見出し画像

マザーテレサの想い出

 それは、路上で死にかけている人を手厚く看病し、最期の瞬間に寄り添う修道女のドキュメンタリー番組だった。場所はインド。修道女が行き倒れの人を連れて行く施設は「死を待つ人の家」だ。私は深く感動してその修道女の名前を心に刻んだ。その修道女の名前はマザーテレサ。

 それから時が流れたある日、友人が電話してきてマザーテレサが福岡にいらっしゃるという素晴らしいニュースを教えてくれた。その時の嬉しさと興奮ったら!一瞬でも、遠くからでもお姿を見たいと熱望した私は、新聞社や修道院に電話をかけて、博多駅に到着なさる時間を聞き出した。
その時私は初めての子供を妊娠中だった。
「一緒にマザーテレサに会いに行こうね」
私はとても幸せな気持ちでお腹の中の命に語りかけた。

 そして当日、私は博多駅のホームに立った。たくさんの人が待ち構えていて、新聞社のカメラマンなども待機していた。列車が到着する時刻が迫っていた。どの車両にマザーが乗っておられるかを知っているシスター達が車両の乗降口に立ち、他の人達は皆その後ろに並んだ。どんくさい上に身重の私は人波に押されて一番後ろに追いやられた。一分前になると人々がそわそわし出し、私も世界で一番会いたい人に会える喜びで胸がドキドキした。
 とうとう列車が姿を現し、風を巻き上げてプラットホームに滑り込んできた。興奮のあまり、胸の鼓動がこめかみまで伝わって頭がクラクラした。
列車が完全に止まり、皆マザーが降りていらっしゃるはずのドアを見つめた。
 ところが、ところがである!ふと目の前の列車の窓に目を移すと、そこにマザーテレサがお立ちになってこちらを見ておられたのだ!他の人たちは皆ドアを見つめ、私だけが、ドアからだいぶ離れた窓に立って私を見ていらっしゃるマザーを見つめていた。
「マザー!マザー!」
 窓の前で泣きながら手を振ると、マザーはあの優しい優しい優しい笑顔で、私に手を振ってくださった。一番後ろにいたおかげで素晴らしい幸運に恵まれたのだ。マザーがドアから出ていらっしゃると、人々がわっと取り囲んで、お姿があまり見えなくなってしまった。ところが、ところがである。またまたどんくささゆえに人に押されてよろよろしているうちに、ハッと気づくと、マザーテレサの真横にいたのだ!いったいなぜそんなことになったのかわからない。私は夢中でマザーに声をかけて手を差し出した。
すると、マザーは私の手を握って下さったのだ!その手は「働き続けた」手だった。かたく、強く、そして温かい手……。あの手の温もりと感触は、今でも心と手がはっきりと覚えている。
 私はマザーがお乗りになった車を見送りながら「もしお腹の子が女の子だったら、テレサと名付けたい!」と強く願った。
 そして夫にその願いを伝えた。夫はそういうことに全く興味のない人だったので「好きにすればいいやん」で終わりだったが、人と会った時などに「もし女の子が生まれたら、名前はテレサに決めてるんだ」とちょっと得意げに言っていた。
 陣痛が始まった時、私は額に入れたマザーテレサの写真を抱いて分娩室に入った。そして分娩台でマザーのお顔を見ながら出産したのだ。初産ということもあって、大変な難産だったが、マザーが見守ってくださった。
「女の子ですよ」
 看護師さんの声が耳に届いた。テレサちゃんがとうとう私の元に来てくれたのだ!
 しかし、長女にテレサと名付ける夢はたった一日で諦めることになってしまった。出産の翌日、夫の親戚の人が病院に来て、ものすごく暗い顔で言った。

「名前をテレサとつけようとしてるそうだけど、やめてほしい」

夫の父親、つまり舅が「外国の女の名前をつけるなんてとんでもない」と反対しているということだった。
私は舅に逆らって自分の希望を押し通す気持ちはなかったから「わかりました」と伝えた。だけど、すごく悲しかった。
 親戚の人が帰った後、夫に電話をかけて、その話を伝えた。すると夫は開口一番、こう言い放ったのだ。
「俺も、最初っからテレサっていう名前嫌やったんよね」
 ハネムーンからその日までの数年間、夫に対して感じていたジクジクした想いの正体がはっきりと見えてしまった。その一言で、それまで見ないようにしてきたものが噴き出して来たのだ。言葉を尽くせば、時間が経てば、努力すれば……きっとうまくいく、理解しあえる、幸せになれるという希望はその瞬間に断たれた。もはや名前のことはどうでもいいとさえ思った。一番悲しいのは、そのことじゃないということを、夫は針の先ほども理解できなかった。一緒に残念がってくれたら、慰めの言葉の一つでもかけてくれたら、それだけでよかったのに…。
 大切な人の大切な人や想いを大切にする。それは愛の基本だ。相手の大切な人や想いを大切にしないと、結婚に限らず、人と人との関係は壊れてしまう。
 出産したばかりで心がピンと張り詰めていたからなのか、あの命名事件のことは今でも心の傷として残っている。
 ちょっと話はそれるかもしれないけれど、妊娠中や出産直後は、女性にとって心身共にきつい時なので、夫たるもの絶対に「優しい良い子」でいるべきだと思う。妊娠中や出産直後に浮気するなんて、打ち首とまでは言わないが、市中引き回しにしてやりたいくらいの悪行だ。もちろん結婚何十年の夫婦であっても浮気は御法度だが、特にこのあたりは絶対にダメ!一生の傷になるし、許すのは難しい。というか妻の妊娠中に浮気なんかした夫には「許してもらえると思うな」と言いたい。もし運良く許してもらえたら、生涯感謝の気持ちを持って妻に尽くせと、心から思う。

 あれ?マザーテレサの話から、なんで浮気夫の話になってしまったのだ。本当にスミマセン。
お口直しも兼ねて、最後に私が大好きなマザーテレサの言葉をここに書きます。

思考に気をつけなさい。それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい。それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい。それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい。それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい。それはいつか運命になるから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?