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令和の時代の女性を書く?


正月三が日、「note」をどう使うのがよいのか、何を書くべきなのか、比較的ゆっくりと時間を過ごしながらじりじり考えていた。

note公式は「名文や超大作を仕上げようとして手が止まってしまうくらいなら、駄文でも短文でも悪ふざけでも、とにかく気軽に投稿しましょう」と推奨するけれど、私は「書くために書く」ことはしたくない

かといって、更新があまりにまばらでは読者が増えないだろうし、それはモチベーションにも直結するだろうから、やはり継続的に何らかのことを書く必要性はあるとも思う。

目に留まったツイートがある。

私は「普通だから書くことがない」と悩んでいるわけではないのだが、結局のところ「自分(の思考や自分を取り巻くもの)について書くこと」がひとまず踏み出すべき方向性として正しそうだ、との考えを抱くに至った。

「こんなことがありました」「本を読んで、あるいは映画を見てこう思いました」「世間で話題のこれこれについてこう思います」といった、出来事を主体とした日記何らかの対象を前提とした客観的・批評的な表明でなく、内向きの視線で個人的・主観的な思念を書くことを、まずは大きな方針としてみたい。

ニーズがどれほどあるのかはさておき、ライターという職にある私の思考の軌跡を文章化しようと思うのだ。

のちに作品が発表されるとき、「note」の記事と照らし合わせることで、作品は唐突に現れた孤島になるのではなく、私という多少なり個性のあるライターと地続きの存在になるはずだ。それがはたしていいことなのかわからないが、いいことであるような気がするのでやってみる。


取材テーマを何にするか

「世界を広げる」2020年にしようと意気込む私は、具体的な取材テーマについて考えを巡らせている。

前回の記事で「さまざまな人に会う」「会う人の数、話を聞く人の数を増やしたい」と記したが、さすがにその思いだけではアクションにつながらない。方針が要る。

ヒントはないかと、1月3日未明、ネットの記事を流し見ていた。

しばらくのちに答えらしきものに行き着くのだが、端緒はたぶん、NumberWebの記事だったと思う。

いいね!の数を根拠とするSNSランキングで1位になっていたのが、伊達公子さんの記事だった。モノローグ形式で、女性のライターが構成を担っていた。そのとき、「女性の記事を書いているのは女性が多いな」と、ふと思った。

そんなことを漠然と感じながら、導かれるように「dマガジン」を開き、普段はまったく見ない女性誌のページを繰る。印象を端的に言葉にすれば、こうなる。

女性によって、女性のためにつくられた世界。

取材する側とされる側が共通の感覚や価値観を持っていたほうが話はスムーズに展開されるし、女性読者に共感される記事を目指すために女性が筆を執るのも自然なことだ。だから女性誌が「女性によって、女性のためにつくられた世界」であるのは極めて当たり前のことなのだが、そのとき私は何かを、もっとはっきり書くなら「可能性」を、そこに見いだしたような気持ちになった。

そして、思う。

「女性」を取材のテーマとするのはどうだろう?


「男ばかりだね」

2019年、ある会社の周年誌を制作する仕事をした。その会社と付き合いの深い会社の経営者に話を聞いて、それらのインタビュー記事を中心にして周年誌を構成した。

編集過程の打ち合わせではしばしば、「男ばかりだね」という話が出た。取材対象者として名前が挙がるのはことごとく男性で、そのことに(日常の仕事で密に関わる人たちのほぼすべてが男性であることに)周年誌を企画した会社の経営者は気づき、驚いていた。

翻って、自分の過去の仕事について考えてみても、取材してきた人々は大半が男性だ。もちろん女性もいるが(それこそ伊達公子さんにインタビューしたこともある)、その数は男性に比べて圧倒的に少ない。

また、これは印象論に過ぎないけれど、世に出ているノンフィクション作品もまた、男性を取材対象としたもののほうがかなり多いのではないだろうか。著者を男性に限れば、その偏りはさらに大きくなるような気がする。


「女の一生」を書き連ねた先に

「日本社会が」云々と、あまり大きな話をしたくはないが、少なくとも日本で女性の社会進出がいまだ大きく後れをとっているのは事実であるだろうし、これから(スピードはさておき)是正されていくのだろうと思う。

令和の時代の女性を書く。

それは、私が自由課題に取り組みはじめるうえでのひとつの方向性として、悪くないように思えてきた。有名無名を問わず、世代を問わず、生まれてから現在までどんな人生を歩んできたのか。「女の一生」を文章化し、連ねてみたとき、何か見えてくるものがあるのではないか……。

その着想からいま24時間ほどが経過して、私は過去に接点を持った女性の中から数人、あらためて話を聞いてみたい人物に思い当たっている。

とはいえ、彼女たちが取材に応じてくれるかはわからないし、また24時間後には「このテーマじゃダメだ」と方針転換しているかもしれない。そもそもジェンダー論を語れる知識もない。「『令和の女性』を取材テーマとする男性ライター」なる道は、見ようによってはひどく凡庸な気もする。

まだしばらくは、頭の片隅に置きながら、アイディアを熟成させよう。深くうなずけるときが来たら、動きだそう


あくまで、現時点での私の思考の到達点として書き残す。

その気持ちを、次作への励みとします。