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過失と隠蔽の間

“記録”は保存することに意味があるのではなかろうか。かつて世間を騒然とさせた事件の裁判記録が廃棄されていることが明らかになっている。

『神戸連続児童殺傷事件』については神戸地方裁判所が、そして今度は東京地方裁判所で『オウム解散請求の記録廃棄』があった。作家の室井佑月さんも週刊誌の中でこのことに触れている。

何かがおかしいと思う。大事件だから保存する必要があるという前提もあるが、そもそも事件に大も小もないのだ。世間的には小事件であったとしても当事者にとっては大事件かも知れないのだ。少なくとも事件の大小で判断できないこともある。

今回の東京地方裁判所の件は、一般企業で言えば“本社”での失態である。ワールドカップに国民の興味が注がれていたが、その中で“統一教会”関連の様々な問題は進展が見られない。同じ宗教団体であったオウム真理教事件記録には、ひょっとすると誰かにとって不都合な事実が記載されていたのではないだろうかと勘繰りたくもなる。そして仮に過って廃棄したとしても、正式に処分したのならば、誰が行ったのかは明らかである。それすら問題にならないのは、その者も関係者⁉かもと疑われても仕方ない。

森友事件での公文書改ざんについても、改ざんを命じた上司には有罪判決が下されず、国が賠償することで解決を図ろうとしている。国家公務員の不祥事は国が賠償するということを逆手に取れば、何をしても許されるという誤った認識が生まれはしないだろうか。

賠償=金銭的解決で全てが丸く収まる訳ではない。事実として何があったのかということが大切なのだ。これが表に出ないことを私たち国民は“隠蔽”と考えている。

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