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伏見稲荷=ウカノミタマノカミ?


「伏見稲荷の一ノ峰の神さまは、ウカノミタマノカミではないんですねー!てっきりウカノミタマノカミだと思っていました。…末広大神ってなんですか?」

というご質問を関東在住の方から頂いたことがあった。

そう言われればそうやな、と思いはしたが、それまで稲荷のそれぞれの社の祭神を特別視しておらず、お山全体のエネルギーの聖域という捉え方をしていたので、その質問の答えというよりは、祭神の視点から稲荷と氏神(藤森神社)を改めてみてみることに。


稲荷の祭神について、一言で言うのは難しいが、稲荷に限らずほぼどこの神社も、本来の起源からおよそ明治頃の間までに祭神が度々変わっている。
本当に起源から言えば、土着的な信仰…その地域で大切にされてきた神さまとか、土地に由来のある天皇系とか…もちろん神話上、記紀に登場する神々もだが、最初から同じ神が祭神であり続けるということは少ないかもしれない。


明治維新において神仏判然令により、神道と仏道を分けることになったので、その時に線引きのなかった神や仏を無理矢理、ここはこの神!仏!と決めなければならなかったので、その時にそれぞれの何かしらの理由によって、元々とは違う祭神を置くなどした神社も多数あるよう。
または祭神の数を増やすなど…その基準はさまざまであると思うが、歴史や風土や神社間の関係などから、人間の都合で祭神を選んだりもあったかと思われる。
歴史上の経緯を、それぞれの寺社で文献などもあるとは思うが、古い戦や近代の世界大戦等で焼失してしまって経緯がわからなくなってしまい、真相がわからない寺社も多いのではないだろうか。


わたしの住む地域の氏神である藤森神社も十二柱の祭神で、素戔嗚が主祭神であるが、本来は違うようで、大元は土着信仰から始まって、おそらく応神天皇(十二柱に含まれる)が主で、応神天皇は神功皇后の息子であり、京都の南の方角は神功皇后ゆかりの地なので、桃山の御香宮も神功皇后であるし、城南宮も然り、神功皇后、応神天皇親子を祭神にしているというのが自然な流れで、そこへ神仏判然令により、何かしらの理由から素戔嗚を置いたことになる。

これは、わたしが知っていたことに加えて、藤森神社へ行った時に、神官さんに尋ねて教えてもらったことも含まれる。
摂社に大将軍社があるが、大将軍社は平安京の時代に、京都の東西南北を守護する目的で、方位を司る八将神の一つである大将軍を置いたわけだが、その南の守護が藤森神社の大将軍社である。
これもおそらくこの辺りに置かれただろうと理由は曖昧なようで、それを藤森神社内に置き、祀ることになったそう。

他の大将軍社は素戔嗚を祭神にしているが、ここの大将軍社はなぜか磐長姫なのである。

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それがわたしは疑問で、そのうち神社に聞いてみようと思っていてようやく聞けたのだった。
藤森さんも文献が焼失して、正確なことはわからないそうだが、既に祭神に素戔嗚を置いてあるので、重複させられない理由から磐長姫を置いたのではないかということだった。
磐長姫は神話上、逆境に耐えた忍耐強い姫であり、何事にも盤石というようないわれで、方位神に結びつけて置かれたのでは…というような話だったと思うが、結局のところ、素戔嗚を置くわけにいかないから、それぽい意味合いの神を置いた、という人間の都合やこじつけともとれる。
方位に関しては、磐長姫をこじつけなくても他にもあるので、ただのこじつけではなく、なにかしらそれなりの理由は他にもあったのかもしれないが、もはや誰にもわからないのである。

わたし個人としては、磐長姫贔屓(←w)なので、藤森神社では大将軍社がメインと言ってもいいくらいの位置付けなのである。
大将軍は、陰陽道に出てくる神でもあり、男らしい勇ましい感じなのに、あえて?女神を置いたのだとしたら、なかなか粋な配置だと勝手に思う。
女性の守り的要素も勝手に感じる。
御詣りの際は、奈みこの偏見的にオススメしている笑。
社殿も重要文化財に指定されているので、威厳がある。


⇩こちらの記事へ続く。



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