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10.セッションとライヴの間

 現在、Irish PUB fieldは休業を余儀なくされていますが、そんな折り、2000年のパブ創業以来の様々な資料に触れる機会がありました。そこで、2001~11年ごろにfield オーナー洲崎一彦が、ライターのおおしまゆたか氏と共に編集発行していた月刊メールマガジン、「クラン・コラCran Coille:アイルランド音楽の森」に寄稿していた記事を発掘しました。

 そして、このほぼ10年分に渡る記事より私が特に面白いと思ったものを選抜し、紹介して行くシリーズをこのnote上で始めることにしました。特に若い世代の皆様には意外な事実が満載でお楽しみいただけることと思います。

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 今回は、2002年当時fieldに来ていた若いギタリストが洲崎に訴えたとある問題提起のお話──。(Irish PUB field 店長 佐藤)

↓前回の記事は、こちら↓

セッションとライヴの間(2002年11月)

 しばらく、field のセッション話題から脱線し続けていたので、ここいらで本来の話題に軌道修正します。この10月から11月にかけては、海外からのゲストを交えてセッションする機会が2度もあったわけで、その様子も少しスケッチしながら「field セッションとはなんぞや?」というテーマに戻ろうと思う。  

 自然発生的セッションの理想を求めて完全なオープン・セッションであるが故に様々な矛盾をかかえながら存在する field セッション。そして、これらの矛盾は最近では「セッションそのものの無意味性」という先鋭な議論まで誘発してしまったのだ。

 これを言い出したのは、とある若いギターの男。彼は以前から時折 field セッションにやってきていたものの、アイリッシュだけにのめりこむのでもなく、東欧ジプシー音楽や、その他の音楽に広く興味のすそ野を拡大している奴。  

 先日のハロウィン仮装ライブパーティーの機会に、彼を誘って、ギター、 ブズーキ、マンドリンの撥音楽器3本だけのアイリッシュ・ユニットを作っ た時の事。数回リハーサルをしたのだが、アイリッシュといえばセッション しか経験のないギターの彼は、あらかじめチューンのセットを決めて、構成 やアレンジを考えてアンサンブルを作るという作業をアイリッシュ音楽で行 うことに当初かなりの戸惑いを示した。ただでも撥音楽器3本となると、リ ズムを合わせるのがとてもシビア。そして彼は言った。

「セッションでは誤魔化されてしまうことが、ここでは誤魔化しがきかない!  これは相当練習しなきゃいけませんよ!」  

 次のリハで、また彼は言った。

「どうしてもうまく行かない! セッション慣れし過ぎているせいかもしれ ない!」

 最後のリハでも彼はさらに言った。

「セッションって音楽的には非常に害があるものじゃないですか? field のように初心者もどんどんセッションばかりしていたら、彼らは音楽的に終わってしまいますよ。俺は今それに気が付いてギリギリ助かった気がします」 

 結局、彼が言うのはこういうことだ。セッションはある程度のその場の約 束事さえ察知すれば、なんとなく合わせてなんとなく終わってしまう。自分 の音がことさら聞かれている感じもしないし、自分も近くにいる人の音か、 大きな音を出す人の音をなんとなく聞いて合わせているだけだ。そして今ま でアイリッシュ音楽というのがこういうもんなんだと完全に誤解していた。 今回のユニットで、アイリッシュ音楽もまともに演奏する為にはやはり大変 な音楽なのだと初めて自覚した。  

 つまり、セッションは、音楽演奏が本来的に持つある種の厳しさを意識せ ずとも、状況によってはいとも簡単に音楽が成立してしまうという側面を持っているのではないか?ということなのだ。特に楽器をやりはじめて間もない初心者の人が、そういうセッションばかりに参加する事は明らかにマズイのではないか?という問題提議である。もしこの仮説が正しければ、field の 完全オープン・セッションの意義は完膚無きまでに叩きのめされる。これは、それほどまでに大きな問題提議ではないか!

 この頃、エニスのフィドラーであるパット・オコナー氏が field でライブを行い、ライブ後はそのままセッションになった。オコナー氏のフィドルはライブで聴く限り、そのリズムに独特のなまりを持っていて、即席共演者のバウロン奏者とフルート奏者は結局最後までオコナー氏のフィドルのノリに共に乗り切ることができないままだった。

パットオコナー

↑パット・オコナー氏と洲崎。(2002年10月撮影)

 またこのオコナー氏のリズムのなまりは非常にイイ雰囲気を出していて、一緒に足を踏んでいると、独特のドライブ感が身体の中にわき上がってくるような質のものなのだ。だから、ライブが終わって、場がセッションになだれ込んだ時は、私は非常に興味津々でブズーキを抱えてなるべく彼の近く、彼のななめ背後に陣取った。  

 が‥‥、いざ、セッションが始まってみると、彼のフィドルからは期待し ていた「なまり」が消え失せていたのだった。そこで彼のフィドルから出て きた音は、まわりの音に身を寄せて、軽やかに流れる非常にリラックスした ものだった。この人にとって、ライブとセッションでは明らかに演奏態度が 異なっているのだ。もっと、言うと、楽しみ方を明確に分けている。本人に 確かめたわけでは無いが、音からの判断で私はこのように確信した。  

 11月に入って、今度はカナディアン・ケルト音楽の3人組がカナダからやって来た。この時も、ライブ、そしてセッション。カナディアン・ケルト音楽は、私はあまり馴染みがなく、非常に興味深いライブとなった。ダンス・ チューンのリズムの取り方が明らかに普通のアイリッシュとは違っている。 視覚的、象徴的に言うと、たとえばリール。アイリッシュならば、片足で床 を蹴るか、足裏全体でドスンドスンと床に打ち下ろすように足踏みしながら 演奏する。これが、カナディアン流では、足のつま先とかかとを交互に床に ヒットさせてより細かくリズムを刻む。メロディー展開も少し明るめなので、全体ではまったく雰囲気の違ったものになるのだ。これは本当に興味深かっ た。カナダから出現したアシュレイ・マックアイザックが「踊るフィドラー」だったのも自然にうなずけるというものだ。  

 セッションになると、みんなの知っているのはポピュラーなアイリッシュ・ チューンなので当然なのかもしれないが、フィドルのデイビッド・パパジアンもアコのシルビアン・ロンドウもライブで見せたようなノリを全く出さない。それよりも、セッション参加者の出す音を注意深く聴いて、むしろ、自らをそれに溶け込ませようとしているかのようだ。これは決して「ただ合わせてあげてます」という感じではなくて、ライブとは全く別の楽器演奏の楽しみ方をしているとしか思えない変化なのだ。  

カナダの3人

↑右から、シルビアン・ロンドウ氏、デイビッド・パパジアン氏、ジム・エディガー氏。

 アイ研まわりのとあるギターの若い衆。エニスの頑固そうなフィドラー。 カナダの素朴で明るいミュージシャン達。時を違えず、彼らが field にもたらした刺激は非常に面白いポイントにスコッとはまる出来事だった。

 つまり「セッションはセッション、ライブはライブ」という整理整頓をどうするか?という新しいテーマが、field に投げかけられたと言えるからだ。‥‥

  ‥また、いろいろ考えなきゃいけませんね。

<洲崎一彦:京都のIrish PUB field のおやじ>

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