恋人と別れ死ぬほど映画を観ているわたし

恋人と別れて2週間ほど経った。
恋人に対する気持ちが、無になっていた。
そうなると、部屋を片付けてくれることも、好きだと伝えられることも全てがストレスに感じてきてしまう。
どうしようもなかった。
夢である映画作りと並行して、彼氏と遊ぶことはわたしにとってはかなりの重労働であり、忙しさで荒れる部屋をわたしではない人が片付けている姿を見ると、あきらめることを許されなくなるような気がした。

5年も好きだったのにと伝えられたが、それは勝手に好かれていただけで、わたしの人生とはなんの関係もないのではないかと思う。
とても冷たくて申し訳ないけど。
恋人と体を重ねる理由がもう、付き合っているからという理由以外なかった。
重なりたい、繋がりたい、という気持ちはなくなっていた。
好いていてくれることはとてもありがたいが、それは決してえらいことではないと思う。
自分の中に気持ちをため、またいつかその日を待てばいいと思う。
待てないのであれば、それは好きとは違う気持ちなのだと思う。

アイドルや推しとわたしを重ね、期待しないでほしい。
わたしはアイドルではないので、裏切る。小さな嘘なら平気でつく。
わたしはきっと、ずっとこんな人間でした。
ずっと変わらず、生きてゆきます。


恋人と別れてから、シナリオを書いたり、同期と遊んだりしながら、隙間時間にできるだけたくさん映画を観ている。
恋人と付き合う前に病んでいた時以来のハイペースで映画を観ている。

その中で、心に刺さったものが
『玉城ティナは夢想する』である。

玉城ティナ演じるA子と、モデル玉城ティナが出てくるショートムービー。

「100年後も覚えていてもらえるような女の子になりたい。」

途中から、どっちの言葉なのかがわからなくなってくる。
わたしは、とても残酷な映画だと思った。
女の子であることを、喜んだり嘆いたり、
しかし、玉城ティナも玉城ティナにはなれない。
わたしがわたしであることに満足し、心から踊ることができるなら、
こんな映画は存在しなくなると思う。
女の子として苦しみ、もがき、助け合うところにわたし以外の他者が介入することはできない。
みんなが知っているけど、誰も知らない感情の塊を言葉として、映画で観ることが出来た。

わたしは、玉城ティナにはならない。
絶対に、ならない。


2022/05/22

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