンネルの中を、怯えながらとぼとぼ歩いているような日々が続いた。
だけど、本当に人生というものは予測ができないものだ。なんと闘病中に書き始めた小説が、六十一歳で小学館文庫小説賞を受賞して作家デビューすることになったのだ。お舟さんになろうとしていた私は、小説家になろうなんて、それまで考えたこともなかった。なぜ突然小説を書き始めたのか、それを説明することは本当に難しい。手術後病室の窓から外を見ていた時に、なぜか「私…書かなくちゃ…!」と思ったのだ。
「私にはやらなければならないことが残っている。伝えなければならないことがある。だから書かなくちゃ」というような、何かに駆り立てられる感じだった。
私に続いて娘たちも漫画家デビューを果たした。
未来予想図では六十歳で孫を抱いているはずだったのに、娘達は孫でなくひたすら作品を産み続ける日々だ。
ありがたいことに、初連載の『4分間のマリーゴールド』が映像化され、私がノベライズをさせてもらった。
その仕事のおかげで、福士蒼汰さん、菜々緒さん、桐谷健太さん、横浜流星さん、佐藤隆太さん…素晴らしい俳優さん達にお会いすることができた。まさか、自分の人生にこんなできことが待ち受けているなんて夢にも思わなかった。
今年五月に出した私の新刊『僕は人を殺したかもしれないが、それでも君のために描く』の表紙と挿画は娘たちが描いてくれた。
私は今、夢に描いた未来予想図とは似ても似つかない生活を送っている。
未来なんて、予測も準備もできない。生きていれば、いろんなことが雨あられと降ってくる。雷も鳴るし、雪や雹(ひょう)だって降ってくる。大きな雹に直撃されたら命だって危ない。
人間は、大河に放り出された小舟みたいなもの。だけど、この小舟には、立派な梶(かじ)がついている。後ろに行くことはできないが、右に行くか左に行くか、そのまままっすぐ流されていくかだけは自分で決められる。人生は選択の連続。
人生は儚い。短い。あっという間に終わってしまう。振り返れば後悔だらけの人生だけど、過去は変えられない。人生が終わって、神様の前に引きずり出された時に、顔も上げられないような選択をしないように、今日一日をちゃんと生きよう。今日が人生最後の一日だと思って真剣に生きよう!
強くそう思っているのに、今日は朝一時間も寝坊をし、今やらなくてもいい引き出しの整理を始め、日課の運動をサボり、原稿を書く時間を惜しんで韓国ドラマをたっぷり観てしまった……。
 こんな未熟者だけど、七十年近く生きてきて、たくさん失敗もしたし、たくさん苦しい経験もした。だから、そこから学んだこともたくさんある。
それを誰かに伝えたくてエッセイを書き始めた。人生は長いトンネルを手探りで歩いて行くようなものだから、誰かにとって、小さな小さな灯りの一つになれたらいいなあと心から願っている。

 これから毎週エッセイを連載していくので、もしよかったら、お時間があるときにのぞいて見てくださいね。
ではまた来週。良い週末を!


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