別れ

第十章

 母の葬儀の日はここ数日の猛暑がおさまって、秋の訪れを告げるように爽やかだった。
 秋臣は火葬場の火葬炉の前で最後の時を待っていた。涙は出てこない。悲しみで満たされているのに、母が逝ってしまってから、涙は一滴も出てこないのだ。
 棺の覗き窓を開けてため息をついた。もともと美しい人だったが、この世の憂いも苦しみも脱ぎ捨てた顔は平和そのもので、ひっそりと野に咲く百合のように清らかだ。
 白手袋の職員が喪服の人々を見回して「それでは、よろしゅうございますでしょうか」と頭を下げた。
 秋臣はのぞき窓に顔を寄せて母を見つめた。これが本当の最後なのだ。秋臣は目の中にしっかりと焼き付けた。
「母さん……またね」
 それを合図に火葬炉の口の中に棺が納められ、鉄の扉が閉まった。
「二時間ほどかかりますので、あちらでお待ちください」
 職員の白手袋の先には控え室があり、黒衣の人々は誰もが重い足取りでそこに移動した。
 近所の人、病院の看護師、商店街の寿司店やケーキ屋の主人、一時通っていたアートフラワー教室の受講者仲間。この時初めて母がどんなにたくさんの人に愛されていたかを目の当たりにして、秋臣は嬉しかった。しかしこの中に親しい人は一人もいない。犬養をはじめ会社の人間に対しては葬儀への参列を固く辞退しているのだ。
 どうしてもお別れがしたいと言った犬養には「葬儀が終わってから、家に来て線香をあげて欲しい」と伝えてある。
 秋臣は控え室の隅に座って昨日のことを思い出していた。葬儀社の職員数人が自宅で執(と)り行われる通夜の準備をしている間、秋臣は叶人と二階の部屋にいた。
 叶人は通夜にも葬儀にも参列できない。事情を知っている親戚や元妻との共通の知り合いが焼香にやって来たら嘘がバレてしまうからだ。
 秋臣はベッドに座っている叶人に白い封筒を差し出した。それは息子を演じてくれた謝礼で、最初の約束の倍の金額を入れてある。
その厚みに戸惑いの表情を見せながら、叶人は封筒の中身をチラとのぞいて「多過ぎる」と封筒を突き返した。
「受け取って欲しい。君のおかげで、母さんは幸せな時間を過ごすことができたんだ。僕も最後に親孝行できたし。本当にありがとう」
受け取ることを拒んでいる叶人の手をつかんで秋臣は封筒を押し付けた。
頭の中にこれまでの日々が次々に現れ、現れては消えていった。叶人が貼ってくれた襖の花、毎朝一緒にテーブルを囲んだ朝食、夏祭りで着崩れた叶人の浴衣、射的で取ったクマ、雷の夜……。
 どこまでが嘘で、どこまでが真実だったのか、秋臣にはもうその境目が見えなくなっている。しかし真実であれ嘘であれ、それはもう何の意味もないのだ。
 いつの間にか晩夏の入り日は西に傾き始め、空が緋色に染まっていた。
ああ、あの日もこんな夕焼け空だった。秋臣の脳裏に、智夏と過ごした最後の一日が鮮やかに立ち現れた。ハナミズキの葉もニシキギの葉も、空の色を写し取ったかのように、赤々と輝いていた。
 これからは、美しい夕焼けを仰ぎ見るたびに、智夏と叶人との別れを思い出すのだろうか…。
 叶人が窓の外に目をやって「『天から赤い絵の具を撒き散らしたかのような夕焼け』だね」とつぶやいた。
 秋臣はそれが若き日に自分が書いた小説の一節だと気づいた。
「やめてくれよ。あんなのを覚えているなんて」
 恥ずかしさに目を合わせることができず、ふっと顔をそむけた。
「また書きなよ。作家を目指せばいいのに。サラリーマンやりながら」
「まさか。小説なんてとっくの昔に忘れた遠い夢だ。恥ずかしいから君も忘れてくれ」
 叶人は濁りのない瞳で秋臣をじっと見つめた。
「忘れない」
 言葉にできない思いを託すかのような声音に、秋臣はたじろいだ。どこからか鈴虫の鳴き声が聞こえてきた。
 叶人はゆっくり立ち上がり、ドアの前まで行って振り返った。
「星の名前を教えてくれたのはあんたが初めてだった」
 寂しげな頬笑みが顔に浮かび、叶人は静かに部屋を出て行った。
 何もかも全てがあの瞬間に終わってしまったのだ。叶人の悲しげな瞳の色だけが刻印を打たれたように胸に残っている。
 母の骨が焼かれるのを待つ秋臣の脳裏に、振り払っても振り払っても叶人の瞳が浮かんで来て消えない。
「叶人……」
 思わず口をついて出た声に、近くのソファーに座っていた喪服の女性が同情を込めた顔で視線を送ってきた。ここにいる会葬者は皆、秋臣が離婚して、妻も子供もアメリカにいることを知っているはずだ。そして葬儀に参列してくれる家族が一人もいない独身男を哀れんでくれているのだろう。
「優しい方でしたね」
 一人がしみじみと言うと、その隣の老女が「いつも笑顔で素敵な方でしたね」とため息をつき、その真向かいにいる介護士らしき女性が「息子さんのことを自慢になさっていましたよ」と涙を拭った。
 誰もが一言二言声をかけてくれるが、それ以上話は進まない。ここには誰一人として想い出を共有できる人はいないのだ。
 秋臣はそっと控え室を出た。一人でいる孤独は何とか耐えられても、他者がそばにいる孤独はとても耐えられなかった。
 山の麓の雑木林を切り開いて建てられた真新しい火葬場は、大理石の床と、天井から床までのガラスと、白い壁に囲まれた無機質な建物で、舗装されていない砂利道に会葬者の車やタクシー、葬儀社の送迎バスが無造作に止めてある。見渡す限り田んぼも家屋も見えず、命を感じられるものが何もない。人間の死と言う生々しさが入りこむ隙間などどこにもなかった。
 待合室に引き返そうとした秋臣を雑木林の中から聞こえてくる鳥の鳴き声が引き止めた。
 秋臣はその声に耳を傾けた。すると、どこからか鳥の鳴き声に混じって人声らしきものが聞こえてくる。それが妙に気になって建物の外壁伝いに歩いて行った。
 建物の裏手まで来たところで目に飛び込んできたのは、室外機の前にしゃがみこんでいる叶人の姿だった。上下黒の服を着た肩が小刻みに震えている。まさか叶人がここに来ているとは夢にも思わなかった秋臣は思わず声が漏れそうになり、口元を手で押さえた。
「おばあちゃん……」
 血を吐くような声が静寂を切り裂いた。
「おばあちゃん、おばあちゃん、おばあちゃん」 
幼子のように泣きじゃくる声が無数の針になって秋臣の胸に突き刺さった。
「おばあちゃん、ごめん。ごめんね」
 張り替えた襖の美しさに目を見張った母より、もっと嬉しそうだった叶人。留守番している母を心配して、車が止まるのも待てずに雨の中に飛び出した叶人。
「たくさん食べて長生きしてね」と、初物の梨を母の前においた叶人。
 全てが真実だった。僕たちは本当の家族だったのだ。
 秋臣はこみ上げる想いに抗(あらが)う術(すべ)もなく、悄然と立ち尽くした。
 叶人、ごめん……。あんなにも愛した「おばあちゃん」に最後の別れをさせてやれなくて、骨を拾うこともさせてあげられなくて、本当にごめん。
できることなら一緒に泣きたかった。母を喪った悲しみを共有できるのは、この世で叶人しかいないのに。
 思わず一歩踏み出した足元の砂利が音を立て、叶人がビクッと顔を上げた。
「遠坂さん……」
 視線がからみ合い、二人の間に静寂が流れた。秋臣はかける言葉を探したが、叶人は後ずさりして走り去ってしまった。
 秋臣は誰かに足首をつかまれたかのようにその場を動けなかった。
「追ってはいけない」
 理性の声が心を掴んで放さなかった。だんだん小さくなっていく足音を聞きながら、秋臣は悲しみとも虚無感とも知れぬ想いにくじけ折れた。
 少し離れたところで車のドアが閉まる音がしたかと思うと、一台のタクシーが砂利を跳ね飛ばしながら坂道を下りていった。後部座席に座っていたのは確かに叶人だったが、彼は一度も秋臣の方を見なかった。
 秋臣は体のどこかがえぐり取られるように痛かった。しかし痛む部位がどこなのか特定できない。ただ痛いのだ。
 夏の終わりをこれほどまで強く感じたことはなかった。もうじき叶人のいない秋が来て、叶人のいない冬が来て、また春が巡ってくる。けれど、いつものように桜が咲いても叶人はいない。世界は何も変わらず時を刻み、秋臣を置き去りにしていく。命ある限り、最期の息を吐き終わるまでの長い年月を、思い出を数えながら生きていくのだ。
 三人で暮らしたひと月余りの日々が自分の人生で一番幸せだった。これからは、あの幸せな想い出を少しずつ薄めて、渇いた喉に流し込みながら生きて行くのだ。
 だけど、決して虚しくはない。あの真実の日々は確かに存在したのだから……。
「ありがとう叶人。さよなら……」
 どんなに耳をすませてももう叶人を乗せたタクシーの音は聞こえない。梢を飛び交う鳥の声だけが立ちすくむ秋臣の頭上から降り落ちてくるだけだった。


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