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短編小説「新世界」



 薄暗い地下の入り口では、正面から倒されたドミノのように、エスカレーターが下に流れていく。その流れに逆らって、ドブねずみは地上に出ようと足掻いていた。

 地下に降りるエスカレーターは、焦ることも、休むこともせずに、ドブねずみが進むはずの反対方向に流れ続けていた。

 少年は両脛を、鉄パイプみたいに痩せた手で抱えて、腰を下ろし、沈んだ瞼でその小さな勇姿を見つめていた。

 彼のぼろぼろになった革靴に、飢えたゴキブリが触角を揺らしながらすり寄って来たが、背中の壁の小さな穴に入っていった。

 エスカレーターの上から漏れ出た、淡く白い光が、舞った塵埃を照らしていた。その様子は、いつか夢見た、地上で蝶々という生き物が羽をはばたかせる粉のようだと彼は思った。そのうちに、すいた腹の波があがった。しかし、腹がすくことに対して、何の癇癪も起きるはずがなかった。

 天井に三連符を弾いたような、靴の音が鳴る。子供たちのはしゃぐ声が、黒ずんだ天井の先から震えて伝わった。白い光が覗いたエスカレーターの頂上に、彼らの足が見えた。

 今にも眠りそうな少年の眼は、その場所から動かなかった。

 突然、気配を感じて闇の方へ振り返ると、泥で汚れた長靴が、彼の視界に踏み込んだ。べちゃりと、透明な水を鱗に反射させた、赤い背びれの魚が、足先に落下した。

「どうだい、元気にしてたかい?」

 年を積んだ、穏やかで、がらの悪い声を聞き、少年はいつもの男が来たのだと思い出した。排水溝を跨いだどぶの香りに、少年は口をぽけっと開けながら、呼吸をしていた。

「喜べ、今日の魚は鯛だ」

 体の形がしっかりした老人は、カカカと大口を開いて笑うと、無口な少年をよそに、隅にたまった枯葉をかき集めて、内ポケットのライターで火をおこした。丸太の形をした肥えたリュックから、鍋をとりだして、湧水を汲んで熱した。

「汚いかって? 気にすんな、地上の奴らよりは汚くねえわ」

 薄く漂った湯気を向こうに、調理を見届ける少年に向かって、老人は口を滑らした。

「……なんで、僕にそんなことしてくれるんですか?」

「お前さん、腹減ってるだろ。俺にはわかるんだ」

 地下にいる人間が自分だけでないことを少年は知っていた。痩せた体で、空かせた腹に食糧が運ばれることを待っている人間も自分だけではないことも、知っていた。

 しかし、どういうことか、この怪しい男は自分にばかり世話を焼いている。

 熱湯の中で鯛がぶくぶくと踊っている。まだ死にたくないと、極楽の湯の中から下水の方に、びいどろの目をちらりと向けて、もがいているようだった。

「親切な人間なんだよ、俺は」

 男がそう言った。錆がこびりついた鍋の取っ手を握った男の手は赤く膨れている。

 不意に少年は、自分の着る服の下が熱くなっていて、重みで赤くなっていることを確認した。

 いたた、と言いながら、男は焼けたような色の手で、ナイフを握り、逃げたそうな顔をした、魚の腹を切った。膨らんだ白濁りの身が溢れ出して、湯気が顔を湿らせた。

 頭がついている側、半分の身を茶碗にのせて、少年に渡した。

 少年は崩した身のひとかけらを口に運んだ。煮汁の香りも、ふくよかな身の食感も感じていたものの、彼は無口で機械的に口を動かした。

「うまいだろ?」

 水筒に入った、得体のしれない透明な液体を飲みながら、男は聞いた。

「……はい、……ありがとうございます」

 少年は低い調子で、細い声で言った。

 老人はその少年のがらんどうな瞳を見て、短く溜息をついた。

「……知りたくならないのか? 世界を」

 少年は色を変えずに、横目でちらと老人の方を見た。彼にとっては、意味のわからないことであった。

「地上の世界だ。日光を浴びられる、発展した世界を知りたくないか?」

 少年は下を見て眉を動かさず、黙って魚の身を頬張った。そして、首を横に振るった。

 老人はその様子を、じっと見つめた。

「……それ食ったら、もう寝ろよ」

 そう言い残して、老人は闇に塗れた、足元の見えない暗い道を進んで行った。

 彼は想像もできなかった。このエスカレーターの上の世界がどうなっているのか。

 そこに何があるのか。

 あの光の下には何があるのか。

 抱えきれない思考が埃のように浮かんで、鬱陶しくて彼は目を閉じた。

 


 
 彼の眠りは浅かった。老人が言った、地上の世界。見たこともないはずなのに、想像すらできないのに、忘れたくても忘れられなくて、それが彼の眠りを邪魔していた。

 目を覚ましたのはすぐだった。彼は上から荒く走り回る高い靴音が近づいてくるのを聞いた。

 地上から降る光の向こう側に瞳を向けていると、どうやら大急ぎで駆け付けた人影が一つ見えた。暗いシルエットからでも、そのせり肩や立ち姿を見るに女である。

 すぐに追って、新しい足音が彼の頭上をすり抜けた。今度の足は重くて、複数あるように感じられた。

「捕まえろ! そいつは下界の人間だ!」

「ブタを盗んだんだ。下界に帰らせるな!」

 上階の赤い怒声が上階で薄い天井を震わせる。すると、光の中に立っていた女の影が、倒れて暗闇にまみれた。

「触らないで!」

 エスカレーターの頂上から彼女の腕が伸びた。

 とっさに彼は日光のことなど気にもせず、下りのエレベーターに向かって走り出した。

「上着を脱がせて肌を太陽にさらすんだ」

 進むにつれて、地面に押さえつけられた彼女が被っていたフードは脱がされ、後ろで結ばれた茶の髪の毛があらわになった。

 その時だった。流れるエスカレーターに逆らった、彼の足はついに最上段の二個下まで辿りつき、彼は腕を伸ばした。その手は彼女のやわらかい腕をつかんだ。足を滑らせた彼の身体は重力に引っ張られ、背中に風を感じた。ひかりの奥が、彼女の影に遮られ、暗くなってゆく。

 紺の服の男二人の鈍い舌打ちが、喧騒にまみれていった。

 二十段の階段を落下した二人の身体は、運よく地下の暗闇に転がった。

「……大丈夫、ですか?」

 返答もなく、女性は彼に覆いかぶさるようにのっかったまま、肩で息をしているのだった。

 彼は彼女の目を見たがったが、かぶさったフードがそれを妨害していた。すると、彼女の手が彼の腹の上で震え出し、胸部に彼女の頭が寄りかかった。

「痛い……痛い、痛い、痛い、……」

 少年はその声の脆さに鳥肌をたたせた。彼女の声はたしかに若く、可憐な響きをもっていたが、少年にとって窓ガラスが割れ、鋭い音が耳に刺さった時のように、緊張を感じられた。

 彼女は動かないまま、少年の体の上ですすり泣いていては、口を堅く結ぼうとして、その痛さに耐えようともがいていた。

 エスカレーターの上の世界がどうなっているのか、まだ少年にはわからない。むだに加担してくる男の話からも想像はつかないし、上から下に流れて来るエスカレーターは、昇るための意識を叩き落とすように拒んでいるかに見えた。

 さきの一連で、彼は人間に興味をもち始めていた。地下に座って一切その場を立とうとしない自分と違う、謎の行動をする地上の男たち。

 そして、上界から落ちてきた彼女……。

 老人の真似をして、彼は火を起こしていた。もう何日も前にもらった、がまの綿がつめられた毛布を寝ている彼女の上にそっと被せた。

 ぱちぱちと火の粉がはじけて、手を翳した彼の指に真っ赤な点の痕をつけた。

 すると、目を閉じていた彼女の粗のない滑らかな眉が、曲がって困った形に変わった。目を開くと、いきなり彼女は身を起こして、毛布を見て息をのみ、そっとその手触りを確認した。

 火の音に気付いたのか、彼女は少年の虚ろな眼差しとはっきり目が合った。

「……あの」

 ご機嫌斜めな剣幕を少年に向けて、返事なしに彼女は立ち上がった。厚着を纏った身体はよろけながらも、無駄のない足取りで湧水の方に向かい、一瞬だけ間をおいて、水を両手で掬い上げた。いっきに両手の水を自分の顔にかけた。もう一掬いして、彼女はそれを薄ピンクの小さな唇の隙間に流して、呑み込んだ。寂しそうに放置されていたたらいを、片目をとじながら、つかみ、中に水を汲んだ。

 少年は首ごと目で追って、彼女がそばに戻ってくるのを見ていた。彼女はたらいに入った水は、少年がおこした火に流すと、ゆげは控えめに音をたてて火は沈黙する。

 毛布の傍に戻って、彼女は少年に向き合った。

「どういうことか知らないけど、火なんか絶対に起こさないで」

 押しつけるような口調に、黙って耳を向ける他なかった。

「まず、助けてくれたことは感謝してる。ありがとう」

「……あ、いや」

「でも、あなたも下界の人間でしょ。なんでエスカレーターを上ったのよ。それも降りる用のエスカレーターなのに」

 真剣に訴える彼女の眼差しに、彼は言葉がでなかった。

「この毛布はどうやら特別らしいけど、火に手を近づけちゃだめよ。こんなに真っ赤になって……」

 彼は自分の手を見た。確かに赤くなっている。彼女の手も、さっきたらいを触った部分に血の色が混ざってないようにみえなくもない。

「もしかして、痛いんですか?」

 少年の質問に、女は当惑の声を漏らした。

「それはだって、痛くないはずがないでしょ……」

 すると、彼女の目に変化があらわれた。それは出会った時から感じた少年の違和感と謎めいた行動のことを冷静に思い返したからであった。

「僕は痛くないんです。生まれつき、痛みを感じたことがないんです」

 彼女はさらに当惑の色を目に映して、少年に距離を詰めた。足を一歩踏み出した時、彼女の目の端がぴくりと揺れた。

「ほら、足が痛い……。たった少し動くだけで足裏が差されたような感覚がするのに、あなたは痛みを感じないなんて。だって、ここに居る人たちは、下界の人たちは……」

 そこで彼女は言いかけた言葉を喉の奥に留めた。しかし少年はそこで、自身の倦怠感で形作られた瞳に光を灯らせた。

「教えてください。僕たちは、なんでここにいるんですか?」

 食い入った少年の瞳をくみ取って、彼女は淡い桃色の唇をゆっくり開いた。

「痛覚が異常に発達しているからよ……。代わりに死ねない身体をもった人間が下界に集まっているのよ」

 それを聞いて、少年は丸い目を大きくして、自分の後頭部を手で触った。流れているはずの血の感触がなかった。

「傷は塞がってるはずだわ。それよりあの時落下したわよね。頭から落ちて、私の下敷きになってくれたのに、痛くないの?」

「……はい。痛くないです」

「何も、誰からも聞いていなかったの? ここがどんな場所なのか」

 世話焼きの男が鍋の取っ手をつかんだときも、つかんだ肉の部分が赤くなっていた。歩き出すときの地面を踏む衝撃も、焚火の温度も、彼女たちにとっては、眉をひそめるほど大きな痛みになってしまうのだろう。

 突如、すすにまみれて真黒になった天井から、塵ほど小さな黒いものがぱらぱらと、枯葉をくだいたみたいに落ち、彼女の耳を伝って頬にかかった。

「痛い」と手で押さえられた、赤い炎症のようなものをおこしている。どうやら塵のようなものは、コウモリの糞だった。

「大丈夫ですか?」

 その姿に目を伏せたくなるほどの哀惜を感じて、少年は思わず心配な声を出した。

「こっちは、痛いんだからね」

 彼女は下を向いたまま、ふくれた声で言った。曇った剣幕からは降り出しそうな雨の匂いがした。

「痛くて、死にたいのに、それでも死ねないんだから……」

 きつく言われても心配そうな目をする少年に、彼女は一度目をくれて、しょげたようにすぐ逸らした。

「あんまり、喋らせないでほしい。わずかに筋肉を動かすことにも痛みを感じるの」

 彼は聞きたいことを聞いてはいけないと思った。

 喋ることの痛さも、容易に歩くこともできないことの痛みも、彼には想像できなかった。

「おう、一人増えたみたいだな」

 いつの間にか、老人が少年の後ろに立っていた。彼が着ている緑のジャンパーも、後ろに着いたフードも昨日とは違った役割を持っているのだ。

 男は何も言わず女の方を見つめるのに、女は憂いを閉じ込めた瞳で下をむいていた。

「今日はタラ二匹だ。……まいったね、間違ってもこの少年を巻き込むんじゃないよ、嬢ちゃん」

 男はへにゃへにゃに頬を曲げながら、ぼろの鞄から鍋を用意した。

「この人が、あなたに毛布をくれた人なのね」

 女がもごもごと聞いた。少年はその静けさに合わせて頷いてみせた。

「そう……」

 女は男の方を向かって言った。

「安心して、私は彼を巻き込むつもりはないわ。私、自分一人のために地上に出たのだから」

 手袋をはめずに、たらいの取っ手を摑む老人の手を見て、彼は言いかけようとした言葉がつまって出なかった。

「それで、収穫なしってわけか。上界の人間も意地の悪いもんだな。こんな美人すら許さないなんて。一体、誰を許してくれるんだか……」

 男は作業に目を集中させるようだった。対して女も目をあわせないように努めているのだと、彼には思えた。

「私はブタを盗んだ。デパートからブタの腿を盗もうとした。私たちにとって食べ物は必要ないのに、自分の飢えを凌ぐために貴重な食糧を奪った。そんな人間、許されなくたって当然でしょう」

 煙が魚の生臭い匂いをのせて、嗅覚に流れ込んできたため、少年はむせるような咳をした。二匹のタラの肉は、香ばしい白色になっている。

「食べ物がなくても死にはしないが、腹は減る。便利な身体ってのは不便だね」

 男は茶碗に油の浮かんだ煮汁と魚の白身をのせて、少年に差し出した。

 彼は数秒間、黙って茶碗の死んだ魚を見つめていた。

「安心しな。それはお前さんのものだ……」

 鍋の中で揺れていたもう一匹の魚も茶碗に入れた。

「もう一匹は俺のものだ」

 女が膝をまげて、何も書かれていない壁を見つめている間、男は箸で魚の身をくずして、音をたてて貪った。

 その姿と煮汁の湯気に彼は、魚へと目を動かした。この魚は死んでいるのではない。

 生きている。

 油の匂いに空っぽな胃の中が動き出す。今にも逃げ出しそうな魚と自分の違いはなんなのだろうか。

 はっとして彼は自分の行動を思い出した。何もしていない自分が、知らない男から食べ物をもらっていいのだろうか。

 身の危険を冒して地上の世界に出たのに、何も得られなかった人間が目の前にいるのに。

 少年は手に持った茶碗と箸を彼女の方に差し出した。

「お前さんのものだ。何も遠慮することなんかない」

「どうぞ」

 後ろから老人の声がしようとも、彼は差し出した手を引き戻すつもりはなかった。

「いらない」

 腹が波を立てても、彼女は壁の一点を静かな眼差しで見つめて動かなかった。

「でも、お腹が空いていたって。そのために上界に行ったって言ってたじゃないですか」

「だから、何? それは彼があなたにあげたものなのよ。勝手に人のことなんか気にしないで」

「嬢ちゃんの言うとおりだ。食べなくても死にはしないのさ」

 次いで説明されてなお、少年は赤くなった手を下ろそうとしなかった。

「俺は、何かをした人に食べてほしいと思います。何もしていないのに、もらうのが嫌なんです。食べたい人が飢えるのは、なんか、胸が静かになるんです」

 女は返事をしないで、眉を下げて魚を見つめた。「こりゃ参ったな」と男は食べ終えた魚の骨を取り出した。

 数秒経って、女は、静かな憎悪のようなものを感じられる強い瞳で少年を見て、茶碗に右の手をそえた。

「……ありがとう。だけど、これじゃあ手が重たいわ」

 女は、小さな手で箸を器用に使って、魚の身を半分に割った。そして、泳ぐために必要な尻尾の方を、自分の口に運んだ。

「半分は、あなたにあげるわ」

 少年は、魚のしっぽを頬張る彼女の表情が、微かに和らいでいくのを見て、自分の頬もつられたような気がした。

「……ありがとう」

 魚の頭のせいなのか、それとも飢えのせいなのか、女のせいか、昨日よりおいしそうに食べる少年の姿を見て、老人はフードを深くかぶり、「それじゃ」と手を挙げて暗い道へ消えていった。

 

「あなた、寒さは感じるの?」

 湧水で顔を洗い、片目をつむった彼女は痛そうだった。

「……はい。だけど、寒い、というよりは、冷たい、に近いのかもしれません」

「苦しくはない?」

 顔に残った水の球を、彼女がぎこちなく手で払うと、滑り落ちて、床の暗さに混ざった。

「苦しくはないです」

「そう、なのね」

 彼女の声は、自然ではなく無理に出されているように聞こえた。どれだけ声を柔らかくしようと、彼女の瞳は、この世ではないものを見ているように感じたのだった。

 痛む彼女と、痛まない彼とでは、見える世界が違って当然だった。ならば、地下にいるここで、彼女は寒い思いをしているのかもしれない。溶けない氷のように冷たく揺るがない彼女の瞳が、少年には気がかりだった。

「その毛布、あげます。さっき言ってましたよね、その毛布は刺激が少ないって」

 少年が指さす毛布に顔を向けて、彼女は数秒間黙ったかと思うと、むふふと微笑し、やがて声を大きくして、腹を震わせながら笑い出した。

「あなた、なんでもあげようとするのね。半分にすればいい魚を全部あげて」

 彼女は乱れた髪の毛を耳にかけなおした。覗いたこめかみが赤くなっていた。

「ここってね、一番光が当たりやすいの。わかると思うけど、あなた以外誰もここに居座ろうとはしていないのよ」

 さきの探索で少年はその違和感に気付いていた。老人以外誰も寄ってこない。少年が一人で一点をみつめる中、他の者は二人で身を寄せ合っていた。

「それを持って、違う場所に行ってください」

 可笑しかった彼女の頬が、すぐに崩れていった。

「……あなた、優しいのね」

 光がちらつくせいか、彼女の目に明るさが含まれているような気がした。少年は胸がきつく締まっている感覚に気が付いた。脳味噌をくすぐられたような、しかし嫌な気分がしないことに、彼は戸惑った。

「私はね、ここから随分離れたところにいたから所に居座っていたから、ここに来たのは、全くの偶然だったけれど……。あなたがいてよかったわ。あなたが身を乗り出してくれて」

 彼女は少年の方に歩を進めた。

「上界のこと、少しだけ話してあげる。興味あるでしょ、目がかがやいていたもの」

 そう言って、肌に触れそうで触れられない距離に腰を下ろし、膝を曲げた。伴って彼女の着ている服が折れる音がした。

「俺は……連れて行ってほしいです」

 彼は自身の両目を彼女の両目をぴたりと合わせて、動かさないで言った。

「上界に行って、まだ知らないことを知りたいです」

 彼女は彼の瞳に嘘がないことを見抜くと、胸のざわめきを覚え始めた。少年が危険な世界に踏み入れるきっかけを作ってしまった責任と、怖さによる動揺だった。

 女は返す言葉を用意しておきながら、それを何度も喉につっかえてしまった。

 この少年は何を言っても聞かない意思をすでに得てしまっていることを信じて、気づいた時には彼女は頷いていた。

「いいわ。明日連れて行ってあげる。……言っておくけど、危険だからね」

 少年は自分の唇が挙動し、ほころんでゆくのを堪えられなかった。

「はい。お願いします……」

 あどけない少年の微笑に、女は目を細めたのと同時に、男の言葉を思い返した。この子にあまり余計な事を教えてはいけない理由と巻き込んではいけない理由、それを破るリスクがよぎったが、疲労がそれを拒んでいた。

 少年は女が朦朧として、言葉に力がなくなっていることに気がついていた。

 彼女はうとうとと、目を閉じて首を揺れ動かした。

 彼は毛布を手に取って、彼女を覆うように被せた。

 毛布は、ある日、少年がなかなか寝つけないでいるときに、老人がかけてくれたものだった。老人の手に肌が触れた瞬間、手は少年の手より大きく、ごわごわした形を成しているのがわかった。何より血のめぐりを感じた。

 あれが人の温度なのだ。彼女はきっとその温度を知ったことはないのだろう。

「言っておくけど、痛いんだからね」

 少年が肩に優しく寄り添うと、彼女は優しくそう言った。寄せられた体から、二の腕に熱が伝わって、全身に巡ると思いきや、今度は頭の上の、それでいて体の中にあるような、別の種類の熱が神経をしびれさせた。彼女自身も少しだけ、肩を寄せた。痛みが伝う。ひりひりと皮膚がひしめく。しかし優しい痛みだった。痛みを、厚さを人間の熱が覆ってくれた気がして、彼女はそっと目を閉じた。

 肩を寄せてくれた少年の顔には、どこか悲しさが映し出されている気がした。

 

 ずっと下界で過ごしてきた少年にとって、上界の世界を想像することは容易ではなかった。ただ男と女の話を聞いているかぎり、下界の人間にとって危険な場所であることは理解していた。

 上界へ行くために、女は少年の知らない場所にある上りのエスカレーターへ案内した。

 果たして、ごうごうと光に向かうエスカレーターを上ると、そこにはまばゆい光を反射した、透明のガラスで囲まれた、露店が並んでいた。

 カラフルな景色は彼の目に色と動きを与えた。

 よろよろと辺りを見回すと、無理やり渡された黒の上着のフードを引っ張られた。彼は躓きながら、黙って女の後ろについていった。

「ここはデパートといってね、いろいろなものが売られているのよ。上界の人たちはここでものを見るのを楽しむの。今は夜だからどこも閉まっているけど、昼間は人がいっぱいいるのよ」

 光を遮るために被ったフードの下で、少年の瞳は揺れていた。彼は目に入るもの全てに触れてみたいという欲が湧いたが、多大な量の情報に目が追いつかなかった。つるつるした滑りやすい床が歩きにくいと感じていた。

 定位置として居座っていた天井の向こう側には、想像を超えた輝く世界があったのだ。

 清澄な空気が肺をめぐっている。今までの暗闇での生活が嘘みたいだった。

 緑のネットで仕切られた部屋のようなものが、果てしなく並んでいる。ネットの向こうには人間の形をした白い模型に、服が着せてあったり、ガラスの奥に焼き魚や赤いトマトが盛られた皿があったり、目にするだけで彼の軽かった肉体が満ちてく気がした。

「夜は人がいないから、ものが盗まれないように見張っている、警備員と言う人がいるの。見つかる前に早く出ましょう」

 ある程度歩を進めると、堂々と並んだ店に隠されて、扉がひっそり立っていた。扉の上には人の歩く姿描かれた緑の四角が飾られている。

 その模様を見る前に、扉を開けた女にせかされた。

 下に続く階段はなかった。どうやらここは地下一階らしい。下界へ続く階段は、作られていないようだった。

 袖を引っ張る指先が赤くなっているのを見て、少年は周りに惑わされず、懸命についていこうとした。

 階段を上って間もなく、自分達より高い場所から、扉が開いて、降りて来る足音が連なって聞こえた。

「警備員だわ」

 彼女は美しい横顔を引きつらせて、足を運ぶ速度を速めた。

 上から降りて来る足跡の恐怖と、もう少しで見られる外の世界への興奮から、少年の足は麻痺して震えた。しかし、上らなくてはならなかった。

 階段を上ることどころか、日中座って動かなかった少年にとって、一階段上ることは辛かった。しかし、ようやく上り終えた先に見えた、ガラスづくりの扉を見て、彼は足の重力をそのときすっかり忘れた。

 あれが外だ。

 女の美しい背中の先にある、透明なフィルターの先にある世界に少年は見惚れた。そして、足を踏み出した。

 外は暗かった。しかし、遠くの建物が光っていた。緑、赤、橙の光が、目に映る闇にぼんやりと灯りをともしていた。ちょうどよく目がなじんでいた。

「こっちよ」

 女は少年をひっぱった。そこは狭くて暗い路地だった。下界の道と似たそこは、天井がないとう点で違っていた。すると後ろで、この静かな道に轟音が横切ったのを耳にして、彼は振り返った。

「あれは車よ。人やものを運ぶもの」

 動く大きな塊の名前を知って少年は少し興奮した。車の背を見届けることを許して、女は更に強く少年を引っ張った。

 路地はひっそりとしていて、誰にも見られていない安心感があった。少年はずっと鬱陶しかったフードをはずした。女は目を細めたが、何も言わなかった。視界を遮るものがなくなって、この細い道が縦の長い、四角形の建物たちに囲まれてできていることがわかった。

 中に進むと、ゴミ袋がひっそりと佇んでおり、腐敗し肉の匂いが嗅覚をつねった。空腹な彼らにとって、そんなものでも唾液を催すには充分の刺激だった。

 ようやく足を止めて、女は建物のくすんでいない綺麗な壁に体重を預けた。

「どう? 初めて外に出れて?」

 ここまで無事で来られたことに安堵しているのか、彼女の頬は緩んでいて、余計な力抜けたように軽そうだった。

「……すごく、とても広いです」

 高い建物の、さらに上から覗いた群青の空を見上げて、少年は口をぽっかり空けていた。そんな姿を彼女は、体を温めて見守っていた。

 きれいでもない、路地の匂いに懐かしさが含まれている気がした。その温度は痛みを感じなかった。

「よかったわね。だけどね、昼間はもっと人がいるわ。みんな下界の人たちを、私たちを見て見ぬふりする連中たちよ」

 建物のどこかについている換気扇が、がつがつと回っていた。女の黒い瞳の奥に、赤い色が浮かんでいた。

 その控えめな背中を見て、導火線に火がつけられたように、少年の心臓から耳にかけて熱が流動してゆき、脳が微かに揺れた。

 彼女が初めて上界を見た時、何を感じたのだろうか。

 彼らが立ちどまっていた十字路の横から、靴ではない、地面をふさふさ歩く、のびやかな音が聞こえてきた。

 少年はその音の方向へ眼をやると、丸くて小さい、黄色い光が近づいてきたのがわかった。それが眼光であることがわかると、黒い四足歩行の獣が、ごろごろと声を漏らしていてそこに止まった。

「猫よ。初めて見た?」

 黒い猫は、背中を丸めたまま尻尾をゆらして、赤い舌をペロリと出した。黄色い瞳は少年の目合わさっていた。鼠を追いかけまわす存在だということは彼にもわかっていた。ドブねずみ以外で見た初めての生きている動物。ひっそりと、もの静かに座っている。やがて、彼らが通って来た道に首を振ると、再びのびやかに歩き出してしまった。

「動物は何も悪くないと思うの。悪いのは人間だけ。動物は許せても、人間は許せない。……なんて、傲慢な考えね」

 猫のしっぽは、車の通る道に消えていった。どこに向かっているのだろうか?

 この広い世界を、あの猫はどれくらい知っているのだろうか。縛りがなく自由な彼なら、どこにでも行けるはずだ。

 逆に下界のことはどうなのだろう。知っているのなら歓迎したい。

しかし、満足してくれるだろうか。あの静かな、辺鄙で狭い世界を。

 女が深い呼吸をした。つられて少年は自身の身体の疲れを思い出し、どこでもいいから腰を下ろそうとしたときだった。猫が登場した路の影に、人影が潜んでいることを、暗闇に慣れた目が捕えた。

「あそこに人が」

 彼は指を差すと、女は微睡もうとしていた目を開けて、後ずさる姿勢をとった。

「どういう人かわかる?」

「一人です。大きな背中の」

 隠れた男がゆっくり歩を進めてきた。

「待ってくれ。俺は上界の人間だが、害を加えない」

 両手を挙げた男が、薄明るい月の光に照らされた。

「俺は、君たち、下界の人間の味方だ」

 

 上界では、ある目的のために研究が行われていたのだった。

 それはある種、非人道的ともいえ、かといい人間のための研究だった。

 人間が死なないための研究である。

 上界の人間が目指した人間というのは、飢えもせず、老いもせず、首と胴を切り離されても再生し、痛みすら感じない人間であった。

 不老不死の研究である。

 研究の途中、何かの手違いだったのか、それとも何もかも間違いだったのか、不死に近しい人間は作られた。

 彼らは飢えで死なず、眠りもいらない、傷がついても時間と共に再生する。

 しかし、彼らは痛みに耐えられなかった。異常に敏感な痛覚をもち、日光の刺激すらも彼らには痛かったのだった。

 実験は止まらず、失敗作として扱われた彼らは、地上での生活に苦しみ、下界へと放り出されることになった。

 一般の人間らが、彼らと生きることを不気味がったのだった。仕事も出来ないのならば、少ない食糧を奪い合う必要もないと、下界へ送り込むことに容赦をしなかった。

 しかし、上界の人間の中には彼らに対する同情心を抱き、行動を起こそうとする者がいないわけではなかったのだった。

 少年と女、二人の前に現れたこの男も希少なことに、その内の一人であった。

 彼は上界の人間であり、下界の人々の居場所を作ろうとする政治家であった。

「上界の人間は、君たちのことを怖がっている。嫌っているわけではないんだ。同じ人間が、互いに協力できないはずはないんだ……」

 二人は政治家の男について歩き、彼が言う下界の人間も保護している場所に向かっていた。

「……もし、私が逆の立場だったのなら、同じ怖れを抱いていたかも。下界から乗って来る人間を気持ち悪がって、そして、日光にさらされる人間を無言で見つめていたのかもしれない」

 少年は自分が上界の人間の立場だったのなら、と考えることはしなかった。いずれの立場であろうと、彼は何も知ることはなかったのかもしれない。しかし、地下を歩いた時に見た、冷たい床に座り込んでじっとしている人々の姿を思い出すと、まだ何も決心していなかった自分を重ねて、胸が独りぼっちになったような気がした。

 自分が一人でエスカレーターを上り、上界の人間に虐げられることを想像しても、何も思うことはなかった。もし、女があの時のようにもう一度取り押さえられる姿を思うと、耳の血管が浮き出るような感覚がする。これはなんなのだろうか?

「誰かがやらないといけない。大丈夫、俺のところにいるのは、全員下界の人間だから。君たちに危害を加えはしないよ」

「あなたは、私たちが普通の人間だと思う?」

「少なくとも異質な存在だとは思わない。ただ傷の治りが早くて、痛覚への刺激に弱い人間だというぐらいで、一緒に暮らしてはいけないなんて思ってないよ」

 彼は止まった。そして、橙に柔らかく光るランプで照らされた、赤い扉のドアノブをつかんで回した。

「みんな、仲間を連れてきた。……どうぞ、中に入ってくれ」

 中に声をかけると、男は二人を馴れ馴れしい手つきで招いた。

 入る前に女は少年に耳を貸すように言った。

「痛みを感じないことはふせておきましょう」

 小声で言って中に入る女の背中を少年は少し考えて追った。

 人物は七人。母親と子ども、三十代くらいの女性、髭面で体系の丸い男、細長い体の男、青年くらいの男女。

 一目して、真っ先に少年の背筋をこすったのは、彼らが座っている椅子だった。触れないように互いに距離を考慮しながら座っているものの、痛みは感じないのだろうか?

「あの椅子はソファといって、優しい絹の糸で覆われた椅子なんだ。だから安心して座ってほしい」

 少年が気にかけたのを察したのか、男は配慮するように言った。

 二人は脚の高い円形の机を挟んで彼らと向き合うように座った。

「これは何の準備?」

 机には大きな文字で短いフレーズが書かれた看板のようなものが置かれていた。

「明日、選挙の演説があるんだ。この地区の代表が選ばれるんだ。その準備を手伝ってもらっている。僕たちは、全員で会場に向かうつもりだ」

 どうやらこの男は、同胞から相当な信頼を得ているようだ。でなければ、大勢が集まる危険な場所に下界の人間がついて行こうとは決して思うはずがないだろう。

「一気に勝負をかけるつもりなのね」

「ああ。ずっとこの時のために準備してきたんだ。きっと大丈夫。この辺の人たちは意外と指示してくれているんだ。無理強いするつもりはないが、君たちも一緒に参加してくれないかな? 仲間がいると心強い」

 突然の要望をこめた誘いに、無意識に少年の瞼が、はっきりと開閉を繰り返し始めた。

 隣に座っていた女が「どうする?」と話すには、少し近いぐらいに顔を寄せ、瞳を合わせた。きっと、彼女は少年の答えがなんであろうと参加するつもりなのだろう。敢えて聞いたのは、危険に遭う可能性があるからであろう。

 少年は演説という言葉を耳にしたものの、そのイメージを思い浮かべることは全くできなかった。

 それでも、彼は自分が同胞たちと共に同じ行動することに対する好奇心に、喉を詰まらせていた。

 彼は、女に向かって一つうなずいた。

 

 燦燦と照る太陽が舞台の前に集まった大衆の黒髪を白く焼き付けていた。彼らはステージの横にある厚い布の天井で守られたテントの中で、一人の政治家の話を聞いていた。

 一寝して、朝になった世界に浸ることよりも、少年は昨日眠る前に浮かび上がった疑問に頭を狭くしていた。人々はなぜ不老不死になりたがったのか、そのことで一杯になった少年の頭には、男の話ではなく上り下りを繰り返すエスカレーターしか浮かばなかった。

 若い肌のまま永く生きられることがそこまで魅力的だろうか?

 そうはいっても、少年は短く生きたいのと聞かれれば、それは違うと答えを出していた。死にたいという想いはない。

 少年はこのまままだ知らない世界を知れさえすれば幸福なのだろうと固く思った。

 しかし、不死の身体なら飽きることなく世界を堪能することができる。

 そんな体でも彼女は死にたいと漏らしたことがあった。

 悶えるほどの痛い思いをしても、その痛みが消えるまで耐え続けなければならない。死ねないのだから、痛みも死ぬことはないのだ。

 不死はただ、生き地獄を味わうための体質に過ぎない。上界の人間が死ぬときの苦しみを身をもって知ることが無いかぎり、不死の実験は続いて、失敗作と呼ばれる人間が増えてしまうのだ。

 男が話し終えると、ぼうっとしていた少年の腕を女が引っ張って、フードを被って、ステージに出て行く同胞の後ろをついていった。

 日光の下で、上着を身につけ、頑なにフードを被るという異様な姿がステージに並んでいるのにも関わらず、大衆の視線はどれも政治家の男に向いていた。ここに居る大衆は、下界の人間に大いなる敬意を払っているのだった。

「私は不死の実験の被害者たちと共存すべきであると考えている。確かに彼らはこの太陽が照らす地上において、我々と同じ仕事をこなすことは難しいかもしれない。しかし、それは今ある仕事だけだ、まだ開発されていない手袋や衣類が作られれば、彼らも土地代、税を払うだけの資金を手に入れることが出来るはずだ。現に今、彼らは御福で日光の下で立っているではないか。ならば上界と下界で別れる理由はなんだろう? それは我々が彼らを恐れているという理由しか残らない。そして、怖れを嫌悪と勘違いし、団結し、彼らを省こうとする者たちがいるのだ。ふざけた理論だ。今すぐにでもこの差別的な行いを辞めるべきだ。そして、二度とやるべきではない。私を支持してくれ。良い社会を目指す前に、金と利益を求める社会を目指す前に、悪い社会をやめることを私は願っている!」

 大衆たちが集まる会場で、歓声が響き渡った。彼らの皮膚が圧迫するほど、会場の空気は揺れて伝わった。

 拍手は勢いを止めず、彼の政策を励まそうとする声がステージに飛んでくる。彼は礼を告げたあと、目が膝に着くほど大きなおじぎをした。男の頬は火照っていた。

 少年は大勢の称賛の声を浴び続ける彼の背中を一部始終、じっと見つめていた。

 彼の胸にできた湖で男の像が反射し、いつでも思い出せるように脳に焼きついた。

 無念お腹の大きな塊の核が、どくどくと大きくなって、息が閊えていた。

 少年が男に向けたのは敬意の眼差しであった。彼は生まれて初めて、憧れという感情を胸に抱いたのだった。

 純粋な眼差しが男の背広に見入っていると、大衆がざわめく視界の奥で、突如違う色の声があがった。

 それは男の声で、しかし女のような優美な色が隠されていた。

「目を覚ませ、愚か者ども!」

 そこにいたのは、肖像画の青年のように美しい顔立ちの、金色の髪で蒼い瞳をした男だった。

 そいつは高級そうな布でできた赤いマントを羽織り、白い護衛に囲まれた姿は、まるでおとぎ話の王子のようだった。

 威厳のあるその姿に、少年は目を奪われながら、その人物を取り囲む護衛の姿に違和感を覚えた。

 護衛は人間の形で二足歩行に立っていながら、橙色の肌をしていなかった。肌が固そうで、顔の形もきまりきっていた。地下に降り注ぐ清澄な白光に似た静けさを放ち、壁のような肌が、人形に張り付けられているように見える。

 好奇の気持ちと同時に、体温が真ん中から冷えきっていく感覚に少年は陥った。

「貴族さま!」と彼を見て、大衆の熱狂が静かに、一気に消えふせた。

 「あいつ……」とつぶやく女の声を聞いて、いよいよ少年は事態の滞りと気まずさに気づいた。

「そいつらは下界の人間だ。上界の人間とは全く違った生き物だ。飢えることで死にもしない身体を手にしながら、食糧を求め、日光の下で暮すこともせず、役に立とうともしない。弾丸を肌に食らおうとも、死にはしない。悪魔が連れてきた化物だ。食べ物すらまともに得られないこの国に住みつこうとする害悪どもと共存するなどという思想はもっての外だ。その政治家の男をとらえ、掟を破った下界の人間どもに痛みの刑を与える。立ち上がれ、大衆たちよ、私に力を貸すのだ!」

 そこにいた一人一人の大衆たちは、地面を震わせるほどの動揺を露わにした。空気の揺れがより肌に感じられた。「そうだ、こいつらは俺たちとは違うんだ」と言い出す者がいて、ステージに立つ彼らに敵意の眼差しを向ける者が一人現れると、「そうだ」と続けるものがいて、最初は一部でとどまった剣幕も次第に増えてゆき、やがて大衆の全員の目が彼らに集まった。

 事態を政治家の男は察知した。

「逃げるんだ、早く!」

 男が促すと、少年と女含め、計七人はいっせいに下界の入り口へ向かって足を踏み出した。

 少年はこの一連の意味が理解できなかった。何をもってあの金髪の男の言葉が大衆をゆるがすことができたのか、さっきまで賛同していた大衆が敵意を向けてきたのか理解できなかった。

「あの男はね、この土地の一番偉い人なの。あいつが不老不死の研究を行っているのよ」

 女の足の衝撃に歪ませられた横顔の表情が綺麗だと少年は思った。

 自分が下界にいる理由も、あの貴族が関わっていることが大きそうだった。

 あの男が自分たちを失敗作だと扱おうとした首謀者なのだった。

 少年以外、足を踏み出す勢いの痛みに耐えながら、政治家の用意した家に向かっていた。しかし、彼らの前に数人の曇った顔をした大人が現れた。その手には斧が握られていた。彼らは足を止めざるを得なかった。

「道をあけてくれ。彼らが捕まってしまう」

 政治家が訴えるのを最後まで聞かず、大人たちは斧を振りかざした。突如振りかざされた斧の刃先にいたのはあの女だった。何をすることもできず、振り下ろされる銀の刃を、女は唖然と見つめていた。

 ただ一つの太陽が真ん中に浮かんだ、不気味なほど真っ青な空に、真紅の血が飛び散った。

 女の目に移ったのは、目の前で、自身に向けられたはずの斧の柄を受け止め、白髪を血で染めた、少年の姿だった。

 地面に浮かんだ、自分を守る影が少年のものだと知ると、彼女はのどからあふれ出しそうな悲鳴を手で強く押さえた。

 少年は脳天から血を流し、それでいても虚ろな瞳をして立っていた。

 その瞳に映し出された大人たちの顔は、鮮明に青くなっていった。

「化け物め……!」

 狼狽えながら、大人たちは地面を這い、その場から逃げ出した。

「大丈夫か!」

 政治家の男をはじめ、同胞たちは駆けよった。そのとき、珍しく少年の瞳は暗く、物憂げな輝きを宿していた。彼は、損傷した頭を手で触れ、泥のような感触のする血をじっと見つめている姿に、彼らは吐き気を感じた。

「……痛いです」

 政治家の男を通り越して、その言葉は尻餅をついた女の耳に繊細に響き渡った。痛みを感じないはずの少年のこの言葉はあまりにも新鮮だった。

「すぐに医者のところに行こう、さあ」

 男が太い血管の浮きでた手をさしのべるも、少年は真摯に首を振った。

「傷は痛くないです。ただ……このあたりが苦しいんです」

 血が乾いて茶色になった彼の手は身体の真ん中に当てられていた。

 頬を強張らせた女の瞳には困惑の色が浮かびあがった。しかし、なにも知らなかったその他の同胞たちは、少年を見る瞳の上にある眉を斜めにした。

「どういうことだ、傷は痛くないのか?」

 政治家には隠していたことだった。

「はい。僕は痛みを感じない……らしいです」

 彼らは少年の思いもよらぬ告白に、ぴたりと動きを止めたあと、互いに顔を見合せ、風がなびかせた麦のようにざわめき出した。

「とにかく、ここを離れよう。みんな、着いてきてくれ」

 唯一訝しげな顔をしなかった政治家の男は、一同の動揺を紛らわせるように、路地へ向かった。

 

「痛みを感じないのに、ずっと下界にいたのかい?」

 日光の届かない建物の陰で、彼らは足を止めた。なま物が暑さでやられた臭いが、蔓延っていたが彼らは気にとめなかった。

「はい」と少年は答えた。……そんな、という声が集団のなかでこぼれた。
 
 再び起こったざわめきを抑えようとした男は両手をうわつかせている。女は口を噤んだ。

「それじゃあ、まるで不老不死の完成形みたいじゃないか」

「……痛みは感じないけど、皮膚の弱さはみんなと一緒なんです。刺激を受けた部分は赤くなります」

 彼は自分が下界の人間とそう変わらないことを述べたかったが、問題はそこにはなかった。同胞たちの顔に不快の色が表れた。

「この子をあの貴族に渡そう」

 大柄の男があてどのない遺憾さをつのらせた声を出すと、政治家の男は目を見張ってそれを否定した。

「何を言っているんだ! 君たちは、仲間なんだろ!」

「しかし、このままではすぐに捕まっちまう。あいつらは不老不死を欲しがってるんだから、許してもらえるかもしれない」

 政治家は視線を下ろして、歯を食いしばった。彼の目にはごみを運ぶ蟻の行列が映った。

「この子は子どもなんだぞ、奴らにどんなことされるのか……」

「この子が奴らにとって貴重な存在であるなら、不遇な扱いを受けるとは思えない」

 頭を抱えた政治家は、自分を見つめているはずの少年に目を向けようとしなかった。

 彼の視線は無意識に親子を映し出した。

「俺は行ってもいいです」

 機微のない、静かな声に一同が振り返った。

「……みんなが助かるなら、それでも」

 とっさに少年は自分がここまで来た経緯を思い出した。彼がここまで来たのは外の世界を知るためだった。あの金髪の貴族のもとに行くのなら、ここより新しい世界を見ることができるのだろうか? しかし、我が儘でついてきて、同胞たちの身に危険が及んでしまう。

 自分の好奇心と同胞の命運、どちらも手に入れたい欲望がぶつかり合って、混ざり合うことがなかった。

「駄目に決まってるでしょ、そんなの」

少年の言葉のたじろぎを遮ったのは、女のあっさりとした声だった。

「あいつら、実験台にあなたを使う可能性だってある。拘束されて生きるなんて、嫌でしょ」

 軽々と言い終えて、女は少年の方を見て、ニコっと笑った。その笑顔は少年の胸に灯りを宿した。そして彼の胸の中から顔に温かさを伝えて、口を閉口させることを忘れさせた。

「さっき、守ってくれたんでしょ。ありがとう」

 女は少年に近寄ると、周りに聞こえないようそっと呟いた。

 政治家は女の、犠牲を出すのではなく、一緒に生きていこうとする心に気づき、目の輝きと希望を取り戻した。

「あの医者なら、彼なら、何かよい方法を知っているかもしれないんだ。みんなで助かる方法を」

 政治家が提案すると、同胞は不安の表情を漂わせてはいたが、それは不信感とは違っていた。彼への信頼がその不和を緩和させたことは事実だった。

 その時、パン、パンと高い音がビルの隙間に覗いた遠い青空に響いた。

 少年と政治家以外、耳をふさいで目を細めた。

「追手が近い、移動しよう」

 彼の呼び掛けに一同は走り出した。

 知らぬ音にどよめく少年に、女はこの音が銃弾で、銃がどのようなものなのかを説明した。

 遠くで銃弾を受けているのは、下界の人間を支持した人間かもしれないのだった。

 地面を覆うのが陰から日光に変わる境目が見える。一つ向こうの路地に医者の家があるのだという。

 厚着の暑さに朦朧としながら、彼らはもう少しで解放されることを信じていた。

 あと少しで、一事を免れることができると。

 しかし、その日光のあたる横道には影がならんでいて、向かいの路地への道が見えなかった。近づくに連れ、それが人の列であることを認識することになった。

「止まれ!」

 蜃気楼の向こうに迷彩柄の防護服とマスクを身につけた人間が列を成し、銃口を向けていた。後ろには白い巨大な車が横にそびえていた。

 政治家の合図で引き返そうとした彼らに、ガスマスク越しに声が飛ぶ。

「手を挙げて動くな! 我々は政府の軍事組織、発砲の許可も与えられている」

 暑さが重みに変わって、彼らの身体を上から押さえつける。

 足を動かしてはいけない。銃口が囁いた。

 銃弾に当たったとしたら、同胞たちはどれくらい痛むのだろうか?

 銃口の列の奥から、金髪の貴族がてくてくと高級そうな靴を大股に響かせ、列の中心に止まった。

「貴族らは罪を犯した。地下での暮らしを与えられているというのに、それに感謝することなく、欲を露にしたのだ。銃弾の雨にその身を壊されたくないのなら、その場にひれ伏せ」

 政治家の頬に一滴の冷たい汗が流れた。同胞たちは、銃口にひどく怯えている様子である。

 少年は暗い穴から何かとんできて、それがいかに同胞たちを苦しめるのか、分からなかった。

 きっと痛いのだろう。

 しかし、自分は全く痛みを感じないのだろう。

 彼は貴族の冷酷な青い瞳を見つめて、境界をまたいで日光があたる地に足を踏み出した。

 それに気づいた金髪の貴族の目は、ぎょっと見開き、驚異の色を表していた。

 その背中に感化された同胞たちは、子連れを残して、叫び声を震わせながら銃口に向かって走り出した。

 政治家ははかなげな目をして、手を伸ばしたが、空を掴むことで終わった。

 やがて、女もその身を乗り出した。

 その時、金髪の貴族の美しい形相が、丸められた紙のようにしわくちゃになった。しかし、下界に閉ざされて生きてきた人間たちの行進は止まらなかった。日光で肌が焼けても据わった彼らの目が揺らぐことはなかった。

「何をしている、早く撃て!」

 その異様な光景に怯んだ警備隊たちは、遅れをとって構えていた銃の引き金を引いた。パン!パン!と鳴り響いて、銃弾は落ち、彼らの足に血の模様をつくった。しかし、傷は痛みを置きざりにして修復し、彼らの怒号と足音はますます強くなった。

「もう、こうする以外ないみたい」

 不器用に笑って女も日光のもとに飛び出した。

 政治家の男は始めて弱った目をすると、子連れの親子を連れて、横道に消えて行った。

 自衛軍たちは弾がきれるまで発砲すると、一斉に恐怖の悪寒をマスク越しに醸し出した。やがて一人が銃を投げて、後ろに走り出した。

「何をしている! 早く撃つんだ」

 貴族の震えた叱責に、自衛軍は銃弾をこめ、再び発砲を開始した。一直線に空中を突き抜ける銃弾は、彼らの身体のあちこちに傷をつくった。

 猛烈な痛みが押し寄せようとも、彼らは止まらなかった。

「きっと少年の勇気が彼らに力を与えたんだろう……」

 政治家は思った。

 青空に桜のごとく血が舞い散る。それでも止まらない、下界の人間にやがて上界の人間が追いついた。彼らを指示する人間たちは、声を挙げて加わると、そこは大きな祭を形成した。

「上界の人間には間違っても発砲するな!」

「しかし、そうしなければどれが下界の人間なのか……」

 唇を噛みしめた貴族は獰猛な景色の中で、仲間がぼろぼろになって行進するのを、無気力に見つめている一人の少年を見つけた。

 少年は見つけられたことに気づかなかった。

 痛くなかった。

 弾丸が腹部の臓器をねじっても、右耳をかすって流血しても、痛くなかった。

「あの少年を捕まえろ! 捕まえた者には、我の資産を半分くれよう!」

 一同の視線を浴び、指を指されたのが自分であることを認識した。

「逃げて!」

 彼は耳元ではなく胸で音を聴いた。人々の集合する狭間から、女の声がした。彼の足は無意識に引き返そうとした。しかし、下界の男の喚き声に足を止めた。

「奴は私が探していた不老不死の人間だ! なんとしても逃がすな!」

 彼の目の前で、大柄の男が膝を崩し、その場で失神した。同胞の一人だった。痛みに耐えきれなかったのだ。

 胸のもやもやが彼の血を吸い取り、全身が冷たくなっていく感覚を抱き始めた。

 負傷した女が人影に呑まれて、苦み、もがく顔をしていた。

 太陽さえなければ。

 彼にとってなんともなかった、ただ不思議な丸い、届かない存在だった太陽が、今では同胞の皮膚を焼き殺す紅い悪魔に変わった。

 貴族は少年に現れた異変に気づき、あることに思い当たった。

 彼が銃弾を受けているときではなく、仲間が血を流したときだけ、絶望を目に彩らせていることを、貴族は見逃さなかった。

「少年じゃなくてよい、他の者を痛めつけろ」

 貴族の目に黒く燻る荒んだ悪意が輝いた。

 そして、貴族は指を差した。

「あの女だ」

 少年が外の世界を見ようと決心したときの、彼の意思を動かした、熟々とした熱が全身を奮い起たせ、そのエネルギーは彼を走らせた。

 密集した人通りを突き抜け、やっと見つけた彼女は、人並みに押し倒されそうになっていた。

 空の青をより鮮明に映し出した瞳をして、女は呼吸をつっかえていた。

 今なら彼女の気持ちをわかった気になれた。

 彼女は少年がここにいることを望んでいないのだ。しかし、それは喉の傍でひっかかり、言葉として外に出なかった。

 貴族は前に立った少年を見下ろして、顎をしゃくり上げた。

 少年は身体が煮えたぎるのを感じた。まるであの日食べた鯛が湯にだしを流すように。

 彼が胸を痛いと思ったのは今日が初めてだった。

 貴族は姿勢を変えず、言った。

「来てくれれば、君は上界で生きていける。さあ、こっちに来なさい」

 金髪は周囲の大人たちの目を気にして、諭すような口ぶりで言った。

 少年は下を向いたまま、身体を震わせていた。

「もう辞めてください。……僕は行きません」

「どうしたというのだ? 一体何が不満なのだ」

 眉を曲げ、険しくなった金髪の剣幕を少年は見なかった。

 少年はわずかに熱のこもった手のひらを握りしめた。

「……生きたいです。みんなと、生きたいです」

 その瞬間、雄弁に話を続けていた貴族がまばたきを止めた。そこにいた人間たちが、少年の頬にこぼれた涙を、一点に見つめていた。

 太陽に彼の涙が煌めいた。鼻をすすり、ぼろぼろの裾で目を拭う音が、静寂の幕が降りた空間を重い響きで満たした。

 その姿は貴族の口を数秒黙らせた。しかし、彼は我に返って危機的事態を察知した。

 自分に、ありったけの敵意と、思い出したような憎しみの目を向けていた。

「仕方あるまい」

 金髪は背後の車に目をやると、胸ポケットから黒い長方形のリモコンをとりだした。指でそれを動かすと、車のドアが横に開いた。

 出てきたのは、白い肌をした人形だった。

 少年はその光景を涙目で一目して、息を呑んだ。

 自分達と違う肌でできた者たち。

「……あれは、人造人間よ」

 振り向くと、静かになった密集から、傷のついた姿で出てきた女の姿があった。

 彼が安堵の気持ちを思い出すが、周囲は再びざわめき会い、歩いてくるそれらから背を向けて逃げ出した。

 

 約十年前、上界の人間たちは貧しかった。敗戦した国は食糧が不足し、教育もおろそかであった。しかし、国民の努力と我慢の末、奇跡的に経済成長を遂げ、国は大きく発展した。その裏で欲を出した人間が、永久に生きようとする思想をもち始めた。

 これは、不老不死の実験の言い訳に過ぎなかった。

 食糧不足は解消されず、彼らが出した答えは、戦争だった。

 少年の前に現れた人造人間たちは、痛みも知らず、死にもしない。永久に戦闘に出向かせることができる。

 金髪が再び指でボタンを押すと、人造人間は音を立てて走り出した。民衆の一人が鉄の拳で倒された。

 少年の頭の中は真っ赤になった。貴族自身も民衆が淘汰されてゆく姿を見て、どこか苦い物を飲んだ表情をしている。

 やがて、人造人間たちは民衆を蹂躙してしまうのだろう。

 それを止める術を少年は最初から知っていた。

「僕は行きます。ありがとうございました」

 女の瞳に水が浮かんでいた。手を伸ばしても少年の背には届かず、空を切った。

 人造人間から逃げる人々の波に逆らい彼は歩き出した。

「まったく……、あれほど連れちゃだめだって言ったのにね」

 にわかに聞こえた声の方に少年と女は目を向けた。

 下界で見慣れた格好。緑のジャンパーと汚れた靴。

「……あなたは」

 少年に食糧を与えてくれた老人である。

 老人は少年の方を向き、あまりにも無謀な格好と余裕のある表情で立っていると、不思議なことに人造人間は動かなくなった。

 金髪は口をぽっかり開けて阿保面を晒した。

老人を見つめて、約100体の人造人間は動かなくなったのだった。

 立ち尽くしていると、政治家の男が姿を現した。

「あの人が、僕の信頼している医者だよ」

 政治家が呟くように言うと、老人はいつものにやけ顔でのそのそと歩み寄った。

「少年、どうする? お前はこんな世界で生きたいと思うのかい?」

 彼はすぐに言葉を出せず、代わりに首を横に振った。

「わかったことがあるんです。俺の傷は痛くない。だけど、自分を守ってくれた人が傷つくと、胸が痛いんです。……みんなには傷ついてほしくない」

「そいつは無理な話だな。お前さんに残されている選択肢は二つだ」

 太陽の元で見る老人の手はひどくよぼよぼだった。彼はそれでピースをつくった。

「お前一人が傷ついて、自由な人生を諦めるか、みんなもお前も傷つく世界で生きるか、どっちかだ」

 痛みを感じないで生きる選択肢などなかった。

 周囲の視線が自分に集まっているのを感じながら、少年は政治家の顔を見た。彼が手で押さえる右肩から赤い血が滲んでいる。女の方を見た。彼女は今まで堪えた苦しみが飽和して、それでもなお正常に立とうと、涙を留めている。

 少年はあたりを見回した。自分達を見つめる負傷した人間たち。

 少年は金髪の貴族の瞳に映る自分を見た。さまざまな感情が溢れ果てて、痛みを覚えた自分がいる。

 彼は何かを見ている。形がない、しかし光りのあるものだった。あの下界にあった灯のように、希望に満ちた光りの目で、世界を見ていた。

「……俺は、それでも生きたいんです」

 老人は一度目を閉じて、微笑んだ。少年は既視感を覚えたが、思い出す間もなく、老人は歩き出した。

「そうか、ありがとな少年。楽しかったよ」

 向かってくる老人を見て、貴族はあわててボタンを押したが、何も動かなかった。異変は恐れに変わり、自衛軍を呼び掛け、一斉に向こうへ走り出した。

 「先生……」政治家が言いかけたのを追い抜いて、女が「お父さん!」と叫んだ。

 老人は背中を見せたまま、胸ポケットを漁り、リモコンのボタンを押して、片手を振った。

 政治家が少年と女をかばうように手を広げた。老人の背中が光に包まれてゆき、莫大な音がすると、それに包まれ、何も聞こえなくなった。人造人間が爆発し、身体のパーツからばらばらに散った。

 やがて、そこには黒い巨大で丸い跡地ができあがった。

 アスファルトの削れた地面には、人造人間の破片が散らばっていた。

 三人は、たった今起こったことを思い出した。

 青い空に上る太陽がこんなにも燦々と綺麗で、あたたかいのに、見上げると目が濡れた。

 

 不老不死の実験について、その目的が長寿のためだったのか、戦争で不死身の戦闘力を駆使しようとしたのか、知る者はいなかった。

しかし、その実験を通し、失敗作として、人ならざる者として、区別されてきた人間がいた。

 彼らは歩いていた。政治家に支持者が増え、この地に彼らが生活を送れるよう、政策を始めたところであった。

 事件の一部始終を見届けた貴族は、それに大金を用意することを約束した。

 少年は未だ見ぬ世界を見るために、旅にでることを決意した。

 政治家が手を振った先には、大人の途中にいる少年と、それを見守る女。二人の背中があった。

 どんなに傷ついても、痛くても生きる彼は胸にそう決めたのだった。

 女は自分より低い少年の手を取り、引っ張った。

 一歩先に、色とりどりの未知の光が輝いていた。

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