美貌の青年、息子になる

 三日ぶりの梅雨晴れの一日が終わろうとしていた。
 秋臣はオフィスの大きなガラス窓から下界を見下ろした。高層ビルの二十三階から眺める景色は、いつもと何も変わらない。
「失礼します!」
 元気よく入ってきたのは入社二年目の犬養日向(いぬかいひなた)だった。
「先輩、本当にありがとうございました!」
 犬養はニッと笑って体を真半分に折った。彼が秋臣を「部長」ではなく「先輩」と呼ぶのは二人きりの時だけだ。うまく使い分けているなぁと秋臣はいつも感心してしまう。営業部の部下で大学の後輩でもある犬養は入社当時から秋臣に特別に懐いていた。こうも懐かれると可愛く思わずにいられないが、今回大事な企画に新人の犬養を抜擢したのは贔屓(ひいき)ではない。 広告営業マンとしてはまだひよっこの犬養だが、純粋で誠実な人柄が自社にもクライアントにも利益をもたらすだろうと思ったからだった。
「プレゼン大成功だったな」
「はい!先輩のアドバイスのおかげです!」
 本人も大きな手応えがあったようで、心の高揚が身体中にみなぎっている。
 今回犬養がプレゼンしたクライアントの葵堂(あおいどう)は十年前秋臣が新規契約を取った菓子屋で、この会社はアレルギーや糖尿病など色々な疾患に配慮した菓子やパンに力を入れている。
「頑張ってくれよ。このスイーツで救われる子供がきっと日本中にいると思う」
 犬養は意気込みが感じられる真剣な顔で深くうなずいた。
「先輩が敷いてくれたレールから外れないように頑張ります!何と言っても葵堂は遠坂秋臣伝説の一つですから!」
「なんだそれ」
「小規模チェーンの葵堂があそこまでになったのはひとえに先輩の先見の明と情熱だって、新入社員に代々語り継がれてますよ。俺も入社してすぐに聞きました」
「尾ひれがついて大げさな話になってるだけだよ」
秋臣は首を横に振って苦笑いした。
「俺、先輩に一歩でも近づけるよう頑張ります。先輩は僕の理想の人ですから」
「持ち上げても何も出ないぞ」
「もう、何言ってるんですか!仕事はできるし部下に優しいし、イケメンだし、先輩に憧れてる女子社員がどんだけいると思ってるんですか」 
 秋臣は大きく首を振って苦笑いを浮かべた。もし、犬養や他の社員が本当の自分を知ったらどれほど幻滅するだろう。
「僕なんかじゃなく、君ならもっと高みを目指せるよ。君が努力家でセンスもいいから今回だってクライアントの信頼を得られたんだ」
 犬養は「とんでもないです」と言いながら両手を大きく振った。
「俺なんかまだまだダメです。先輩とチームスタッフの力のおかげだってわかってます」
「そういうところが君の長所だよ。全てのことについて言えるんだけど、最後は人格だ。この人と仕事がしたいと思えるかどうかにかかってる。君の情熱と誠実さは最大の武器だと思うよ」
 犬養の頬にみるみる朱の色が上がってきた。
「ありがとうございます! 先輩、今日金曜日だし、飲みに行きませんか? お礼におごります!」
「ありがとう。だけど当分無理なんだ。母が体調崩したんで、しばらく松風町の実家に戻ることにしたんだよ。通勤に二時間近くかかるから仕事終わったらすぐ家に帰らないと」
「松風町!俺子供の頃海水浴に連れてってもらいました。いつか休みの日に遊びに行ってもいいですか?」
「もちろんいいよ」
「やったー!」
 両手を高く上げて笑う犬養はまるで小学生のようだ。裕福な家庭で愛情をたくさん受けて育った彼は底なしに明るくまっすぐで、眩しいようだった。

 秋臣は久しぶりに定時にオフィスを出た。
駐車場に停めた車内は煮えるように暑く、昼間とさして変わらない陽射しが運転席を直撃した。
 ナビに従ってしばらく走り、大通りから脇道に入った路地裏は車一台がやっと通れる狭さだった。
「彼のアパートは、確かこのあたりだったはず」
 秋臣は車を停めてあたりを見渡した。古い木造の平屋や何を商っているのかわからない店、錆びついたトタン屋根の倉庫が無秩序に立ち並んでいる。
 視界に入るものの中で唯一美しいものは目印の百日紅(さるすべり)の樹だけだ。
 二階の窓を悠々と越すこの高木は、鮮やかな紅色の花で身を飾り、お世辞にも綺麗とは言えない煤(すす)けた一帯を妙に風情ある景色に変えていた。
 一度来ただけの古びた木造モルタルの凪のアパートは、本当にここに人が住んでいるのかと疑うほどボロボロだった。夜中に泥酔状態で担ぎ込まれ、朝方ここを出る時は物思いに沈む心でろくに見ていなかったので、改めてちゃんと観察したのは今が初めてだ。一階二階合わせて六つ部屋があるが、どの部屋の軒先にも洗濯物が干してないし、カーテンもかかっていない。全く人の気配がしなかった。
 二階の凪の部屋のドアをノックすると返事はなく、いきなりドアが開いて本人が出て来た。その姿を見て秋臣は思わず息を飲んだ。
 極道と見間違った青年は、爽やかな高校生に変身していた。金髪だった髪は黒く染められ、高校生らしいスッキリしたヘアスタイルになっている。着ている白いTシャツはおろしたてのようで、履いているデニムも真新しい。
 何よりも秋臣の声を奪ったのは、その清らかな美しさだった。黒髪という額縁に納(おさ)まった顔はまさに「神をも恐れぬ」美貌だ。手を加えていない眉はきりりとした流線型を描き、長いまつ毛に縁取られた黒目がちの瞳は名匠が魂を込めて彫ったかのように美しい。初対面の時、これほどの美貌にきづかなかったのは、トウモロコシの毛のような金色の髪や安っぽいアロハシャツの極彩色が彼の美しさを半減させていたせいかもしれない。
 秋臣は動揺を見せまいと「荷物それだけ?」とさりげなく訊いて、凪が肩にかけたトートバッグを取り上げた。
「スマホと財布と着替えと……あと台本くらいしか持ってきてないけど、他になんかいる?」
「いや、大丈夫。参考書とか文房具とか、高校生らしい洋服はこっちで用意してあるから」
 車に乗り込んだが秋臣は話の糸口を見つけることができずにいた。凪と出逢ってまだ十日、会うのは二度目だ。
 最初に沈黙を破ったのは凪だった。
「あんた金持ちなの?」
「え? まあ、生活に困ってはいないけど。どうして?」
 助手席のドアを叩きながら凪は車を見回した。確かにレクサスRXは金持ちの証と言えるだろう。
 凪はTシャツの裾を胸のあたりまでたくし上げてパタパタと風を取り込んだ。
「今日、めっちゃ暑くない?」
「昨日梅雨明けしたからね」
 エアコンの風量を上げながら、むき出しになった若い肌を目の隅にとらえた。元々は色白らしく、陽に焼けていない胸や腹はシミひとつない白桃色で、秋臣は目のやり場に困った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?