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終わらせていない宿題は何度も来る。


息子は未熟児で生まれた。

それも千グラム以下の超未熟児、超未だった。当時わたしは早産の危険があり、かかりつけだった近所の小さな産婦人科に入院していた。注射と投薬で出産の日を待ちながら、一日一日をベットの上で過ごしていた。

そんなある日、病室に母がやってきた、らしい。らしいというのはわたしにその記憶がないからだ。母は絶対安静のわたしに、好きな人が出来たから、上手くいってなかった父と別れて再婚すると言った、らしい。

両親は不仲だった。わたしは小さい頃から、両親の間を取り持つように振る舞っていた。大人になり、結婚をしてからも、孫が出来れば落ち着いてくれるのではないかという、淡い期待まで持っていた。

わたしはその日、その母から、うれしそうな最後通告を受けた、らしいのだった。記憶がないのになぜわかるのかと言えば、その話をわたしは面会に来た夫に話したらしく、夫は静かにひとり怒っていたらしい。なにもこんなときにと。

母が来たその夜遅くに息子は生まれた。生まれてしまった。体重628g。押しも押されもせぬ「超未」だ。そして運の悪いことに、入院していた産婦人科医院は、すべてが杜撰な病院だった。

陣痛らしきものが来て、おかしいと思い、すぐにナースコールを押したが誰も来ず、さらにこの病院は保育器の用意がされていなかった。

生まれたばかりの子どもを目の前にして医者は、障害が残るかもしれないけどどうする?助ける?と聞いた。わたしが助けてくださいと叫ぶと、医者は見習いの若い看護師のほうに向き直り、お湯を沸かしてと言った。なんのことかわからない様子の看護師、保育器のお湯だよと怒鳴る医師。

その後息子は、少し離れた町にある小児医療センターの救急車で運ばれていった。小児医療センターの先生と夫に付き添われ、超未熟児専用の保育器に守られて。

それからはもう時間との戦いだった。わたしの中には、いつまで生きられるかわからないという今思えば妙に冷静な状況判断があり、一日でも多く、一秒でも長く、息子のそばにいたいというおもいがあった。

息子が運ばれた後、わたしは逃げるように退院した。絞った母乳を持って病院に通った。面会に連れて行くことができない2歳の上の子は、無理を聞いて下さった保育ママさんに託して通った。

そんな生活が二ヶ月近く続く。片道2時間の道のり。その間に医療センターの先生方は、心臓の手術までしてくださり、この小さな赤ん坊はそれにも耐えた。そしてある日、担当してくれていた看護師さんに声を掛けられる。

お母さん、だいぶ疲れているとおもうから、二、三日面会はお休みしたらどうかな。肯ちゃんもこのところ調子が良いし、わたしたちは24時間肯ちゃんのことを見ているから、わたしたちにまかせてもらえないかな。このままじゃお母さんが倒れちゃう。

看護師さんが気がついてくれた通り、限界だったのかもしれない。いつ死ぬかもわからない、生きたとしたら今度はどんな障害が残るかわからない、頭の中は予測も答えも出せない難問でいっぱいだった。

この子に何が起きても、すべてを肯定しようと夫婦で話して付けた名前、肯。肯を看護師さんにお願いして、面会をお休みした翌日の早朝、電話が鳴った。わたしと夫は2歳の息子を、唯一頼ることのできた父に頼み、病院へ向かった。

生後52日。息子はわたしの腕のなかで亡くなった。

葬儀、納骨。桜吹雪のなか、息子は空へと昇っていった。夫はいつまでもお骨が手元にあると辛いからと夫の母親が眠る墓に息子のお骨を納めてくれた。わたしは自分を責めた。自分を責める以外に出来ることがなかったという方がいいかもしれない。

いつも自分のことが優先の母を、遠ざけることが出来ていたら。きちんとした産婦人科を選んでいたら。いつまで生きられるかわからないと悲観せず、命を信じることが出来ていたら。生きることが出来たとしてどんな障害が残るのだろうと不安にならず、なんでも来いと確かな覚悟を持てていたら。看護師さんの申し出を断って、面会を休まずに行っていたら。

自分を責めることばには際限がない。選ばなかった、選べなかった方の道を選んでいたらという、冷静に考えれば考えても仕方のないことを、延々と考えてしまう。そこに結論はない。ただ自分を責めたい、この結果を受け入れることができない、受け入れたくないというそれだけのことなのだ。そこに理屈などない。あるのは感情のみだ。

それでもわたしには2歳の上の子がいた。わたしが泣いていると、ちゃーちゃん泣かないでと背中から抱きしめてくれた。泣かない泣かない、ごめんねと泣いた。上の子がいなかったら、わたしは生きていなかったかもしれない。

その後わたしたちは娘に恵まれ、そしてその娘の不登校をきっかけにして、一匹の犬に出会う。

おもえば犬を欲していたのは、愛情と手間をかけ抱きしめることのできる存在を求めていたのは、他ならぬわたし自身だったのだとおもう。そして今、十五年という犬の年齢からすれば申し分のない年齢で命を終えた犬との生活を振り返って、わたしはまた自分を責めている。

終わらせていない宿題は何度も来る。自分のせいでこうなったという思いは、誰かのせいでこうなったという思いとおなじ土に育つ。

短い命を生きた息子と、長い命を生きた犬が、誰のせいでもない、はやく宿題を終わらせろと言っている。



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