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どうってこと、なくなんかない。

あるハンデキャップを
負っている子のお父さんが
いつの日か我が子には
「そんなこと
 どうってことない」
そう伝える・・・
って言ってたけど。

どうってこと
あるか
ないかなんて
ほんとは親には
決められないんだよ。

いいんだよ。

どうってことあるんだよって
大声で言っちゃっても。

って、どうってことないって
大声で言っちゃってもね。

その痛み、欠けてる部分は
その当事者が
まんま感じたことを
そうかそうか
そんな世界を見てるんだねって
丸っと受け止めて
あげるだけでいい。

大変だね。
かわいそうだね。

って、
それはその人の視点であって
本人の視点じゃない。

ついつい
それを見なかったこと
なかったことにして
そんなの大丈夫だよって
覆い隠しちゃうけど。

痛いものは痛い。
悲しいものは悲しい。

その状況を
たとえ親であったとしても
寸分の狂いもなく
同感することなんて
できないんだよ。

まんま100%で
それを感じることは
よしなんだ。

それはその子の
成長の一過程なんだよ。

そこにいろんな感情が
付随してくるのは
親だからこそ。

だけど、
ほんとは小さな自分が
それを言いたかったのに
言えなかったからこそ
ついつい出てくるものでもある。

我が子の痛みを見て
ずっと取り出せなかった
そんな自分の痛みを
取り出してるって部分も
たくさんあったりするのよ。

だから痛い。
自分の痛みのように
痛くなるんだよ。

ほんと、
そんなスムーズに
何にもなかったことにして
親になんてなれないんだなぁって
お母さん27年やってきて
それをまざまざと
感じているなんてね。

あ、そうか。
私もそれすごく言いたかったんだ。

はたまた

すごーく痛かったのに
痛いよって言えなかった
あの日の痛みだったりする。

そう気づくことが
なんてありがたいことか。

いろんな顔色やら空気やら
たくさん飲み込んだあの日
私はその先の成長を
自分で止めたんだ。

いや
そうやって止めることで
成長したんだな。

それも仕方なかった。

でも、
ずーっと止まっていたことは確か。

その辻褄が
時を超えて
合わせるタイミングで
いろんなことが
見えてくることもあるよね。

それは我が子との
共同作業、
そんな気もしてる。

って、
私はそれをずーっと
見てきたんだな。

たくさん
どうでも良くないことを
どうでもいいって
飲み込んで
大きくなったわけよねって
あの日の小さな私に言ったら
にっこり笑って
そうだよ。
やっと気付いた?なんて
イタズラっぽく笑ってる。

なんだよー。
自分で仕込んでたのかーってさ。

ま、それがどうかは知らんけど。

私の子育てで己育ては
我が子と出会う
はるか昔から
仕込んでいた
壮大なドラマだったのねん。

ほんとはそれ
どーでも良くないからねって
ニコニコしながら
蓋してたのかもね笑笑

だからね。
子どもはちゃんと
それに気づく日々を
いろんなことやらものを感じて
ちゃんと自分を
成長させてるんだよ。

そこ、信じてみて
いいんじゃないかな。

ってあの日の
小さな私が言ってる。

ここからまた
いろんなものみるけど
大丈夫だよ。

それちゃんと大きくなって
お母さんになった私が
ちゃんと今受け取ったよ。

今日もここまでお付き合いくださり
本当にありがとうございます。

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