4分間のマリーゴールド #貝殻
幼い頃から、人と手を合わせると今目の前にある現実世界とは違う映像が視えた。
見たこともない家や病室、知らないおじいさんやお婆さんが眠っている姿や、泣いている人々…。俺はずっと、その幻視が何を意味するのかわからないまま、漠然とした不安なイメージを抱えて生きてきた。
それがその人の最期の姿であるとわかったのは、救命士になって一年足らずのある日のことだった。
それは同時に沙羅の余命を知った日でもあった。
二年前の晩秋。朝一の出動要請を受けて向かった先は、郊外の新興住宅地だった。碁盤の目のようにきちんと区画された一帯には、いかにも若い夫婦と小さな子供が住んでいそうな洋風の家が並んでいた。
要請があったのもそのうちの一軒で、建ち上がって日が浅そうな家の庭にはピンクの自転車が置いてあった。
玄関から若い母親が出てきて、「すみません」と頭を下げた。
「昨夜の夜から熱が出て、朝ごはんの後、二回吐いて…。最近越してきたばかりなので病院も分からないし、夫は出張中で…」
リビングルームに入ると、ソファーの上に幼い女の子が横たわっていた。
熱っぽい目をして、ぐったりしている。
俺は女の子の横に跪き、「お名前は?」と声をかけた。
女の子は肩で息をしながらも「山本郁。六歳」とはっきり答えた。
「郁ちゃん、お兄ちゃんたちと一緒に病院行こうね」
郁ちゃんはその症状から風邪と思われたので、とりあえず近くの診療所に搬送することになった。
俺は救急車の後部座席で脈を測りながら「郁ちゃんは幼稚園の年長さんかな?」と訊いた。
ストレッチャーに横たわった郁ちゃんは小さく頷いて、それから大事なことを言い忘れたというように、急いで「ひよこ組」と付け足した。
同乗者用のベンチに座った母親が「来年小学校に上がるんです」と、言葉を挟んだ。
「一年生かあ、お兄ちゃんとおんなじだ」
俺の言葉に郁ちゃんは「お兄ちゃんも一年生なの?」と不思議そうな顔をした。
「うん、救命士一年生。郁ちゃんはもうランドセル買ってもらったのかな」
「この前おじいちゃんに買ってもらった」
「そっかあ、良かったね。すぐに元気になるから、小学校でお友達たくさん作ろうね」
「お兄ちゃんはお友達たくさんできた?」
もともと人懐こい性格なのだろう。郁ちゃんは、俺と知り合い同士であるかのように、そしてここがどこか日常的な場所であるかのように会話をつないでくれた。
「う〜ん、たくさんはいないな。郁ちゃん、お友達になってくれる?」
「いいよ」
間髪を入れない即答の後、郁ちゃんは下の前歯が一本抜けた口を開けてニコッと笑った。
搬送先の病院は一階が診療所、二階が自宅で、いかにも小さな町の診療所といった佇まいだった。
郁ちゃんは診療室の奥で点滴を受けることになった。
江上さんが医者に引継ぎをしている間、俺は母親と一緒に郁ちゃんのそばに付き添った。
「お兄ちゃん」
郁ちゃんが羽織っていたジャンパーのポケットから何かを取り出して小さな拳をつき出した。
「あげる」
その手に握られていたのは、二つの小さな白い貝殻だった。
「綺麗だねえ。これ、郁ちゃんの宝物なんじゃないの?もらったら悪いよ」
「大丈夫だよ、また砂場で探すから。はい、タッチ」
郁ちゃんが手の平を俺に向けた。
俺は紅葉のような小さな手に右手を伸ばした。
二人の手が合わさって乾いた軽い音を立てた。
その瞬間いきなり目の前が真っ暗になった。
郁ちゃんも、ベッドも点滴も全て消え失せた。
そしてスクリーンに映し出されるように現れたのは、暗い道に立つ郁ちゃんの母親だった。腕に花柄の毛布を抱き、泣きじゃくっている。
毛布の間から白い棒のようなものが見えた。
それは、細い子供の腕だった。力なく、物のように垂れ下がっている。
次に映し出されたのはバッグバルブマスクだった。片手に収まるくらいの小さなマスクで、それは子供用だ。
はっとした瞬間奇妙な映像は消えた。
ピタリと合わさっていた俺と郁ちゃんの手は離れ、目の前には笑顔の郁ちゃんがいた。
古びた診療室も、衝立の向こうから聞こえる医者のしわがれた声も戻ってきた。
今のは一体なんだったんだろう…。
それはあまりに一瞬で、あまりに唐突で、それが何なのかを考える余裕などなかった。
隣の診察室から医者が出てきた。
「今流行りのお腹の風邪だと思うけどね。まあ念のため少し様子を見ましょう。すぐ帰れるよ」
大きな病院に搬送する必要はなく、ここで対応するということなので、救命士は帰署することになった。
俺は心底ほっとした。
「良かったね、郁ちゃん。お大事にね。貝殻ありがとう」
点滴につながれた郁ちゃんに手を振った。
「バイバイ、お兄ちゃん」
郁ちゃんは自由になる右手を上げてひらひらと振り返してくれた。
それから二十時間後のことだった。
午前三時、けたたましいサイレン音に仮寝の夢が破られた。
俺はすぐさま仮眠室から出て、ロッカールームにかけこみ、感染予防着を羽織った。
救急車の助手席に飛び乗ると、運転席に座った八木さんが、カーナビの住所を見て、「あれ」と呟いた。
「今日行ったとこだな。橘町二十三番地」
俺の心臓がドクンと大きく跳ねた。そこは郁ちゃんの家だった。
胸騒ぎが胸の中をかき回し始めた。
寝静まった街の空気を、サイレン音が切り裂いた。
その音がさらに胸騒ぎを煽り、じっとしてはいられないように追い立てられる。
救急車が住宅街に入ると、八木さんはスピードを落とした。
常夜灯以外、部屋に灯りがついている家は数える程しかなかったが、あちこちで家の灯りがつき始めた。
碁盤の上に縦横に引かれた罫(けい)の上をなぞるように、救急車は静かに進んでいった。
三つ目の角を回った時、ヘッドライトの光の先に人影が見えた。
強い光に照らされて闇の中に浮かび上がったのは、毛布を抱きしめて泣きじゃくる郁ちゃんのお母さんだった。
花柄の毛布の間から見えるのは郁ちゃんの腕だ。力なく、物のように垂れ下がっている。
俺の目の前の光景は、二十時間前に視た幻視そのままだった。
後部座席から江上さんが飛び降りてお母さんに駆け寄った。
「大丈夫ですよ、お母さん。落ち着いてください」
そう言って、郁ちゃんを抱きとると、お母さんと一緒に救急車に乗りこんだ。
郁ちゃんをストレッチャーに寝かせ、その顔を見た瞬間、江上さんの表情が変わった。
「花巻。後ろに来い」
江上さんの緊張した声に、全身がぞくりとそそけ立った。
本来、救急車の助手席に座る者には、路上にマイクで呼びかけるなど、安全管理の仕事がある。しかし、緊急時に限って後ろの救命士の処置を手伝うことになっている。
後部座席に移って郁ちゃんの顔を見ると、唇が紫色になっていた。チアノーゼだ。
ああ、まずい!恐怖が足元から這い上がってきた。
救急車はサイレンを鳴らして走り出した。
重篤な患者の対応が可能な高次医療機関に一秒でも早く搬送しなければならない危機的な状況だった。
「気道確保!」
江上さんの指示が飛ぶ。
俺は、すぐさまバッグバルブマスクを手に取った。
自分の手を見た時、心臓が跳ね上がった。子供用の小さなバッグバルブマスクが俺の片手に収まる様子は二十時間前に見た映像と同じだったのだ。
お母さんが郁ちゃんの足元で、泣き叫んだ。
「郁ちゃんお願い息をして!!目を開けて!!」
ベッドサイドモニターの心電図は電気ショックが必要な波形を描いていた。
江上さんの指示を受け、俺はAEDの子供用のパットを郁ちゃんの胸に貼り付けた。
ショックが打たれ、郁ちゃんの小さな体がピクンと痙攣した。
頑張れ!戻って来てくれ!
俺は心の中で叫び続けた。
だけど…とうとう心拍は戻らなかった。
病院に到着して間もなく、郁ちゃんは亡くなった。急性心筋炎だった。
この病気は、子供の突然死の有力な原因の一つになっているが、風邪症状が先行するため、ベテランの医師でも早期発見が難しい。
郁ちゃんのお母さんの悲痛な叫び声が廊下に響き渡った。
帰署する救急車の中は水を打ったように静かだった。
幼い子供の死はあまりに無念で、誰にとっても心がえぐられるように辛い。
だけど、俺は他の二人とは違うある想いにとらわれていた。
幼い頃から視てきた不思議な幻視。
その正体がまさか手を合わせた人の最期の姿だとは…。
穴だらけのパズルが突然完成されてなんの絵かわかったような覚醒感だった。
突然の覚醒は俺を底なしの苦悩へ突き落とした。
しかし俺は人の死が見えてしまうことに恐れおののいていたわけではなかった。
その恐怖を消し去るほど恐ろしいものが別にあったのだ。
それは子供の頃に見たある映像だった。
勤務が明けて家に帰り、食事もせずに自室に入った。
誰とも顔を合わせたくなかったのだ。
カーテンを引いてベッドに潜り込んだが、神経が尖りに尖って眠ることができなかった。
三十時間以上眠っていないのに、かすかな睡魔さえ感じられずにいた。
ふと窓際の机を見ると、色鮮やかなパンジーがコップに挿して置いてあった。
沙羅が庭に咲いていたのを摘んで飾ってくれたのだろう。
黒い机と椅子、黒いスチール製のベッドだけの殺風景な部屋の中で、そこだけに綺麗な色が付いていた。
浅い眠りさえ訪れないまま昼になり、ベッドの上でぼんやりと天井を見ていたら、ドアが細く開いた。
「起きてる?」
沙羅がやっと聞こえるくらいの声でささやいた。
「うん、起きてるよ」
沙羅は部屋の中に入ってきてカーテンを開けた。
「お昼にしよっか。二人だけだから、焼きそばでいい?」
「うん、何でもいいよ」
「じゃあ、準備するね」
部屋を出て行こうとした沙羅を呼び止めた。
「あのさ、覚えてる?初めて会った時、手の大きさを比べっこしたこと」
俺はゆるゆるとベッドに起き上がった。
沙羅は「覚えてるけど、なあに?」と首を傾げた。
「みことの手がすっごくちいちゃくて可愛かった。私の手のここまでしかなかったんだよ」
沙羅は、左手の第一関節を指差した。
「どれどれ?どのくらい成長したか、お姉ちゃんが見てあげよう」
沙羅は無邪気に俺の固く握り締めた拳を掴み、俺はそれを開かせまいと抗(あらが)った。
怖かったのだ。怖くてたまらなかった。あの時視えたものが、今日もまた視えるとしたら…。
「こら、照れるな」
沙羅は俺の指をつかんで拳を開かせた。そして自分の手を俺の右の手にピタリと合わせた。
暗闇が訪れ、映写機が回り出すように映像が映し出された。
2と7の数字の蝋燭が立てられたバースデーケーキ。プレートにはHappy birthday SARAの文字。床に落ちたマリーゴールドの花束。
そして…。
十八年前に見た映像が何ひとつ変わらず、目の前に映し出された。
七歳の俺にはわからなかった。棺の中でマリーゴールドに埋もれている綺麗な女性と、目の前にいる九歳の女の子が同じ人だということが。
そして、ケーキを飾る27の数字が何を意味するかも。
フィルムロールが終わり、映像は消えた。
手を離した沙羅がふふっと笑った。
「生意気。今は私の方が第一関節までしかない」
その時感じた想いを表すことができる言葉を、俺は知らない。
あの日から二度目の夏を迎えた。
しろの散歩の途中、小学校近くの公園の前を通りがかると、色とりどりのランドセルを背負った子供たちが五六人競い合うように走り出てきた。
「そうか、もう二学期が始まったのか」
水筒を振り回す子、両手を広げてジグザグに走る子、シャツやハーフパンツから出ている肌は、皆綺麗な小麦色だ。
その子供たちの中に、いるはずのない顔を無意識に探していた。
一度も真新しいランドセルを背負って小学校に行くことができなかった郁ちゃんの、あまりに短い人生を、この先俺は何度も思い返し、その死を惜しみ続けるのだろう。
残暑は厳しく、夕暮れ時だというのに、空気はまだ熱を持って膨らんでいる。
公園にはもう人っ子一人いない。
その静けさに惹かれて公園に入った。
残照を浴びたブランコが禍々(まがまが)しいほどの朱色に染まっている。
砂場とブランコが二基あるだけの小さな公園は、子供の声がしなくなると、妙に寂しい。
ベンチに座り、電線に区切られていない夕焼け空を見上げた。
長い飛行機雲が縦に二本、雲を突き破りそうな勢いで伸びているのを見ていたら、なぜか砂場に入って貝殻を見つけたくなった。
ブランコの囲いにしろをつなぎ、隣にある砂場に足を踏み入れた。
砂は、昼間の日差しの名残を蓄(たくわ)えて生暖かい。
「何やってんだ、みこと」
砂をかき回している俺の頭上から蓮兄の声が落ちてきた。
顔を上げると、蓮兄と藍が怪訝そうな顔で見降ろしている。
「砂遊びかよ」
「え、いやちょっと貝殻を…」
俺は照れ笑いをしながら両手についた砂を払い落とし、砂場の木枠に座った。
「どうしたの、二人揃って」
俺が訊くと、蓮兄は「駅降りたら商店街の入り口でばったり会ってよ」と、顎先を藍に向けた。
「で、お前はここで何やってる?」
「ちょっと思い出したことがあって…」
燃えるように真っ赤だった空が少し紫色を足し始めたせいか、無性に人恋しさがつのってきた。
そして郁ちゃんのことを二人に聞いて欲しくなった。
「一昨年なんだけど…救急車で六歳の女の子を搬送したんだ」
蓮兄が、砂場の木枠に腰をおろした。
藍はしろの頭を撫でながらブランコに座り、手に提げていたビニール袋を足元に置いた。商店街の名前が入ったビニール袋からネギが突き出ている。
「その子が貝殻をくれて」
自分が発したその一言が誘い水となった。
その子と友達になったこと、夜中にまた救急要請があったこと、そして二十時間後に死んでしまったこと。
記憶の中に残る郁ちゃんとの出会いと別れを、俺は思い出すままに、時には言い澱みながら話した。
藍はパピコをかじり、蓮兄はタバコを吸いながら、黙って聞いてくれた。
今まで、家族に仕事の内容を詳しく話すことはほとんどしなかった。特に傷病者の生死に関しては一切触れていない。
初めてこんなことを話したのは、答えが欲しいからではなかった。
ただ聞いて欲しかったのだ。
「早すぎるって言葉じゃ足りないくらい早すぎる死で、今でも何か…納得できてない」
思いのたけを全部吐き出すと、沈黙が訪れて聞こえるのはブランコを揺らす音だけになった。
蓮兄は指に挟んだタバコの火をどこか悲しげに見つめた。
「今日俺はよ、昔の仲間にガキが生まれたっつーから、見に行ってきたんだ」
蓮兄がいつもの甚平じゃないことに今気づいた。珍しくジャケットを羽織ってきちんとした格好をしている。
「なんか色々思い出しちまってよ」
蓮兄は深く吸い込んだ煙をゆっくり吐いた。いつもは眼光鋭い目が、焦点がぼやけて、どこを見ているのかわからない。
「昔、はしゃいでた頃によぉ」
「族時代だね」
藍がすかさず一言挟んだ。
「まだ16、7の頃、仲間が死んだんだよ。突然事故で」
それは初めて聞く話だった。
連兄は虚空を見つめながら、ポツリポツリと語り始めた。
「ガタイのいいやつでよ。小動物でも射殺しそうな面構えのくせに、子供が大好きなんだよ。あいつ生きてたら、デレデレの親父になっただろうってな」
そう言うと寂しげに笑った。
人を想う気持ちが人一倍強い蓮兄にとって、仲間の死はどれほど辛かっただろう。
事故から十数年もの長い間一度もこのことを口に出さなかったのは、それだけ悲しみが深かったのだ。
十代のままの仲間の年を数えながら、「もし、生きていたら今頃」と、事あるごとに思い起こしていたのかもしれない。
蓮兄は砂を掴み、目の高さから砂時計のように少しずつ落とした。
「早すぎるって思うのは、死ぬはずないって、無意味に信じ込んでいるからだ。人は死ぬんだよ。早いも遅いもなく、本当に、いきなり」
蓮兄が発した言葉は、なんの誇張も歪曲も飾りもないむき出しの真実だった。それが本能的な直感なのか、それとも経験から導き出されたものなのかはわからない。
突きつけられた真実が胸に痛かった。
所在なさそうにしていた藍に「どう思う?」と話を振ってみた。
「興味ない」
藍はブランコを揺らしながら、空になったパピコをプッと吹き飛ばした。
「俺にとっては、学校とかの方がリアルな問題」
藍が色々問題を抱えていそうなことは、蓮兄も沙羅も俺も口には出さないが薄々感じていた。一緒につるむ友達もいないし、時々学校をサボっていることも知っている。
十七歳の藍にとって、人生における優先順位は、目の前にある現在と近い未来の方がずっと上のはずだ。
その時俺は、ハッとした。
愛する人を喪うのは、俺だけじゃない。
来年八月二十三日、この二人は妹を、姉を喪うのだ。
人は死ぬ。早いも遅いもなく、いきなり。それは真実だ。
だけど、俺だけはその日がいつかを知っている。いきなりじゃないのだ。
いきなり沙羅を失ったら、蓮兄と藍はどれほど後悔や心残りに苦しむだろう。
沙羅の死を自分だけのものにして、血を分けた兄弟に悔いが残らないための時間を与えないのは正しいことなのだろうか。
傍観している自分がいきなり怖くなった。
暮れなずんでいた空からやっと濃淡の闇が落ちてきた。
思い惑いながら公園灯を頼りに足元の砂をすくったら、二、三ミリほどの淡いオレンジ色の貝殻を見つけた。
「あ、貝殻あった」
俺が貝殻を灯にかざすと、蓮兄はタバコを口にくわえたまま、両手で砂をかき回し始めた。
「俺も見つけたぞ」
法螺貝に似た小さな貝を手の平に乗せて自慢げに見せてきた。
藍も加わって砂場にしゃがみこみ、すぐに「あった」と1センチほどの白い貝殻を指でつまんだ。
「これ、宝貝?」
「俺のが一番でかいぞ」
蓮兄が負けじと、張り合ってくる。
目を凝らして見ないとその存在さえわからない小さな命の証が、どこかの海から運ばれて俺たち兄弟を楽しく競わせる。
無邪気な遊びが、思い出したくないことをほんの束の間遠ざけてくれた。
いつの間にかすっかり日が暮れて、宵の明星が月の近くで光っている。
「一番星だ」
俺が西の空を指差すと、蓮兄と藍も空を見上げた。
夜の始まりを知らせる金星が、日没の空にひときわ大きく輝いている。
星の瞬きを見ていたら、ふとある思いが頭に浮かんできた。
もしいきなり沙羅が死んでしまったら、連兄と藍はきっと後悔と心残りに苦しむだろう。
じゃあ、俺は…?俺はどうだろう。
前もって知っていたとしても、できる限りのことをしたとしても、同じように苦しむに違いない。
愛する人の死は、愛するがゆえに悔いは残る。
後悔と心残りのない「愛する人の死」というものは、きっとないのだ。
「何してるの?」
声に振り向くと、いつの間にか沙羅が後ろに立っていた。
画材を買いに出た帰りなのだろう、「佐野文具店」と書かれた紙袋を下げている。
大の男三人がムキになって砂をかき回している姿がよほどおかしかったと見えて、クスクス笑いが止まらない。
「良い子はお家に帰る時間だよ」
蓮兄は照れ臭そうに立ち上がって、手に持っていた貝殻を俺に寄越した。
「ほれ、やる」
藍も俺に貝殻を渡すと、ビニール袋を持って歩き出した。
俺はしろのリードをブランコの囲いからはずしながら、沙羅に声をかけた。
「一番星が見えるよ」
「え?どこ?あ、ほんとだ。すっごく光ってるね」
空を見上げた沙羅のポニーテールが軽やかに揺れた。
山の稜線に消え入りそうな落陽が、沙羅を金色の光で縁取っている。
「流れ星、流れないかなあ。願い事するのに…」
「姉さん願い事あるの?」
「あるよ、いっぱい」
どんな願い事があるのか、一つ残らず知りたかった。
俺が叶えてあげられることがあれば、どんなことをしても叶えてあげたい。
だけど、バースデーケーキの蝋燭を吹き消す時、しろの白内障が治ることしか願わなかった沙羅のことだから、周りの人間に関することばかりかもしれない。
「みことは何お願いする?」
沙羅が訊いたが、俺は笑って何も答えず、しろのリードを引いて歩き出した。
二年前のあの日、沙羅の余命を知った瞬間から、俺の願い事はたったひとつしかない。
しろの歩みがひどくゆっくりなので、俺は三人から少し遅れてついて行く。
星空の下、藍が持ったビニール袋のネギが揺れている。
沙羅が藍の肩に手を回して笑いかけた。
蓮兄が吐き出した煙が闇の中に吸い込まれて行く。
家までの道のりを照らすのは、月と星と、家々の窓から漏れる灯りだけだ。
兄弟で競って貝殻を探した砂場、俺たちを見つけた沙羅の笑い声、四人揃って家に向かう道。小さな小さな貝殻は今日の幸せな時間を物語る宝物になった。
「流れ星、いないねえ」
沙羅が空を仰いで呟いた。
降るように流れ星が墜ちて欲しいと心から願った。
だけど家に着くまでに、流れ星が短い光の尾を引いて天空を横切ることはなかった。
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