短編小説「レモン・ムーン・ナイト」~どうにもならない少女~

 その日の夜はものすごく体がよかったのでした。
 快調と絶好調、凌駕するそれは この上ないほどの気分でした。
 短気な私にとって始終堪忍袋は空気を入れたてたばかりの小さな風船のように破裂しやすいはずなのですが、なんといえばよろしいのか、その夜は些細な言葉さえも呑み込むことが出来たのです。
 たとえ下を向いただらしない姿勢を指摘されたとしても、私は言い返さずに済んだのでしょう。
 そういえば今彼女に向けられる視線も、私を傷つけようとする意地悪な魂胆をもつ目つきだということは否応なしに受け入れられるのですが、なぜでしょうか。
 とりあえず言いたいことは、私はものすごく気分がよろしいということなのです。
 物理的な攻撃をされようともきっと黙って、良心を否定することを言われようとも、やはりこれも黙っていられるはずなのです。
 それだけなのです。
 私はどんなことをされても、愚か者で品のない阿呆のような怒りを上げないと約束しましょう。
 そんな昼にも似つかわない朗らかな気分で、私は月光を頼りに靴をはきました。

 男が一人、私の前に立っていました。
 秒針のリズムと雨音に湿った緑色の香があたりに漂っている中、見上げるとその顔がありました。
 私はこの男の顔をどこかで見たような記憶がありました。長い茶色い作業服。髪は灰色で老けていて、ハリネズミの毛を短くしたような印象でしたが、それとは対照的に瞳がすごく濃いのです。目力というべきかもしれません。
 そして何より私がその男を怖いと思うのは、彼の左手にレモンが握られているからでした。
 一体この男は誰なのか。ここはどこなのだろうか。
 思案をしている内に私は手のあたりが重いことに気が付きました。冷たい鉄の感触が皮膚を締め付けているのでした。手首に目を向ける前に、その重さの正体は低い声によって暴きだされたのです。
「手錠に爆弾を仕掛けた」
 私の体は野生の感が働いたのかの如く、腕の方に目を向けたのでした。ただの手錠。
 画面越しでしかよく見かけないそれは、私の心を強く握るのです。
 そうしていると彼は左手のレモンをゴッソリ齧りました。
「逃げ出そうとしたら、バン、と爆発させるからな」
 彼は口と目を大きく開いてそう言い捨てたのでした。
 するとどこからか怯える声がしました。泣く寸前にこぼれ落ちる嗚咽に似た悲鳴が生々しく耳にしがみつこうとするのです。
 これが白いタオルの隙間からのぞいた私の悲鳴だったと気づいた時、頭に真っ白い空間がただ浮かび、体が震え出しました。
 誘拐された。この事実がすぐそこにあるということを理解するにつれ、目があたたかくなっていき、その声も壊れた機械音のように彼には聞こえたのでしょう。
 すぐに彼は野良犬のように歯に力をこめて、振動を鳴らしながら私の髪をつかみ、左右に振り回して後ろの壁に押さえつけました。
 彼の左手にはレモンが握られたままのようです。
「静かにしろ。静かにしろ。俺はこどもの泣き顔も、声も、自信いっぱいに笑う仕草も、すべてが全て大嫌いなんだ。今すぐにおとなしくしろ」
 声が出てこないように噛みしめました。目も閉じました。何も見たくありません。
 早く消えてください。この恐怖から解放してください。神様助けてください。神様。
 命の危機が迫ったからでしょうか。私は救いをもとめたのです。そこに羞恥はありませんでした。
 きっと善人だったなら、死の局面に立った時、親とか、友人とか、大切なひとたちの顔が思い浮かぶのでしょう。そうなったらどれだけ良いことか。
そんなことはどうでもいいのです。今、自分は己の命の安全を熱望しています。
「そうだ、それで良いんだ」
 両耳から入って抜けていきました。
 足音が遠ざかるまで、目を閉じました。

 彼の声を聞いてから、時計の音がどれだけなったものか。
 私は閉じていた目を開いてしまいました。
 幸い、目の前に彼はいないようです。外の白い景色が部屋を照らし、よく見えます。
 窓を見ると、深い緑の木が一面に立っていました。どうやらここは、森に囲まれた家のようです。
 出もしない溜息をしようとするほど、安堵が体の重りを解き始めました。体を後ろの壁に寄りかけます。その時、横の奥に彼の姿が見えました。少し離れたソファによりかかり、分厚い茶色いカバーの本を片手で見つめています。
 気持ちをとどめている暇などやはりなかったのでした。忘れかけていた恐怖が心を締め付けなおします。解放などされていなかった。
 この角度からだと、彼の視界は私の姿をとらえているようではありません。本を読んでいるのならなおのことかもしれませんが。
 やはり脱出する経路を考えなくては。
 手錠をほどいて、外に出る。そのために。
 こうしていると彼は手元のレモンを硬そうに一齧りして、本を閉じ、ソファ前の小さなテーブルに投げすてると私の方を確認したのでしょう。瞳が合ってしまう前に眠るふりをし、ばれないようにと動かないのでした。再び目を開けると、寝転がるわけでもなく、ソファに瞳を座らせる彼の姿を確認しました。
 この機会、隅々まで部屋を見渡します。散らかっている様子はなく、日常品もそろえば、立派な部屋でした。敢えて貶すとしたら天井に蜘蛛の巣があるといったところでしょう。
 キッチンのようす。テーブルの上の籠。籠の中のレモン。古びた窓。とまったレコード。
 慎重に家具を分析していきました。そうすることで同時におぼつかない精神を整えようとしたのでした。
 そんなつもりだったのでした。私が目を向けた棚。少し離れた正面にある横に細長い木製であろう棚。
 そこにナイフがあったのです。ローズ色の香りをただよわせ、男の首さえも切ってしまいそうな銀のナイフが翳されてあるのでした。
 今にも飛び込もうとしました。そのナイフに向かって飢えを満たそうと体がはしるように動いたのです。
 むやみやたらに物音をたてるのは危険であるとわかります。しかしこのような誘惑にさえ引きずり込まれてしまいそうなくらい、私の精神は歪んでいたのでした。
 どうしてあのナイフを持ち出せばよいのでしょうか。手錠のおかげで彼が寝ている間に近づくことも出来ません。
 あ、浮かびました。魅力的な、憑依的な、案を思い出しました。
 騙せばよいのです。彼を騙してしまえばよいのです。
 信頼を得て、まず手錠を外してもらう。
 そしてあの煌めくナイフを奴の喉ぼとけに突き立てて、脅してやればいいのです。ここから出すようにと。
 もし、言うことを聞かなかった場合は……。

 朝鳥が鳴いています。ここは木の空気に包まれた森なのです。とぎれた水色の雲が窓の外から部屋を透す、綺麗なはずの黎明なのです。それでも、晴れない。意識を乱す存在しないはずの霧、どこか駆け巡るような鬱陶しさ。苦しい、苦しい。
 脳みそやら抹消神経やらが散り乱れそうなのです。
 一睡もしていないからではない。隈ができていることを確認できないからではないのです。
 この迷走するどよめきの正体は、すべて彼が元凶なのです。
 あの老いぼれの死への脅迫こそが私の身に毒なのだ。これだけは変わらぬ事実なのです。
 今から私はこの心を隠して彼に信頼を寄せることを想像すると、血反吐や臓物が込み上げてきます。
 そして彼は起きあがりました。腰を押さえ、大きくこちら側に曲げました。
 レモンを食べる老いぼれに向かって私は言いました。
「おはよう。タオルがほどけてしまったのだけど、直さなくていいのかしら」
 ドアノブが回るように彼は片目をこちらに向けました。
タオルは首を動かしているうちに緩んでいたのでした。そこで思いっきり振ると簡単に落ちたのです。
 返事をせずに、彼は顔を正面にずらしてしまいます。
ですがここで引くわけにもいかなそうです。
「ねえ、きいてちょうだい」
 そう願うと彼は餌を乞う子すら襲うカラスのような声で叫ぶのです。
「だまれ。昨日静かにしていろと言ったはずだろう。今行くから待ってろ。殺されたいのか」
 このようなおぞましい声色の返事に袖をさすると、彼はすぐに立ち上がり、昨夜よりにぶい足音が、自分から呼んで悔やんでしまうくらいに迫ってくるのでした。
 すぐそこの床にあるタオルを拾うそぶりも見せず、作業服のポケットに手を忍ばせたのです。まるで危険物を保管する警官、いや泥棒のようでした。
 金具の音がします。一発砲撃するために準備をするその音でした。
 底知れない影が潜んでいるのであろう洞穴によく類似する銃弾の出口が私の額に、冷たく触れます。
「いいか、いつだって殺すことはできる。タオルなどは不要だ」
 拳銃。
 誰が一体そんなものをこの男に所有を認めたのでしょうか。
 私の頭の中で火の色をした溶岩あふれる感覚がするのです。まるで血流が反対向きになって横に流れてしまったのではないかと思ってしまうほど。
 赤くなるこの状態の中、どうして拳銃を持っているのかという疑問に虜になりました。
 なぜ銃弾で、今にも殺さないのか。
「ごめんなさい。ごめんなさい。それでも一つだけ質問にこたえてはくれないかしら」
 顔の部品を怖くもばらつかせながら、唸って、ようやくこの要求を許可してくれました。
「あなたはどうして、私を拘束したの」
 外が薄暗くなりました。まるで糠雨でも降ってくるのではないかとおもわれるくらいに。窓に光が反射されないのです。その代わりにはっきりと、蠟燭の火のごとく消えてゆく表情、そんな像がかすかに揺れていたのでした。
「聞かせて。ねえ、知りたいの」
 森を凌駕する、はるか遠くの街まで届きそうな怒声が左右の耳を通り抜けました。
「知ってどうする。そんなもの理由などあるものか」
 レモンが下にぼとりと落ちました。彼の左手が死体投げつけたのでした。
そして彼の空になった手によって、私は頭を壁に放り投げられました。痛みではなく汗のようなものが全身を燃やしています。自身は何を聞いているのだと、いつ殺されてもおかしくないこの状況で何の本能がはたらいているのだと。
 私の視界はデクレッシェンドの記号を描くように落ちていき、瞬時に三つの景色が目に映りました。
 彼が持つ銃口に詰まった眼玉のように光る鉄球。
 左手から落ちたレモン。
 最後の一つ、これだけが私には鮮明に光って見えたのでした。どこの家にもあるであろう、誰もが持っているであろう、思い出の象徴であろうもの。
 壁の衝撃が横の棚に伝わり、ガラスに閉じ込められた紙が落ちてきます。縦にほんの長い、微妙な比率を飾った写真、一枚の記憶でした。
 その写真が落下するのを、彼の目は見ていたらしいのです。
手の力が抜けて、途端にあの銃口から殺意は煌びやかに消えていきました。
気が付くと、写真ケースのガラスは聞こえない悲鳴をあげて割れていたのです。
 私はその写真をずっと、映画鑑賞者の気分で眺めているしかなかったのです。

 服の蒼い男。女の人。灰色の髪の子どもが一人。

 服の蒼い男は不器用な表情で正面を向き、周りとは違う色彩を放っていました。
 きっとこれが家族写真だということは、誰でもわかるのでしょうが、どうも疑ってしまう点があるのです。
 背景には緑青の木々、空は灰、一部を除いて表情は晴れ。
ここまでは良いのですが、その表情違い、雲と空が境界線をもって分けられているように、真ん中に大きな木があるのです。
 私は麻酔にかかるように、頭が揺れ動くのを感じました。それは嗅覚を強く刺激する、何かの匂いに溺れるような感覚にも似ていました。その木には黄色い実がなっているのです。
 彼の左手にもある、黄色い塊り。この果物に魅せられる理由がわからないのでした。
 その木は二人と一人を分け隔てる境界線の役割を果たしているのです。偶然生えているのではなく、本当に線を引くために生えしまったような。
 視点を前に向けると、彼は何ごともなかったかのように、気づかなかったかのように、散らばったガラスに覆われたその写真を拾いました。
 今、私が話しかけてはだめだと、ガラスの破片を数える振りをしました。
「『レモン』は、苦しみの証明なんだ」
 誰の声かしらと疑ってしまうほど、警察が犯人を調査するときに聞くような、知らないようで、心のどこかで認識したことのある声でした。
「酸味があると思いきや、後味が苦い。舌で舐める前にその味を危険視される。その一瞬、存在が危険物に代わる。間違いなく果物の中で、最も嫌われものだろう」
 このレモンが一体何だというのか。
 私が乱れた髪の間から視線を向けると、彼は右、左とその透明な目を動かしたのち、寝床となっていた椅子の方に歩を進めていきます。
「まって、あなたのことをしりたいの」
 それでも彼は、聞こえないふりをして椅子に座り、大きな本をめくり始めました。あの茶色い図鑑のような本は、やはりどこかで見たことがある気がするのでした。
「お願い。これは家族の写真よね。そのことについておしえてほしいわ。それさえしることができたら、殺されたってかまわないは」
 我ながら、と思いながら彼の様子をよく見ます。止まっているのでした。
 風景画を眺めるような五十秒を過ごし、やっと彼は立ち上がりました。
「写真を見ればわかるだろうが、木が嫌というほど生えこんでいる。これは撮った当時からこの有様だったわけでは決してないのだ。木は、勝手に……」
 すると憎悪をかみしめるように、自嘲をくりかえすように、写真について勝手に語り出しました。
「もともとは気分で撮ったものだ。その日が特別な記念日だったわけではなく、ただの『思い出』にと、そこにいる女が言ってくれたのだ」
 写真をもう一度確認すれば、どうやらその女というのは彼の妻なのでしょう。
「隣の部屋で撮影した。そこがこの写真に背景として相応しい部屋だったんだ。当時はそう写っていたんだ。それが、いつの日だったのか少しずつ背景に苗が生え始めたんだ。見間違いだと思えなかった。どう見ても苗だった。そして日が経つにつれ一本は成長し大人になったのかと思ったら、いつの間にか部屋の輪郭は消えて、背景には無数の苗が生えそろっていた。こんな奇想な話があってたまるものか」
 その苗は、きっと木のことなのでしょう。
「そしてある日に中央に木が生えちまっていた。その日は忘れないでいる。きっと一生この日を忘れることはないのだろうけど。部屋だったはずの空間が森の海に落ちたというわけさ。大切な大切な一枚がな」
 没落して語るほど、彼にとって写真の現象は忘れられなかったもののようです。それは解釈しましたが、気になる点はあるのでした。
「いつの日なの、中央に木が生えたのは」
 一生覚えていると言っていた。発言から毎日写真を見ていたことはなさそうだったので、その日は特別な日だったのではないか、と悪感が滲みだしたのです。
 微動だにしなかった銃が別の声で鳴き始めました。握りしめられた苦しさを耐える様子。彼は煌びやかにテーブルにある本を見つめています。
 彼の落としたレモンは転がったまま、時計が行進し、銃は大人しく黙り込みました。
「女が死んだ日だ」
 そう聞くと、私は思わず写真を見ずにいられなくなりました。森の中に暗く高く落下していく緑。
 木々が風に揺れる音が、幻聴として狂想曲の序章に聞こえました。
 こんな恐ろしいことがあっていいのでしょうか。中央のその木は死者との境界線だった。いいえ、それに驚いたのは真実ですが、それ以上にもっと酷く恐縮するものがありました。黄色い嫌気がのどを通り、匂いを発してはそれが後味として残ります。
「実際は女が死んだ日には、このレモンの木が立派に立っていたんだ。なんて、もっと写真を大事にしていればな」
 天井を仰いでいました。二人は戻ってこないのだと決心はついているみたいです。
 しかし、彼の様子を見ていると悪知恵が働き、かすかな香りなど気にせずにいてしまうのでした。
「そんな悲しいことはないでしょう。一緒にいた人がいなくなるなんて」
 ほんの少しの斜めから彼を見てみました。変わらず下をみつめています。
「私も家族に見捨てられたことがあるわ……。学校の人にも先生にも。それが本当に嫌な気持ちになるの。この感情と似ているのかな。いや、もっとあなたの悲しみはそれより強いものよね。比べ物にならないくらいねえ」
 もう一度彼を見てみました。わずかながらに頬を開き目が揺れ動いています。
 やはり同情というものは最大の武器になりえるのです。
 信頼を寄せるのです。
 このまま彼を欺こうと次の言葉を用意します、と、そのとき、先ほど忘れていたのとは違う別の匂いが脳に透き通ったのです。
 琥珀色にかがやく香。
家も学校も嫌なの。居場所も役割も無くて。
 半ば本心の言葉、その言葉が声にならない。教会の中に入ったときと同じく、口が動かなくなったのです。
 居場所が無い、役割が無いのは確かでした。
 私には、親がいないのですから……。
 即座に私は口元を手で覆うしか道がなくなりました。
 この正体はなんなのでしょうか。このお道化て踊り狂うこの塊はなんなのでしょうか。
 いつの間にか彼はこちらに向かってきたらしいのです。
 あの時と同じように目の前に立って。
 ……あら、あの時とは一体、いつのはなしでしょうか?
「そうか、君もそうなんだな」
 大量の言葉が横切るのでした。きっと穏やかな声なのでしょう。
「ぜひ、俺の話を聞いてくれないか」
 かしこまった口調。私は何重にもかさなる巨大な迷路に立ち止まり、声を出しました。
「ええ、もちろんよ。聞かせて」
 ふと窓に目をやると、水色の空に背を伸ばした森が会場を整えるがごとく黙っています。
「写真を見てくれ。その服と帽子。俺は警官だったんだ」
 写真のなかで組んだ後ろの右手には廂のあるベージュ帽が子どもと女を見守っていました。目立ちはしない、言われなければ見過ごしてしまいそうな位置取り。
 彼は警官だったのなら、その彼がどうして、私に爆弾を仕掛けたのでしょう。法を守らせるものが、法を犯すに至ったのでしょう。
「そう。で、そのうちに写真の二人と関係ができたんだ。一緒に暮らしていた。果物を育てたのも外で星を見たのも、買い物に行ったのも今更、いい思い出だ。しかし一つ、どうしても、どうすることもできない事実が起こったんだ」
 湿度のある小屋に募る淡い溜息。森は呼吸ができなくなるくらい、雲の影に埋まっているようです。
 彼もまた昔のことを思い出して、もった顔に見合わない楽し気な口調を殺し、瞼を閉じました。
「ある朝のことだ。娘は肺がひどいと言っていたんだ。息が苦しいと、困難だと。これが良くない病気だったんだ。感染症的なやつでな」
 この湿った空気が好奇におぞましいのです。彼の気分を察するには充分すぎる温度だったのでした。
「すぐに病院に連れて行ったさ。すぐにな。そのおかげで、危うく一命はとりとめられた。だが、外見に後遺症が残っちまったのさ。精神疾患とかでな。娘は中等部とやらに上がったころの年齢だよ。それでも娘は生活を楽しみにしていたんだ」
 ほんの少し天井に小さな粒が落ちてくる音が聞こえます。無数の球のような。丸い音が割れ始めたのでした。
「でも、楽しみだった中等部に入っても、やっぱりうまくいかなかったんだ。一生懸命喋る練習をしてもよ、誰も相手にしてくれなかったんだ。それだけで済むならまだしも、よくもあんなふうに殴ってくれたものだ。娘に。娘に」
 窓の外、木々が並ぶ遥か奥の奥に、煙が立つ摩擦が起りました。灰色の匂いがほのかに体に入り込んできます。
「それで教員側に訴えたんだ。代わりに俺が殴ってやっても良かったがそれはそれで問題だろう。しかし教員どもはまったく、聞いてくれなかったのさ。同僚にも頼んださ。でも、だめだったんだ。ただ忌々しい一瞥を向けられるだけさ。そんなことしている間に娘が死んだ」
 雷の前兆と、湿気の曇った匂いが私の嗅覚を詰まらせます。
「家に帰ったら、ナイフが娘の首に刺さっていたんだ赤黒い目で倒れていた」
 ドクン、と胸が鳴りました。
 無意識に、私の眼はあの棚に置かれたナイフを見てしまいます。あの希望のナイフは、今となっては腐った花から絞られた毒が塗られてるかもしれないと、私は錯覚しました。
「あの位置に刺さっているから、確実に死でいるかどうかはわからないが。それだけで終わらない。影になって見えずらかったが、あいつも腹部を刺して倒れていたんだ。きっと同じ目にあってやろうと考えたんだろうな、あいつは」
 彼の声が赤変化する激昂へと轟いていきます。
「眺めることすらもできなかった。吐き気のする笑いがこぼれて俺はいつの間にかナイフを首に運んでいたんだ。しかし貫かなかった。息をしたら血が噴き出る寸前の手前で防衛本能が働いたのだろうな。いや能動的に思ったのだ。死にたくないと。そして俺は冤罪で捕まった。それもそうだ証拠もなければ他に誰を疑うことができるだろうか。例えそうでなくても俺には受け入れるほかなかったのだ。苦しむ義務だったのだ。でも俺は許したくないことがあった。どうしても許せないことが」
 柑橘類が握りつぶされたのでしょうか。果汁がぶん殴られた酸味のある音は私の耳を狂わせるのでした。
「娘が悲惨な目に遭ってたこと。それだけは虚無な事と為してはならないと思ったのだ。だから私は訴えた。娘が苦しんでいたことも助けを求めたのに見向きもしてくれなかったことあいつらが何をして何をしなかったのかということ全部訴えたんだ。
 全部。全部、全部、全部全部訴えたんだ。それなのによあの連中、何を言ったと思う。あの警官あの教師あの子どもたち。口をそろえて何を言ったと思う。しらばっくれてなんて言ったと思う」
 そのとき空から音の光が落ちました。
「あいつら、なにも知らないって言いやがったんだ。あれだけのことをしておいて、ごみのようにしか見ていなかったんだ。娘のことも俺のことも。そんな奴らが命がどうとか幸せはどうとか傲慢なことを言うのが許せないんだ。同じ人間ごときが」
 神の行いに反対するような、それでも悪魔にはすがらないような。闇に紛れた声にはかすかな灯りが煌めいるように、私の瞳は捉えていたのでした。
「それで牢獄を抜け出した。かなり遠かったな。ここまで来るのに一日と半分はかかった。途中森を通るときに、荒れた枝に目をぶつけて、今はほとんど見えなくなったがな。それでも懐かしいこの家に戻って準備をしていたんだ。とても最悪な準備をな」
 日食されたような暗い目で、彼は息を切らしています。それはモールス信号で兵士が何かを訴えるように、ゆっくり息を切らすのでした。
「なにの準備なの」
 いたって飾り気のない表情と言葉で聞いてみたところ、彼の頬は平たい三日月になり隠された苦しみを散らせながらこう言うのでした。
「この家で大爆発を起こすことだよ」
 赤色に囁かれた戦慄は私の血を彷徨いどうしようもなく意識を覚醒させるのでした。
「誰かひとりで充分なのだ。だからお前をとっつかまえて手錠をかけた。警察も今頃は痕跡を探し始めただろうな。脱獄した俺を追っているはずなんだ。すぐにこの場所も見つけてくれるさ。きっと明日までにはな」
 胸が動いています。吐き気とともにそれが吹き消えそうなのを必死に抑えることに献身するほかありません。
 明日までにはこの爆弾が、自身もろとも木っ端微塵になってしまうなど、考えていたのは一人だけなのです。
 早く逃げなくては、早く身を守らなければ。
 ドクン、と心臓が鳴り始めました。
 あのナイフをとって、この男を脅迫して。それで走って森を抜けて。それから。
「それから……」

 チクチクと、秒針が軽く規則的に回っているのでした。

 それから……。

 一度目をつむるたった一瞬のことでした。
先ほどまで、危惧を察知した私の体は革新的に身を守ることを刺激として捕らえ、どうにかしようと反射していたのでした。体の中で情報が伝達して送られて、また伝達する繰り返しを実感していたはずなのです。
 それが、その一瞬に消えたのです。テープが巻き戻るように、一瞬にして消えたのです。

 助かったあと、私はどうすればいいの。

「お前のような奴はきっと尊い存在と扱われてきたのだろう。家族にも教師にも秩序にも神様にも。だから憎かった。だから全員集まったところで爆発を起こすのだ。日々も思い出も大嫌いな奴らも、すべて吹き飛ばすのさ」
 一連説明し終わったのか、彼は小さく独り言のように呟いたようでした。
そうすればきっと、あの写真の木も消えるだろう。あの邪魔な中央の木も森も跡形もなく焼き果てるだろう。きっと、会えるさ。
 血液が逆流しているのか正常に流れているのか、全く感じられないのです。
 きっと何かの抜け殻のようになっているのかもしれません。
 私は、さっきまでこの男を脅迫してやることを正義と捕らえていた。
 訴えるまでもなくこの男が、元警察官を捕まえることが。
 でもその後、どうするのが正解なの。
 あの家を想像しました。あの本当の家族じゃない、女の姿。
 両親がいなくなった私。
 これで満たされるのでしょうか。
 日々に満足できるのでしょうか。
 どうでもいい、はやく騙さなくては、逃げ出さなくては。
「君は、どうだったのだい」
 どしゃ降り。天井のさらに上のひさかたの雨空。
 残酷に希望をみせる曇天を仰ぐとき。誰かが傘をおさしになってくれた。
 温もりのある声でした。
 迷うことも諦めた私の頬は動き出す。
「何もなかった。楽しむこともなければ、生きていることに感謝した覚えもない。ただ死ぬから生きてきた。家に帰っても養親にいじめられる。学校にも居場所はない。こんな日々が嫌なの」
 本心とはなんなのでしょう。
「寝ても覚めて同じような日々。誰もそばにはいてくれない。誰も興味をもってくれない。将来もこんな日々が続くのではないのかしら。そう考えているといつ喜びを感じるのだろう。いつ苦しみを解放できるのだろう。いつ愛を感じるのだろう」
 私の本心なのでしょうか。
「嫌だ嫌だ。全部嫌い。養親も学校の人たちも全部嫌。神様も」
 この男のさっき語った事を思い出す。
「私が愛されていることなんてありえないわ。だから私は家を出たの。あの最悪な家を逃げ出そうとしたの」
 そんなわけはない。こんな中古品みたいな鬱みたいな言葉が並べられた本心なんてありえない。私はここから抜け出すのだ。さあ、今だ。
「大爆発を起こして。私は怖くなんかないわ。きっとあなたと同じで全部破壊したい」
 こんなものが本心のはずないのです。彼を感化させるため、動揺させるため。だましてここから出るためなのです。早く日常に戻りたい。家族に会って学校に通って。
「私は、ここに居たいの」
 顔の左右から死にかけているような、涙が流れます。これもきっと、嘘なのです。
 そんな私を見て三秒、崩壊するような表情でうなずくようでした。
「そうか。君も私と同じだったのだ」
「私を一度開放して」
 突如、彼のしわが引きつったのを、私は震えながら拝見していました。
「警官を今すぐに呼び出してくるわ。早くしましょう。きっと夜の爆発はどんな空にも響くはずだわ。ねえ、必ず戻ってくるわ。信じてちょうだい。ねえ、お願い」
「そうだな」
 愚かな愚かな愚かな。
 解放されるのです。やっと解放されるのです。
さあ、はやく。この心を終わらせてしまいましょう。
 死んでしまって、早く、今までが大切だったと気づきたい。
と、魑魅魍魎な期待をして涙に気づくのです。
 そうだったのに。空色の夕立にはれた静かな一括がこの何色か分からない高揚をぬりかえたのでした。
「そうだな、やっと会えたんだな……」
 一歩前へ出て、何か私に差し出すのでした。それは、あれほど私に幻覚を見せた塊だというのに、どうも私にはそれが希望のように見えるのでした。この世のどんなものよりも光って見えるのでした。
 彼の手にも握られたそれは、苦しさの塊りである。
「生きていたんだな……。生きていてくれたんだな」
 見覚えがある彼の顔。あれは指名手配犯の写真で見たのではない。
もっと、昔、私が精神疾患になる前に見ていた顔だ。
「レモンを持っていれば、同じ痛みを、苦しみを抱えていれば……」
 この声はそうだ。あの時、頭を撫でてくれた時の声だ。嗚呼、そうだ、なんでナイフを。
 私は自分で死のうとしたのでした。ナイフで、でもそれで、家族を巻き込んで。
 あの図鑑は、星の図鑑だ。
「もう、どこにも行かなくていい。星座を教えてくれないか。夜が明けるまで」
 窓の外は暗いのでした。そんな時間だったとは。空には玲瓏たる星が降っていました。
 月はそれ以上に輝いて、星を眩ますけれども……。
 彼の顔は穏やかなのです。
 ですが、私はこの顔を見たことがあります。あの一枚の中に、ちゃんとつっ立っているではありませんか。
 爆ぜたい、爆ぜたい。爆ぜたい。それなのに。
 夜空を指でなぞりました。

 君はきっと、そう、君はきっと。
 誰なんかよりも優しいのだから。


 一昨日誘拐事件を起こした犯人は森の色がそまっていく時刻に逮捕されたらしい。警官がそこに向かうと、すでに外にいて反抗もなく自首した。容疑は認めているということだ。
 そうこの男こそが例の脱獄囚だったのだ。年齢は半世紀を過ぎている。
 不気味なもんだ。
 部屋の隅には被害者の少女が顔を両手で覆い座っていたのだとか。取り調べ中始終無言で何をみつめていたのかも本人も知らないらしい。すぐに、日常へ帰った。
 養親のもとに帰った。
 
 それにしても奇妙なことに、部屋は生活臭が漂うばかりか荒れた形跡もさほどなかった。ただ変哲のない写真や図鑑が放置されていて、果物の匂いがした。

 まったくなんといってよいことなのか。この事件についてはほとんど明かされることはない、ごく一般の誘拐事件として今までも今もこれからも何世紀後も扱われるのだろう。

 おや、檸檬が届いた。

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